インターナショナル(英語表記)The International

  • International
  • L’internationale

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

プロレタリアートの団結と解放を目指し,運動の発展をはかるため結成された,労働者,社会主義者およびその団体の国際組織。普通第1,2,3インターナショナルをさすが,社会主義インターナショナルやトロツキストの第4インターナショナルなどをさす場合もある。第1インターナショナル (国際労働者協会) は,1864年ロンドンで結成され,76年フィラデルフィア大会で解散した。第2インターナショナル (国際社会主義者大会) は,89年フランス革命百年祭を機会にパリで結成され,1914年第1次世界大戦の勃発に際して,加盟団体のほとんどが自国の参戦に協力したため,事実上解体した。大戦後の 23年に左派を除いて再建された組織が労働者社会主義インターナショナルで,第2次世界大戦後の社会民主主義的組織に引継がれる。第3インターナショナルは「共産主義インターナショナル (略称コミンテルン ) 」といい,1919年3月,レーニンボルシェビキが,モスクワに亡命中の社会主義者を中心に結成,社会民主主義者を排除し,世界革命を目指す共産党樹立とその指導をおもな任務として出発したが,43年解散した。

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デジタル大辞泉の解説

[名]
(International)社会主義運動の国際組織。インター。→第一インターナショナル第二インターナショナルコミンテルン
(〈フランス〉Internationale)万国労働者の歌。1871年、革命歌としてフランスで作られた。1944年までソ連の国歌。インター。
[形動]国際間の。国際的。「インターナショナルな大会」

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デジタル大辞泉プラスの解説

フランスの紙メーカー、OXFORDのメモ帳、ノートのブランド。ハードカバーとソフトカバータイプがある。

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世界大百科事典 第2版の解説

もともとは18世紀末年に使われ出した英語の形容詞で〈国際〉と訳されているが,名詞としてはふつう国際労働者協会International Working Men’s Associationおよびその後継者ないし類似の国際組織をさす。
[国際労働者協会(第一インターナショナル)]
 1864年9月28日,ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで開かれた国際労働者集会創立された。この集会は,2年前から交流を進めていたイギリスとフランスの労働組合活動家が,ストライキの際の相互連帯とポーランド革命支援を念頭に置きつつ招集したものだったが,ドイツ,ポーランドからの亡命者なども参加した。
労働歌。パリ・コミューンのとき,革命家で詩人のE.ポティエが1871年に作ったに,ドジェーテルPierre Degeyter(1848‐1932)という素人作曲家が88年に作曲した。労働運動のなかで広く歌われてきたが,革命後のソ連邦では,1944年に新しい国歌が採用されるまでは国歌として歌われた。旧ソビエト共産党の党歌に定められていた。日本でも〈インター〉として,1922年ころから労働運動のなかで広く歌われている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

資本主義体制を打破して労働者の解放を図るという社会主義思想と「万国の労働者団結せよ」のスローガンに象徴されるプロレタリア国際主義を基本的理念とした、労働運動の国際組織。インターとも略される。歴史的にみて代表的なものとしては第一インターナショナル(国際労働者協会)、第二インターナショナル、第三インターナショナル(別名、コミンテルン)などがある。
 革命的な国際組織をつくる試みは、すでにオーギュスト・ブランキらの組織した季節社(1837年結成)や、ドイツ、ポーランド、イタリアなどからの亡命者によって創設され、チャーティスト運動ともかかわりあった友愛民主主義者協会(1846年結成)にみられる。またドイツの亡命者や職人たちは1836~1838年ごろ正義者同盟を結成したが、これは1847年ロンドンで共産主義者同盟へと発展し、第一インターナショナルの前身となった。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは共産主義者同盟の綱領として『共産党宣言』を執筆したが、これはプロレタリア国際主義を理論的に基礎づけた点でインターナショナルの歴史にとって重要なもので、のちにインターナショナルのスローガンとなった「万国の労働者団結せよ」はこの文書によって世界に広がった。[加藤哲郎]

