カルピニ(その他表記)Carpini, Giovanni de Piano

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルピニ」の意味・わかりやすい解説

カルピニ
Carpini, Giovanni de Piano

[生]1180頃.ウンブリア,ペルジャ
[没]1252.8.1. ダルマチア,アンティバリ
イタリア旅行家。モンゴル帝国を旅行し,中央アジアに関して貴重な記録を残した最初のヨーロッパ人。 1220年頃フランシスコ修道会司祭となり,1241年のモンゴル侵入時にはケルンにいた。インノケンチウス4世がモンゴルへ正式にカトリック使節団派遣を決定,その団長に任命され,1245年出発ドネプル川,ドン川,ボルガ川を渡り,1246年4月ボルガ川河岸にいたモンゴル帝国の部将バトゥ (抜都)と会見したのち,モンゴル帝国の中心地に向けて出発。ウラル川を渡りカスピ海北部,アラル海からシルダリアへ向かい,ジュンガル盆地の湖畔を進んで,1246年7月 22日カラコルム (和林) ,オルホン川近くのシラ・オルダに到着。グユク (貴由)の即位式に参列して 11月まで滞在し,グユクからローマ教皇にあてた手紙を持って帰国の途につき,1247年6月9日キエフに戻った。帰国後まもなくアンティバリの大司教に任じられた。この旅行で見聞したことを『われらがタルタルと呼ぶモンゴル人歴史』 Historia Mongalorum quos nos Tartaros appellamus (略称ヒストリア』) と『タルタル人の書』 Liber Tartarorum (別称"Tatarorum") にまとめた (1245~47) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルピニ」の意味・わかりやすい解説

カルピニ
かるぴに
Giovanni di Pian Carpine
(1182ころ―1252)

イタリアのペルージア地方出身のフランシスコ会修道士。ローマ教皇インノケンティウス4世は使節をモンゴルに派遣し、モンゴル軍のヨーロッパ侵入を制し、キリスト教への改宗を図り、また内情を探ろうとした。その使節にケルンのフランシスコ会管区長カルピニが任命された。カルピニは1245年3月に教皇の書簡を持ってリヨンを出発した。キエフ(現、キーウ)を経由し、カスピ海の北方にいたバトゥBatu(1207―1255)を訪問し、翌1246年7月グユク・ハンの本営に達した。そこでグユク・ハンに会い、4か月の滞在後、教皇に対しモンゴルへの服属を求めた返書を受けて帰途につき、1247年11月リヨンに帰った。その見聞記は、モンゴル事情を初めてヨーロッパに伝えた書である。

[海老澤哲雄 2018年2月16日]

『カルピニ、ルブルク著、護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記』(1979・桃源社/講談社学術文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「カルピニ」の意味・わかりやすい解説

カルピニ
Giovanni dal Piano dei Carpini
生没年:?-1252

イタリア人宣教師。英語名ジョン。ピアノ・ディ・カルピネ(ラテン語名プラノ・カルピニ)の出身。フランシスコ修道会所属。ローマ教皇インノケンティウス4世の命により,1245年4月16日,リヨンを出発,途中ボルガ河畔のバトゥの本営に寄り,7月22日,カラコルム付近のグユク・ハーンの本営に到着した。46年11月13日本営を去り,翌年11月18日リヨンに帰着,教皇からの書簡に対するグユクの返信をもたらした。彼の見聞録はルブルクのそれと並び称せられ,モンゴルの実情,住民の習慣をヨーロッパに初めて伝えたものとして著名。なおカルピニに同行したポーランド人修道士ベネディクトの口述筆記も残っている。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カルピニ」の解説

カルピニ
Giovanni dal Piano dei Carpini

1182頃~1252

イタリア出身のフランチェスコ会修道士。教皇インノケンティウス4世の命により,モンゴル人にキリスト教への改宗をすすめ,その情勢を偵察するためモンゴリアへ旅行。1245年にリヨンを出発,カラコルム訪問ののち,47年に帰国。その旅行記は,当時のモンゴル帝国の内情を知るうえで,ルブルクの旅行記とともに重要な記録である。

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百科事典マイペディア 「カルピニ」の意味・わかりやすい解説

カルピニ

イタリアのフランシスコ会修道士。モンゴル人のヨーロッパ侵入を防ぐため,1245年ローマ教皇インノケンティウス4世の親書を持ってリヨンを出発,モンゴル帝国の首都カラコルムに至り,グユク・ハーンの返書を得て,1247年に帰った。その見聞録は資料として貴重。
→関連項目ルブルク

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旺文社世界史事典 三訂版 「カルピニ」の解説

カルピニ

プラノ=カルピニ

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