精選版 日本国語大辞典 「インターナショナル」の意味・読み・例文・類語
インター‐ナショナル
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資本主義体制を打破して労働者の解放を図るという社会主義思想と「万国の労働者団結せよ」のスローガンに象徴されるプロレタリア国際主義を基本的理念とした、労働運動の国際組織。インターとも略される。歴史的にみて代表的なものとしては第一インターナショナル(国際労働者協会)、第二インターナショナル、第三インターナショナル(別名、コミンテルン)などがある。
革命的な国際組織をつくる試みは、すでにオーギュスト・ブランキらの組織した季節社(1837年結成)や、ドイツ、ポーランド、イタリアなどからの亡命者によって創設され、チャーティスト運動ともかかわりあった友愛民主主義者協会(1846年結成)にみられる。またドイツの亡命者や職人たちは1836~1838年ごろ正義者同盟を結成したが、これは1847年ロンドンで共産主義者同盟へと発展し、第一インターナショナルの前身となった。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは共産主義者同盟の綱領として『共産党宣言』を執筆したが、これはプロレタリア国際主義を理論的に基礎づけた点でインターナショナルの歴史にとって重要なもので、のちにインターナショナルのスローガンとなった「万国の労働者団結せよ」はこの文書によって世界に広がった。
[加藤哲郎]
正式名称は国際労働者協会という。1848~1849年のヨーロッパの革命の敗北は労働運動を一時沈滞させたが、1858年の経済恐慌を契機にして労働運動はふたたび活発になり、全ヨーロッパ規模で労働組合や協同組合が結成され、それに伴って労働運動を国際的に結合させる動きもよみがえった。こうした流れのなかで、1864年9月28日ロンドンで開かれた労働者の国際会議で、国際労働者協会が設立された。マルクスが創立宣言、暫定規約などの起草にあたり、そのなかには「労働の解放」が書き込まれた。政治団体、労働組合、協同組合レベルでの参加だけでなく、地域別の個人加盟も行われた。最高決定機関は大会で、1866年ジュネーブ、1867年ローザンヌ、1868年ブリュッセル、1869年バーゼル、1872年ハーグで開かれた。執行機関はロンドンに拠を置く総評議会で、地域ごとに支部がつくられ、組織原則は中央集権的であった。加盟人数の実数は不明だが、1866年で2万5000人ほどといわれる。活動のピークは、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)に対する闘いとパリ・コミューン(1871)における連帯運動であった。当初は、労働者の経済利害に共通基盤を置くだけのさまざまなイデオロギー的潮流(マルクス主義、イギリスの労働組合主義、ラテン系諸国のプルードン主義、バクーニン主義=無政府主義、ドイツのラッサール主義)からなっていたが、1867年のローザンヌ大会における政治闘争の承認、1868年のブリュッセル大会での生産手段や土地の共有化の承認、1871年のロンドン会議における政治権力の奪取や独自の労働者政党の結成の決議などにみられるように、しだいにマルクス主義が支配的となった。1872年のハーグ大会では、マルクス主義とバクーニンの無政府主義の対立が激化し、バクーニン派は追放され、総評議会の所在地もロンドンからニューヨークに移され、第一インターナショナルは事実上解体した。マルクス派の正式の解散宣言は1876年にフィラデルフィアで行われ、バクーニン派も1881年のロンドン大会以降インターナショナルの維持が不可能となった。
[加藤哲郎]