第一インターナショナル

正式名称は国際労働者協会という。1848~1849年のヨーロッパの革命の敗北は労働運動を一時沈滞させたが、1858年の経済恐慌を契機にして労働運動はふたたび活発になり、全ヨーロッパ規模で労働組合や協同組合が結成され、それに伴って労働運動を国際的に結合させる動きもよみがえった。こうした流れのなかで、1864年9月28日ロンドンで開かれた労働者の国際会議で、国際労働者協会が設立された。マルクスが創立宣言、暫定規約などの起草にあたり、そのなかには「労働の解放」が書き込まれた。政治団体、労働組合、協同組合レベルでの参加だけでなく、地域別の個人加盟も行われた。最高決定機関は大会で、1866年ジュネーブ、1867年ローザンヌ、1868年ブリュッセル、1869年バーゼル、1872年ハーグで開かれた。執行機関はロンドンに拠を置く総評議会で、地域ごとに支部がつくられ、組織原則は中央集権的であった。加盟人数の実数は不明だが、1866年で2万5000人ほどといわれる。活動のピークは、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)に対する闘いとパリ・コミューン(1871)における連帯運動であった。当初は、労働者の経済利害に共通基盤を置くだけのさまざまなイデオロギー的潮流(マルクス主義、イギリスの労働組合主義、ラテン系諸国のプルードン主義、バクーニン主義=無政府主義、ドイツのラッサール主義)からなっていたが、1867年のローザンヌ大会における政治闘争の承認、1868年のブリュッセル大会での生産手段や土地の共有化の承認、1871年のロンドン会議における政治権力の奪取や独自の労働者政党の結成の決議などにみられるように、しだいにマルクス主義が支配的となった。1872年のハーグ大会では、マルクス主義とバクーニンの無政府主義の対立が激化し、バクーニン派は追放され、総評議会の所在地もロンドンからニューヨークに移され、第一インターナショナルは事実上解体した。マルクス派の正式の解散宣言は1876年にフィラデルフィアで行われ、バクーニン派も1881年のロンドン大会以降インターナショナルの維持が不可能となった。[加藤哲郎]

第二インターナショナル

パリ・コミューン後の反動によって停滞していた労働運動も、1880年後半の経済恐慌でふたたび復活し、ドイツ社会主義労働者党(1875年結成)を筆頭にヨーロッパ各国とアメリカに労働者政党が誕生した。こうしたなかで新しいインターナショナルを結成する気運も盛り上がり、89年7月14日、フランス革命100周年を記念して20か国からパリに集まった社会主義者の国際大会で、第二インターナショナルが事実上結成された。第1回大会は91年ブリュッセルで開かれた。第一インターナショナルとは異なって、労働者政党や労働組合などの集団加盟が原則で、個人加盟は行われなかった。しかし中央集権的組織原則はなく、国際社会主義事務局がブリュッセルに設置されたのが1900年になってからのことであり、それも事務連絡機関といった性格のものであった。第二インターナショナルの活動の第一期といわれる1889~1904年は、資本主義の自由競争的段階から独占資本主義への移行期にあたり、労働者代表の議会参加や出版の自由などの可能性によって合法的活動の条件が生まれる一方、労働貴族や組合官僚も出現した。こうした背景のなかで第二インターナショナル加盟政党は大衆の間で影響力を拡大し、マルクス主義も労働運動のなかで支配的なものとなったが、労働者の目前の利益のために最終目標(社会主義の達成)を放棄した改良主義、漸進主義も発生した。この傾向は、それまでの最大の指導者エンゲルスの死(1895)後急速に強まり、1898年にベルンシュタインが修正主義を公然と主張した。パリ大会(1900)、アムステルダム大会(1904)では、この修正主義が「ことばのうえ」では非難されたものの、批判の先頭にたったカウツキー自身も「行動のうえ」では修正主義に同調していった。
 1904年前後から資本主義は帝国主義段階に突入し、列強間の植民地分割と帝国主義戦争の時期に入るが、この期の第二インターナショナルにとって最大の問題は、迫りくる帝国主義戦争に対する社会主義者の態度の問題であり、これをめぐって第二インターナショナルは分裂・解体していった。1907年のシュトゥットガルト大会、1912年のバーゼル大会では、レーニンやローザ・ルクセンブルクの努力でいちおう戦争反対の決議を行い、戦争勃発(ぼっぱつ)の場合には経済的・政治的危機を資本主義打倒のために利用するという方針を決めた。だが1914年に第一次世界大戦が勃発すると、第二インターナショナル加盟政党は、ボリシェビキ党(ロシア)など一部を除いて、自国政府の帝国主義戦争遂行を支持する立場に回った。少数派となった反戦主義者は、1915年ツィンメルワルト(スイス)と1916年キンタール(スイス)で国際主義者大会を開き、多数派の態度を非難、即時停戦を訴えた。だがこの少数派の内部でも、レーニンらに率いられ「帝国主義戦争の内乱への転化」を唱えた「左派」と、カウツキーやフリードリヒ・アドラーらに率いられた「中央派」に分裂していた。前者は第三インターナショナルの結成を主張、後者は第二インターナショナルの復活を唱えた。[加藤哲郎]

