エルゴード理論(読み)エルゴードりろん(英語表記)ergodic theory

改訂新版 世界大百科事典 「エルゴード理論」の意味・わかりやすい解説

エルゴード理論 (エルゴードりろん)
ergodic theory

統計力学土台となる仮説エルゴード仮説ergodic hypothesisがある。これは,熱平衡状態にある系においては,物理量の熱力学的観測値は,すべての力学的状態についての物理量の平均値に等しいというもので,そもそもL.ボルツマンによって提唱された仮定である。このエルゴード仮説を証明する試みをエルゴード理論という。

 壁の中に閉じ込められ,エネルギーが一定値Eに保存されている系(孤立系)を例にとる。このような系は,はじめがどうであれ,やがて熱平衡の状態に落ち着くことが知られている。このとき,物理量fの熱力学的観測の値はつねに一定値fを示す。この熱平衡状態に対応する力学的状態(全粒子の位置と運動量のセットが表す状態)は,無数にあるにもかかわらず,観測値はいつも同じなのである。全粒子の位置座標と運動量とをまとめて記号xで表す。xは多次元の空間(位相空間)を作るが,運動法則はこの空間の各点xが,時間tの後に別の点xtに変換されていく変換の法則にほかならない。この空間の任意の領域は,この変換法則により,他の領域に写像されるが,リウビル定理によって領域の体積は写像によって変わらない。孤立系の熱平衡状態は,エネルギーの値をEに決めれば,一つしかないという経験事実,またこのときのfの熱力学的観測値fは一つの値にしかならないことおよびリウビルの定理から,統計力学ではf=〈f〉としている。ここに〈f〉は,エネルギーを一定値Eとするようなあらゆる力学的状態xについてのfの平均値である。これがエルゴード仮説で,これを力学構造と力学法則とから証明しようと試みるのがエルゴード理論である。これはまた,ある意味では,孤立系がひとりでに熱平衡に達することを力学法則から証明することにもなる。

 G.D.バーコフのエルゴード理論では,無限に長い時間にわたるfの時間平均をもってfであるとしている。これは物理学の立場からすると,不満足な後退だが,数学的にすっきりした問題設定になる。こうしてしまうと,どんなfに対しても,また必ずしも大きな系でなくても,f=〈f〉が期待される。ただし次のような例外が存在する。すなわち直方体の壁の中に閉じ込められた剛体球は,側壁平行に運動している限りにおいて,側壁にはぜんぜんぶつかってこない。fとして側壁の受ける撃力を採ると,fはつねにゼロであるのに〈f〉はゼロでない。このことからわかるように,f=〈f〉の中から特殊な運動状態を除外する必要がある。これは,こういう特殊な力学状態は,全部集めてみてもルベーグ測度面積,体積などを一般化した測度)がゼロにしかならないとして処理できる。

 しかし,問題の核心は,孤立系では,エネルギーの値を決めてしまうと,熱平衡状態が一つしかないということであるが,バーコフらのエルゴード理論では,これはmetric indecomposable(測度不可分)の名で仮定されている(この仮定はきわめて特殊な例について証明されているのみである)。また一次元の系には保存量が粒子の数だけある場合が多く,エルゴード的ではないが,これは一次元に限られた特殊事情であると信じられている。

 エルゴード的であれば,運動はできるだけ乱れたものに落ち着くはずであり,惑星運動に見られる秩序は疑問を提示する。このようなことからエルゴード性は容易に破れるのではないかと考え,コルモゴロフ=アーノルド=モザーの定理(KAMの定理)を引合いに出す人々もいる。相互作用のある非調和振動子の集りがあり,縮退がないとすると,相互作用が弱い限り,この系は完全積分系であって,その運動は相互作用のないときの運動に近い。例外的な運動もあるが,それらのルベーグ測度はゼロにすぎない。これがKAMの定理であるが,非縮退の条件があるので,熱力学の反例とはいいがたい。

 バーコフらのエルゴード理論は,確率論にも拡張でき,不変測度をもつマルコフ連鎖には長時間平均が存在し,それが空間平均に等しいという定理が得られる。しかし,このようなエルゴード性は熱平衡状態成立の保証にはならず,A.N.コルモゴロフは,等エネルギー面上のどの領域も,長い時間の間には十分よく混ぜ合わされてしまうという概念(混合という)を導入した。彼はさらに位相空間に分割という考えを導入し,時間がたつにつれ,はじめの分割がいろいろに増えて,最後にはあらゆる可能な分割を全部経験しつくすような力学系を強い混合的な系であるとした。これは通常コルモゴロフ力学系と呼ばれていて,混合よりさらに強くエルゴード的である。こうした強い意味のエルゴード性をニュートン力学に従う多粒子系について証明するのはむずかしい。また量子力学におけるエルゴード理論は,フォン・ノイマンやW.パウリらによる試みはあったが,未発達というべきだろう。

 以上のほか,無限系のエルゴード理論というものがあり,無限系の中の有限な部分系を見て,そのまわりは規定された確率分布をもつ無数の粒子がとりまいていて部分系に出入りしているとする。この専門用語におけるエルゴード性は,実は,きわめて弱い意味にしかならず,有限系のエルゴード理論に比べ積極的意義に乏しい。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報