パリ・コミューン後の反動によって停滞していた労働運動も、1880年後半の経済恐慌でふたたび復活し、ドイツ社会主義労働者党(1875年結成)を筆頭にヨーロッパ各国とアメリカに労働者政党が誕生した。こうしたなかで新しいインターナショナルを結成する気運も盛り上がり、89年7月14日、フランス革命100周年を記念して20か国からパリに集まった社会主義者の国際大会で、第二インターナショナルが事実上結成された。第1回大会は91年ブリュッセルで開かれた。第一インターナショナルとは異なって、労働者政党や労働組合などの集団加盟が原則で、個人加盟は行われなかった。しかし中央集権的組織原則はなく、国際社会主義事務局がブリュッセルに設置されたのが1900年になってからのことであり、それも事務連絡機関といった性格のものであった。第二インターナショナルの活動の第一期といわれる1889~1904年は、資本主義の自由競争的段階から独占資本主義への移行期にあたり、労働者代表の議会参加や出版の自由などの可能性によって合法的活動の条件が生まれる一方、労働貴族や組合官僚も出現した。こうした背景のなかで第二インターナショナル加盟政党は大衆の間で影響力を拡大し、マルクス主義も労働運動のなかで支配的なものとなったが、労働者の目前の利益のために最終目標(社会主義の達成)を放棄した改良主義、漸進主義も発生した。この傾向は、それまでの最大の指導者エンゲルスの死(1895)後急速に強まり、1898年にベルンシュタインが修正主義を公然と主張した。パリ大会(1900)、アムステルダム大会(1904)では、この修正主義が「ことばのうえ」では非難されたものの、批判の先頭にたったカウツキー自身も「行動のうえ」では修正主義に同調していった。
1904年前後から資本主義は帝国主義段階に突入し、列強間の植民地分割と帝国主義戦争の時期に入るが、この期の第二インターナショナルにとって最大の問題は、迫りくる帝国主義戦争に対する社会主義者の態度の問題であり、これをめぐって第二インターナショナルは分裂・解体していった。1907年のシュトゥットガルト大会、1912年のバーゼル大会では、レーニンやローザ・ルクセンブルクの努力でいちおう戦争反対の決議を行い、戦争勃発(ぼっぱつ)の場合には経済的・政治的危機を資本主義打倒のために利用するという方針を決めた。だが1914年に第一次世界大戦が勃発すると、第二インターナショナル加盟政党は、ボリシェビキ党(ロシア)など一部を除いて、自国政府の帝国主義戦争遂行を支持する立場に回った。少数派となった反戦主義者は、1915年ツィンメルワルト(スイス)と1916年キンタール(スイス)で国際主義者大会を開き、多数派の態度を非難、即時停戦を訴えた。だがこの少数派の内部でも、レーニンらに率いられ「帝国主義戦争の内乱への転化」を唱えた「左派」と、カウツキーやフリードリヒ・アドラーらに率いられた「中央派」に分裂していた。前者は第三インターナショナルの結成を主張、後者は第二インターナショナルの復活を唱えた。
[加藤哲郎]
ロシア革命と第一次大戦終結の後、旧第二インターナショナルの右派に属していた社会民主主義者は、1919年2月ベルンに再建のための準備会を開き、1920年にはジュネーブで第1回大会をもった。これはベルン・インターナショナルとよばれる。一方、中央派に属する諸政党(フランス社会党、イギリス独立労働党、ドイツ独立社会民主党、オーストリア社会民主党など)も、その国際的結集を図って1921年2月ウィーンにおいて国際社会党同盟を結成した。ウィーン・インターともいうが、武力による政権奪取の可能性やプロレタリア独裁の承認などを綱領に盛り込みながら、ロシア革命への態度はあいまいであったため、第二半インターナショナルとよばれた。
1922年にベルリンでの三つのインターナショナル((1)ベルン・インター、(2)ウィーン・インター、(3)コミンテルン)の統一のための国際会議が失敗したのち、第二インターナショナル(ベルン・インター)と第二半インターナショナル(ウィーン・インター)は統一して社会主義労働者インターナショナルを結成した(1923年5月)。政治的には第二インターナショナルの基調を受け継いだ。ドイツやオーストリアの社会民主党はしばしば政権にも参加したが、社会主義的変革に着手することはできず、第三インターナショナルとの統一戦線には消極的で、ファシズムの台頭と第二次大戦のなかで解体していった。第二次大戦後のコミスコ(1947年結成)、社会主義インターナショナル(1951年結成)は、この系譜に属する。