第二半インターナショナルと社会主義労働者インターナショナル

ロシア革命と第一次大戦終結の後、旧第二インターナショナルの右派に属していた社会民主主義者は、1919年2月ベルンに再建のための準備会を開き、1920年にはジュネーブで第1回大会をもった。これはベルン・インターナショナルとよばれる。一方、中央派に属する諸政党(フランス社会党、イギリス独立労働党、ドイツ独立社会民主党、オーストリア社会民主党など)も、その国際的結集を図って1921年2月ウィーンにおいて国際社会党同盟を結成した。ウィーン・インターともいうが、武力による政権奪取の可能性やプロレタリア独裁の承認などを綱領に盛り込みながら、ロシア革命への態度はあいまいであったため、第二半インターナショナルとよばれた。
 1922年にベルリンでの三つのインターナショナル((1)ベルン・インター、(2)ウィーン・インター、(3)コミンテルン)の統一のための国際会議が失敗したのち、第二インターナショナル(ベルン・インター)と第二半インターナショナル(ウィーン・インター)は統一して社会主義労働者インターナショナルを結成した(1923年5月)。政治的には第二インターナショナルの基調を受け継いだ。ドイツやオーストリアの社会民主党はしばしば政権にも参加したが、社会主義的変革に着手することはできず、第三インターナショナルとの統一戦線には消極的で、ファシズムの台頭と第二次大戦のなかで解体していった。第二次大戦後のコミスコ(1947年結成)、社会主義インターナショナル(1951年結成)は、この系譜に属する。[加藤哲郎]

第三インターナショナル

正式名称は共産主義インターナショナルで、コミンテルンの略称が用いられた。第一次大戦での「第二インターナショナルの崩壊」を確認しロシア革命を勝利させたレーニンは、この革命を世界革命へと拡大・発展させてゆくために、1919年1月、第三インターナショナル招集の檄(げき)を発し、同年3月2~6日モスクワで開かれた国際共産主義者会議で、第三インターナショナル創立を宣言した。創立会議には、21か国35の組織を代表する52名の代表が出席したが、その中心は、ロシア共産党(ボリシェビキ)と、前年末に結党したばかりで第三インター創設には当初時期尚早の見解を示していたドイツ共産党であった。第三インターナショナルの活動は、1919~1923年の革命的情勢期、1924~1928年の相対的安定期、1929~1933年の大恐慌期、1934~1938年の反ファッショ闘争期、1939~1943年の第二次大戦期に大まかに区分されるが、その四半世紀の活動を通じて、西欧諸国にとどまらず、アジア、アフリカ、ラテンアメリカを含む全世界に共産主義政党を結成し、共産主義の思想を普及させ、多くの共産主義活動家を育成した。
 レーニンが存命した初期のコミンテルンは、ロシア革命を世界に拡大することを目標とし、とりわけドイツ革命の成功を目ざしていたが、第一次大戦後の資本主義の復興と第二インター再建の動きのなかで、ひとまず各国共産党の思想的強化と大衆化の迂回(うかい)をとることを余儀なくされ、プロレタリア統一戦線と労働者政府樹立の戦術が採用された(1922年第4回大会)。レーニンの死とドイツでの労働者政府樹立の試みの失敗ののち、第三インターは、しだいにソ連共産党の政策に左右されるようになり、イデオロギー的にはスターリンによって解釈された「マルクス・レーニン主義」、組織的にはボリシェビキ党の組織原則であった「民主集中制」が各国共産党を拘束するものとされ、各国共産党は「単一世界党」の支部としてモスクワの執行委員会の決定への絶対服従を強いられていった。このため、1920年代後半のスターリンとトロツキーの「一国社会主義」などをめぐる政争は各国支部にも波及し、除名されたトロツキー派はのちに「第四インター」を結成していった。また、大恐慌期には、ソ連邦内での「一国社会主義建設」の強行(工業化と農業集団化、第一次五か年計画)に照応した左翼主義的戦術が採用され(「社会ファシズム」論、「階級対階級」論、「赤色労働組合」主義)、統一戦線的志向は後景に退いた。1935年7~8月の第7回大会で、反ファシズムの広範な統一戦線・人民戦線へとその戦略を転換させ、フランスやスペインの人民戦線政府樹立に貢献したが、その反面、ソ連邦の内政外交にますます従属し、イデオロギー的にはスターリン崇拝が強まり、組織的にはソ連邦国家の外局的役割をも担うこととなり、モスクワにいた第三インター活動家の多くもスターリン粛清の犠牲となった。第二次大戦勃発と反ファシズム米英ソ連合の成立により、第三インターのソ連にとっての意義は減退し、各国共産党も自主的力量を蓄えてきたため、1943年5月、第三インターは大会も開くことなく解散された。第二次大戦後、1947年にヨーロッパ共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)が結成されたが、「スターリン批判」に伴い1956年に解散され、以後の国際共産主義運動は、ユーロコミュニズムなど自主的な潮流の台頭もあって、各党間の個別的交渉・連絡にゆだねられた。
 1989年の東欧革命と1991年ソ連解体によって、国際共産主義運動は基本的に崩壊した。現代のインターナショナル組織としては、第二インターの系譜を引く社会主義インターナショナルが、旧共産主義勢力をも吸収して世界で130以上の政党を組織し、もっとも有力なものとなった。[加藤哲郎]
『W・Z・フォスター著、インタナショナル研究会訳『三つのインターナショナルの歴史』(1957・大月書店) ▽W・アーベントロート著、野村修訳『ヨーロッパ労働運動史』(1968・合同出版) ▽加藤哲郎著『コミンテルンの世界像』(1991・青木書店) ▽K・マクダーマット、J・アグニュー著、萩原直訳『コミンテルン史』(1998・大月書店)』

