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カラヤン カラヤンKarajan, Herbert von

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

カラヤン
Karajan, Herbert von

[生]1908.4.5. ザルツブルク
[没]1989.7.16. ザルツブルク郊外アニフ
オーストリアの指揮者。ウィーンで F.シャルクに指揮を学び,1927~34年ウルム,34~41年アーヘン,38~42年ベルリン国立歌劇場指揮者を歴任。その間,各国に演奏旅行,ザルツブルク,バイロイトなどの音楽祭の指揮者として名声をあげる。 55年 W.フルトベングラーの後任として,ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者となる。またヨーロッパアメリカ各楽団の客演指揮者として世界中の人気を集めた。交響曲,オペラとそのレパートリーは広く,自分の演奏をビデオに収めて普及をはかるなど,話題を呼んだ。 54年以来しばしば来日。

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百科事典マイペディアの解説

カラヤン

オーストリアの指揮者。生地ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に学び,ピアノ奏者として活動ののちウィーンで指揮法を修得。ウルムアーヘンの歌劇場を経て1937年ベルリン国立歌劇場で《フィデリオ》を指揮して成功。
→関連項目大賀典雄グールドサバリッシュ松平頼則ルルーシュ

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世界大百科事典 第2版の解説

カラヤン【Herbert von Karajan】

1908‐89
オーストリアの指揮者。ザルツブルクに生まれ,同地のモーツァルテウム音楽院に学び,初めピアノ奏者として立つ。のちウィーンで指揮を学び,1929年指揮者としてデビュー,ウルム市立歌劇場,アーヘン歌劇場を経てベルリン国立歌劇場に進出,55年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身常任指揮者に就任,56年ウィーン国立歌劇場総監督,ザルツブルク音楽祭芸術監督なども兼ねた。1954年以来しばしば来日。その指揮は20世紀初頭のいわゆる新即物主義的傾向から,しだいにドイツの重厚なロマン的趣味と現代風な洗練度の高いオーケストラの色彩感とを包括していき,終局的にはドイツの伝統の上に立つ完璧な名人芸的オーケストラ表現を打ちたてた。

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大辞林 第三版の解説

カラヤン【Herbert von Karajan】

1908~1989) オーストリアの指揮者。ベルリン-フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者。ウィーン国立歌劇場総監督・スカラ座常任指揮者などヨーロッパの主要ポストを独占。幅広いレパートリーと巧みな指揮法により世界的に活躍。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

カラヤン
からやん
Herbert von Karajan
(1908―1989)

オーストリアの指揮者。広いレパートリーに加えて精力的な活動を誇り、また社会的な注目を浴びる言動が多く、20世紀後半を代表する演奏家の一人と目される。4月5日ザルツブルクに生まれる。生地およびウィーンで学び、1927年ドイツのウルム歌劇場指揮者になったのを振り出しに、アーヘン歌劇場、ベルリン国立歌劇場の指揮者を歴任。第二次世界大戦後、公職追放されたが、47年活動を再開、急速に名を高めた。55年、フルトベングラーの後任としてベルリン・フィルハーモニーの第4代常任指揮者、翌56年終身芸術監督に就任、以来西欧の音楽界の枢要ポストを一手に収めたため、「帝王カラヤン」とよばれるに至った。54年(昭和29)N響に客演のため初来日。以後、59年のウィーン・フィルを除けば、すべてベルリン・フィルと9回来日。89年春の叙勲では、勲二等旭日(きょくじつ)重光章を受章している。後進の育成にも力を注ぎ、69年には「ヘルベルト・フォン・カラヤン財団」を設立、若い指揮者発掘のためカラヤン・コンクールを新設した。89年7月16日没。[岩井宏之]
『F・エンドラー記、吉田仙太郎訳『カラヤン自伝を語る』(1989・白水社) ▽R・C・バッハマン著、横田みどり訳『カラヤン――栄光の裏側に』(1985・音楽之友社)』

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