[加藤哲郎]
正式名称は共産主義インターナショナルで、コミンテルンの略称が用いられた。第一次大戦での「第二インターナショナルの崩壊」を確認しロシア革命を勝利させたレーニンは、この革命を世界革命へと拡大・発展させてゆくために、1919年1月、第三インターナショナル招集の檄(げき)を発し、同年3月2~6日モスクワで開かれた国際共産主義者会議で、第三インターナショナル創立を宣言した。創立会議には、21か国35の組織を代表する52名の代表が出席したが、その中心は、ロシア共産党(ボリシェビキ)と、前年末に結党したばかりで第三インター創設には当初時期尚早の見解を示していたドイツ共産党であった。第三インターナショナルの活動は、1919~1923年の革命的情勢期、1924~1928年の相対的安定期、1929~1933年の大恐慌期、1934~1938年の反ファッショ闘争期、1939~1943年の第二次大戦期に大まかに区分されるが、その四半世紀の活動を通じて、西欧諸国にとどまらず、アジア、アフリカ、ラテンアメリカを含む全世界に共産主義政党を結成し、共産主義の思想を普及させ、多くの共産主義活動家を育成した。
レーニンが存命した初期のコミンテルンは、ロシア革命を世界に拡大することを目標とし、とりわけドイツ革命の成功を目ざしていたが、第一次大戦後の資本主義の復興と第二インター再建の動きのなかで、ひとまず各国共産党の思想的強化と大衆化の迂回(うかい)をとることを余儀なくされ、プロレタリア統一戦線と労働者政府樹立の戦術が採用された(1922年第4回大会)。レーニンの死とドイツでの労働者政府樹立の試みの失敗ののち、第三インターは、しだいにソ連共産党の政策に左右されるようになり、イデオロギー的にはスターリンによって解釈された「マルクス・レーニン主義」、組織的にはボリシェビキ党の組織原則であった「民主集中制」が各国共産党を拘束するものとされ、各国共産党は「単一世界党」の支部としてモスクワの執行委員会の決定への絶対服従を強いられていった。このため、1920年代後半のスターリンとトロツキーの「一国社会主義」などをめぐる政争は各国支部にも波及し、除名されたトロツキー派はのちに「第四インター」を結成していった。また、大恐慌期には、ソ連邦内での「一国社会主義建設」の強行(工業化と農業集団化、第一次五か年計画)に照応した左翼主義的戦術が採用され(「社会ファシズム」論、「階級対階級」論、「赤色労働組合」主義)、統一戦線的志向は後景に退いた。1935年7~8月の第7回大会で、反ファシズムの広範な統一戦線・人民戦線へとその戦略を転換させ、フランスやスペインの人民戦線政府樹立に貢献したが、その反面、ソ連邦の内政外交にますます従属し、イデオロギー的にはスターリン崇拝が強まり、組織的にはソ連邦国家の外局的役割をも担うこととなり、モスクワにいた第三インター活動家の多くもスターリン粛清の犠牲となった。第二次大戦勃発と反ファシズム米英ソ連合の成立により、第三インターのソ連にとっての意義は減退し、各国共産党も自主的力量を蓄えてきたため、1943年5月、第三インターは大会も開くことなく解散された。第二次大戦後、1947年にヨーロッパ共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)が結成されたが、「スターリン批判」に伴い1956年に解散され、以後の国際共産主義運動は、ユーロコミュニズムなど自主的な潮流の台頭もあって、各党間の個別的交渉・連絡にゆだねられた。
1989年の東欧革命と1991年ソ連解体によって、国際共産主義運動は基本的に崩壊した。現代のインターナショナル組織としては、第二インターの系譜を引く社会主義インターナショナルが、旧共産主義勢力をも吸収して世界で130以上の政党を組織し、もっとも有力なものとなった。
[加藤哲郎]