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精選版 日本国語大辞典の解説

[1] 〘形動〙 (international) 国際間の。国際的。万国の。
※平民新聞‐明治四〇年(1907)二月一四日・議会政策論〈田添鉄二〉「其運動も或る程度まではインターナショナルであらねばならぬと信ずる」
[2]
[一] (International Working Men's Association から) 社会主義運動の国際的組織。一八六四年にロンドンで結成されたものが最初でこれは第一インターナショナルと呼ばれる。のちにこの復活をはかって第二、第三のインターナショナルが結成された。国際労働者協会。インター。
[二] (L'Internationale) 社会主義運動をすすめる、世界の労働者たちの歌として作られた歌。一八七一年、フランス社会党の要求によりフランスで作られた。ポティエ作詞、ピエール=ドジェテ作曲。一九四三年まではソビエト連邦の国歌でもあった。日本では、労働組合運動の場において歌われた。インター。
※ロシアに入る(1924)〈荒畑寒村〉露都で見聞した人「一斉に起立し、荘重なるインタナショナルを合唱した光景」

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

労働者階級の団結と解放をめざす国際的組織
【第1インターナショナル】1864〜76 正式名称は国際労働者協会(International Working Men's Association)。1863年のポーランドの反乱,南北戦争を背景に,イギリス・フランスの労働運動指導者が中心になってロンドンで結成され,リンカン大統領に激励の挨拶を送った。規約はマルクスが作ったが,バクーニンら無政府主義者(アナーキスト)との対立がパリ−コミューンの失敗後とくに激しくなり,また各国政府による弾圧も強まり,1876年に解散した。
【第2インターナショナル】1889〜1914 マルクス主義とその影響下にある社会主義政党や労働者組織が,フランス革命100周年を記念してパリに集会を開き結成。ドイツ社会民主党が中心となったが,ゆるい連合体で論争が多く,修正主義も発生。戦争・植民地問題では防衛戦争や植民地所有を肯定する多数派に対してレーニン・ローザ=ルクセンブルクらは苦闘した。帝国主義諸国による国際間の緊張が高まり,戦争の危機が増大すると,戦争の勃発を避けるため,1912年にバーゼルで臨時大会を開くなどして数度の反戦決議がなされた。しかし,第一次世界大戦の勃発とともに多くが愛国主義に転換し,連合は崩壊。戦後再建され,現在の社会主義インターに発展。
【第3インターナショナル】1919〜43 正式名称は共産主義インターナショナル(Communist International)で,コミンテルンと略称される。➡ コミンテルン

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

階級闘争を目的とした労働運動・社会主義運動の国際組織
1864年(第1)・'89年(第2)・1919年(第3)にそれぞれ結成された。特にレーニンが創設した第3インター(コミンテルン)は,日本共産党の創立,およびその運動を指導した。

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世界大百科事典内のインターナショナルの言及

【インターナショナル】より

…もともとは18世紀末年に使われ出した英語の形容詞で〈国際〉と訳されているが,名詞としてはふつう国際労働者協会International Working Men’s Associationおよびその後継者ないし類似の国際組織をさす。
[国際労働者協会(第一インターナショナル)]
 1864年9月28日,ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで開かれた国際労働者集会で創立された。この集会は,2年前から交流を進めていたイギリスとフランスの労働組合活動家が,ストライキの際の相互連帯とポーランド革命支援を念頭に置きつつ招集したものだったが,ドイツ,ポーランドからの亡命者なども参加した。…

【国歌】より

…民族的な音楽の特徴を使ったものは,むしろ例外に属するが,例としては,R.タゴールの作詞・作曲によるインド,バングラデシュ,ブータンの国歌,日本の《君が代》などがあげられる。 なお,《インターナショナル》すなわち〈国際社会主義労働運動歌〉(E.ポティエ作詞,P.ドジェーテル作曲)は,狭義の国歌ではないが,ソ連やユーゴスラビアなどで一時期は国歌の代りに使われた。 国歌は国や民族の聴覚的な象徴であるから,音楽作品において国を表示するために国歌を引用することがある。…

※「インターナショナル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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