『W・Z・フォスター著、インタナショナル研究会訳『三つのインターナショナルの歴史』(1957・大月書店)』▽『W・アーベントロート著、野村修訳『ヨーロッパ労働運動史』(1968・合同出版)』▽『加藤哲郎著『コミンテルンの世界像』(1991・青木書店)』▽『K・マクダーマット、J・アグニュー著、萩原直訳『コミンテルン史』(1998・大月書店)』
もともとは18世紀末年に使われ出した英語の形容詞で〈国際〉と訳されているが,名詞としてはふつう国際労働者協会International Working Men's Associationおよびその後継者ないし類似の国際組織をさす。
1864年9月28日,ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで開かれた国際労働者集会で創立された。この集会は,2年前から交流を進めていたイギリスとフランスの労働組合活動家が,ストライキの際の相互連帯とポーランド革命支援を念頭に置きつつ招集したものだったが,ドイツ,ポーランドからの亡命者なども参加した。集会では,労働者の国際的な協会associationの設立とその規約を作成する〈臨時中央評議会〉の設置が決議された。
評議会(1866年以降,総評議会)の一員に選ばれ,新生の国際組織の性格づけに決定的な影響を与えたのは,その集会に招かれて出席していたドイツからの亡命文筆家マルクスだった。64年11月,臨時中央評議会が満場一致で採択した二つの基本文書はいずれもマルクスの筆になる。第1は〈創立宣言〉で,1848年以降,商工業が未曾有の発展を示したにもかかわらず労働者大衆の貧困は減少しなかった事情を述べたあと,〈明るい面〉として工場法と協同組合運動の進展を挙げ,さらに政治権力の獲得が労働者階級の義務となったことを指摘し,《共産党宣言》と同じく〈万国のプロレタリア団結せよ〉と結んだ。第2は〈暫定規約〉(1866年の第1回大会で〈一般規約〉として承認された)である。その前文は〈労働者階級の解放は労働者階級自身の手でかちとられなければならない〉と明言し,それが〈あらゆる階級支配の廃絶をめざす闘争〉であり,〈近代社会が成立しているすべての国々におよぶ社会問題〉であると述べた。これは1860年代に入ってヨーロッパ各地で自立の傾向を強めつつあった労働運動に共通の課題を示して相互連帯を促す意図を示してはいたが,教条的な組織化を目ざすものではなかった。事実,支部組織はまだ国単位でなく,もっと小さな多様なグループから成っており,個人加盟も認められていた。
加盟者は,創立当初は,イギリスを除くと少なかったが,1867年の経済恐慌に続くストライキを通じてフランス(パリ,リヨン,マルセイユなど),ベルギー,スイスで組織が広がり,イギリスでは69年には28の労働組合が加盟するに至った。さらにイタリア,スペイン,ポルトガル,オランダ,デンマーク,アメリカに支部があった。オーストリア・ハンガリー,とくにドイツではいち早く社会主義政党が形成されつつあったが,結社法のため,団体加盟には至らず,むしろベッカーJ.P.Becker(1809-86)を中心とするジュネーブの〈ドイツ語支部〉の活動が活発だった。こうした支部は,各地域の運動の伝統と状況によりさまざまな性格をもっており,そのことは1866年から69年まで毎年,ジュネーブ,ローザンヌ,ブリュッセル,バーゼルで開かれた大会の議論にも反映していた。とくにフランスのいわゆるプルードン主義者の発想は,労働者の社会的解放にとって政治的自由の実現が不可欠だとするマルクスの考え方とは異質だったが,組織が地理的に広がるにつれマルクスの支持者が多数を占めていった。第3回,第4回大会では,鉱山,鉄道,耕地,森林などは社会の共同所有たるべきだという決議がなされ,協会の資本主義的私有財産制に対する批判的立場が鮮明になった。70年の普仏戦争に際しては,総評議会はフランス,ドイツの労働者が平和と友好を呼びかけ合ったことを高く評価し,ナポレオン3世の没落を歓迎したが,フランスの労働者がさらに新政府の打倒を試みることには否定的だった。しかし,71年,パリ・コミューンの蜂起が起こると,マルクスは《フランスにおける内乱》(1871)を書いて断固たる支持を与えた。そして協会を,労働者階級の政治権力獲得をめざす強固な政党組織に変えようとした。他方,ジュラ地方(フランス東部),イタリア,スペインなどの支部は,国家を否定するバクーニンの強い影響もあって,〈反権威主義〉を唱え支部の自治を擁護した。両派は激しく対立し,3年ぶりで開かれ,初めてマルクスも出席した72年のハーグ大会でバクーニンらは除名された。だが,協会は,諸政府の弾圧にさらされただけでなく,労働運動が国ごとに編成されていく傾向に対応できなくなっていたのである。それを洞察したマルクスは,同大会で総評議会のニューヨーク移転を決議させ,事実上,協会の歴史に終止符を打った(正式解散は76年)。
除名された〈反権威主義派〉は,73年ジュネーブで,ベルギー,オランダなどからの代表を加えて第1回大会を開き活動を続けたが,それも77年の第4回大会(ベルビエ)が最後になった。
1880年代になると,すでに息を吹きかえし労働組合組織の時代を迎えたフランスの労働者と,〈新組合運動〉が展開しつつあったイギリスの労働者が中心となって,具体的な労働条件の改善,とくに8時間労働日の実現をめざす国際会議が開かれるに至った。その3回目が89年7月,パリで開催されたが,主としてフランス社会主義運動内部の対立から,それまで主導権を取ってきていた〈ポッシビリスト(可能派)〉(分権的な組織論に立ち,ブルジョア政党との連携も辞さず可能な改良をめざす)の大会と,エンゲルスが支援した〈マルクス主義者〉の大会が,同時並行して開かれることになった。19ヵ国,約180名の外国代表を迎えた後者のほうが,国際的には重みがあり,これが事実上,第二インターナショナルの創立大会となった。しかし新しい国際組織は,国際労働者協会の後継者をもって任じてはいたが,正式な名称も規約もなかった。1900年の第5回大会以降,国際社会主義大会と称するようになったが,第三インターナショナル(コミンテルン)の動きが胎動し始めてから,それと対比的に第二インターナショナルと呼ばれるようになり,それが一般化した。このパリ大会では,なかんずく,8時間労働日要求のために,翌1890年5月1日を期して国際的に示威運動を行うことが決められた(メーデーの起源)。第2回大会は91年,ブリュッセルで開かれ,国際労働者大会の一本化が実現し,チューリヒ(1893),ロンドン(1896)と大会を重ねていった。参加者は各国各地域の運動体験について報告を聞き,労働者保護立法,労働組合の組織,ストライキ,農業問題,教育問題,そして軍国主義,戦争に反対する社会主義者の態度などについて議論を行った。しかし,この時期,最大の焦点となったのは,社会主義の実現のために〈立法・議会行動を必須の一手段〉と考えるドイツ社会民主党をはじめとする人びとと,反議会主義的でゼネストを重視するオランダのドメラ・ニーウェンハイスDomela Nieuwenhuis(1846-1919)のような,いわゆる〈アナーキスト〉との対立であり,この問題は,ロンドン大会で〈アナーキスト〉の排除決議が採択されてようやく決着がついた。それは,1890年の帝国議会選挙に際し得票率では早くも第一党になり,同年〈社会主義者鎮圧法〉が失効してから急速に党勢を伸ばしたドイツ社会民主党が,国際的な場で主導権を取っていく過程でもあった。それに伴いマルクス主義が第二インターナショナルの主流を形成した。さらに,1900年には,その年パリで開かれた第5回大会の決議に基づいて,各国代表2名から成る国際社会主義事務局Bureau Socialiste International(BSI)が設置され,その執行委員会の機能をバンデルベルデÉmile Vandelverde(1866-1938)らベルギー代表団が果たすとともに常設書記局がベルギー労働党本部のあるブリュッセルの〈人民の家〉に置かれることになった。事務局は錚々たる人物から成り,14年7月までに16回の会議を開いて重要問題を議した。書記局も,とくに1905年にユイスマンスCamille Huysmans(1871-1968)(ベルギー)が書記長になってから情報の収集伝達に大きな役割を果たした。
こうして第二インターナショナルは常設の制度となったが,それでもなお,事情を異にする国ごとの組織のゆるい連合体であり,事務局の権能も加盟組織間の連絡調整にとどまっていたところにその特徴がある。主力は,ドイツ,フランス,イギリス,オーストリア・ハンガリー,ベルギー,オランダで,亡命者によって代表されたロシア,ポーランドも重要な存在だった。そうしたヨーロッパの約20ヵ国に対し,他の地域からはアメリカ,オーストラリア,アルゼンチンなどごく少数であり,アジアでは日本だけであった(日本は1901年加盟,片山潜が事務局員に選ばれ,第6回大会に出席。第7回大会には加藤時次郎が参加したが,10年の〈大逆事件〉以降,関係は名目的にすぎなくなった)。
第二インターナショナルは,1900年以降も引き続き社会政策や労働組合に関する諸問題に取り組み,また,世界各地の圧政に対し抗議の声をあげたが,帝国主義列強間の対立が激化する時期にあって,反戦勢力として大きな存在になっていった。日露戦争中に開かれたアムステルダム大会(1904)では片山潜とプレハーノフが友好の握手をし,シュトゥットガルト大会(1907)では,レーニン,ローザ・ルクセンブルクらの,社会革命への展望を含む修正案を採り入れた反戦決議がなされ,コペンハーゲン大会(1910)では,軍縮問題が討議された。さらに,バルカン戦争の起こった12年には,22ヵ国545名が急遽(きゆうきよ)バーゼルで大会を開き,反戦の誓いを新たにした。しかし,反戦問題や植民地問題,移民問題の討議を通じて意見の相違も明確になっていった。一つは,ドイツ社会民主党の組織温存主義的な傾向に対する,とくにフランス人の反発(アムステルダム大会でのベーベル=ジョレス論争)に見られるような各国の伝統と状況に由来する違いである。いっそう深刻だったのは,革命を志向し帝国主義を批判する左派と,改良に重点を置き植民地領有・移民制限に原則的反対を唱えない右派との対立である。カウツキーに代表される〈中央派〉が組織統一の理論を提供したが,14年8月,第1次世界大戦の勃発に際して,第二インターナショナルは実際に国際的な反戦行動を取ることができなかった。その月ウィーンで開催されるはずだった第10回大会は実現せずに終わり,組織は弱体化した。
大戦中,左派はツィンマーワルト運動に結集し,1917年のロシア革命以後,そこからコミンテルン創立の動きが始まる。ボリシェビキに批判的な人びとは,イギリス労働党の主導権のもと,大戦中の敵対関係を克服すべく,19年2月,ベルンに会議を開いた。両者の橋渡しを目ざした,アードラーFriedrich Adler(1879-1960)(オーストリア)らのウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)の試みは成功せず,第二と第二半インターナショナルは,23年ハンブルクで合同大会を開き,ここに〈社会主義労働者インターナショナル〉が成立し,コミンテルンと競合,対立することになった。
→コミンテルン
執筆者:西川 正雄
労働歌。パリ・コミューンのとき,革命家で詩人のE.ポティエが1871年に作った詩に,ドジェーテルPierre Degeyter(1848-1932)という素人作曲家が88年に作曲した。労働運動のなかで広く歌われてきたが,革命後のソ連邦では,1944年に新しい国歌が採用されるまでは国歌として歌われた。旧ソビエト共産党の党歌に定められていた。日本でも〈インター〉として,1922年ころから労働運動のなかで広く歌われている。〈たて,うえたるものよ〉の冒頭句で知られる訳詞は,佐野碩と佐々木孝丸のものである。
執筆者:森田 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
①第1インターナショナル The First International 1864年9月にロンドンで結成された,世界最初の国際的な労働者の大衆組織である国際労働者協会(International Working Men's Association)をさす。西ヨーロッパ諸国の労働運動の発展を背景とし,63年のポーランドの反乱に対する英仏労働者の支持運動が創立の契機となった。創立宣言と規約はマルクスによって起草され,ヨーロッパ諸地域で発展しつつあった労働運動の相互連帯が説かれた。創立当初からマルクス派とプルードン派が対立したが,しだいに前者が優勢となり,68年の大会では土地や鉄道などを社会的に共同所有する必要が提唱された。パリ・コミューンののち,これを公然と支持した協会に対する各国政府の弾圧が強化され,また協会内部でマルクス派に反対するバクーニン派が台頭したこともあり,72年のハーグ大会で協会は実質的に活動を停止した。
②第2インターナショナル The Second International 1870年代後半から80年代にかけて欧米諸国に社会主義政党が設立され,工業労働者の増大とともにその勢力を増していた。こうした状況のなかで国際的な労働者組織の再建要求が高まった。89年7月,パリで欧米19カ国の代表参加のもとに国際労働者大会が開かれ,そこで新たな組織の創立が決定された。この組織は結成当初,正式な名称を持たなかったが,1900年の第5回大会以降,国際社会主義者大会と称するようになり,その後,第3インターナショナル(コミンテルン)が登場するとそれとの対比で第2インターナショナルの名称で呼ばれるようになった。この組織は,すでに独自の発展をとげていた各国の労働者政党,労働組合のゆるい連合体であった。ただ,1896年のロンドン大会でアナーキスト(無政府主義者)が排除されるとマルクス主義が優勢となり,なかでもドイツ社会民主党(SPD)が大きな位置を占めた。帝国主義列強の対立が激化するなかで,労働問題をめぐる協議とともに反戦平和が重要な課題となり,戦争反対の決議(1907年,12年)が行われた。しかししだいに,改良主義右派,ベーベル,カウツキーらの中央派,革命を志向するレーニンらの左派の間で,議会主義や植民地,戦争といった問題をめぐる対立が深まった。こうした矛盾は,第一次世界大戦が勃発すると一挙に露呈する。ドイツ,オーストリア,フランス,イギリスなど社会主義政党が自国政府の戦争遂行策を支持したことにより各国の社会主義政党間の連帯は崩壊し,その後1920年に組織は事実上消滅した。
③第3インターナショナルコミンテルン
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…もともとは18世紀末年に使われ出した英語の形容詞で〈国際〉と訳されているが,名詞としてはふつう国際労働者協会International Working Men’s Associationおよびその後継者ないし類似の国際組織をさす。
[国際労働者協会(第一インターナショナル)]
1864年9月28日,ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで開かれた国際労働者集会で創立された。この集会は,2年前から交流を進めていたイギリスとフランスの労働組合活動家が,ストライキの際の相互連帯とポーランド革命支援を念頭に置きつつ招集したものだったが,ドイツ,ポーランドからの亡命者なども参加した。…
…民族的な音楽の特徴を使ったものは,むしろ例外に属するが,例としては,R.タゴールの作詞・作曲によるインド,バングラデシュ,ブータンの国歌,日本の《君が代》などがあげられる。 なお,《インターナショナル》すなわち〈国際社会主義労働運動歌〉(E.ポティエ作詞,P.ドジェーテル作曲)は,狭義の国歌ではないが,ソ連やユーゴスラビアなどで一時期は国歌の代りに使われた。 国歌は国や民族の聴覚的な象徴であるから,音楽作品において国を表示するために国歌を引用することがある。…
※「インターナショナル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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