フランスの数学者。パリの郊外にあるブール・ラ・レーヌに生まれる。12歳のときにパリのリセ(高等中学校)、ルイ・ル・グランに入学し、17歳でエコール・ポリテクニク(理工科大学校)を受験したが不合格となり、母校の高等数学のクラスへ入った。このクラスの数学の教授リシャールLouis Paul Émile Richard(1795―1849)がガロアに大きな影響を与えた。
1829年3月1日、最初の論文を発表し、5月25日にパリ科学アカデミーへ論文を提出した。しかし、この論文は行方不明となっている。論文を科学アカデミーに紹介することを約束していたコーシーが紛失したのである。一方、1829年7月2日に父が自殺し、さらに不幸なことに、エコール・ポリテクニクの試験を再度失敗し、1830年2月に予備学校へ入学した。この学校は8月6日にエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)と改称された。
1830年7月、パリに革命が起こった。それに参加する一方、4月に一つ、6月に二つの論文を書いて、研究への意欲を捨てなかった。「群」の概念を導入し、代数方程式にはそれぞれ置換群が対応し、この群によって、代数方程式の特性を再現しうることを示した。方程式が代数的に解けることと、この方程式に対応する置換群が「可解」であることとは同義であることに着目し、代数方程式の解法の研究を群の研究へ転換して「五次以上の一般な代数方程式は代数的に解くことはできない」ことを証明した論文をパリ科学アカデミーへ提出した。ところがこの論文を審査するために自宅へ持ち帰ったフーリエが急逝し、論文は行方がわからなくなってしまった。これに追い討ちをかけるように、1831年1月3日付けでエコール・ノルマルはガロアを学校から追放した。ガロアの言動は過激になった。そしてこの年の暮れにサント・ペラジ牢獄(ろうごく)につながれる身となったが、1832年3月にコレラがパリに流行したため、同年3月16日に仮出獄となった。しかし、まもなく、決闘を申し込まれるような事件が起こった。親しくしていた女性の婚約者が決闘を挑んだ、と伝えられているが、これもはっきりしない。決闘は5月30日の朝に行われた。武器はピストルで、ガロアの弾は命中せず、相手の一弾はガロアの腹部に命中し、翌日の午前10時に絶命した。決闘の前夜に、親友シュバリエAuguste Chevalier(1809―1868)へ遺書を書いた。大判ノート4枚に書かれた8ページのものであったが、これがガロアの数学を伝える貴重な文献であることがわかったのは、はるか後日(1843)のことである。
[小堀 憲]
フランスの数学者。同時代の数学者にとって理解しえないほど進歩した理論を築いたために,同時代の数学者には認められず,また1829年には,父親がそのリベラルな思想のゆえに迫害を受けて自殺したことなどから,それ以後反政府運動に走ったが,数学も続けた。そして32年5月30日に恋愛問題で決闘をし,翌日死亡した。その数学的業績の主要部分は決闘の前日に友人シュバリエAuguste Chevalierにあてた書簡にかかれている。J.リウビルはその業績の重要さを知って,46年にその書簡をガロアの遺稿とともに出版した。代数方程式が代数的に解ける(係数から出発して,四則演算とべき根をとる演算とにより根が表せる)ための必要十分条件を,その方程式のガロア群の構造によって与えたのは,五次以上の代数方程式についてのN.H.アーベルの結果を強めたものであるが,ガロア拡大体における中間体とガロア群の部分体との対応という,いわゆるガロアの理論を導入してその後の群論および体論の基礎を築いたものともいえる重要な業績である。ガロアの業績は,方程式,群に関するものだけでなく,楕円関数やアーベル積分に関するものなどがある。アーベル積分に関して,その3種類への分類などに関する結果の要約が書簡に書かれているだけであるが,その内容は,57年になってG.F.B.リーマンが得たものと一致しているので,すでに深く理解していたと思われる。
執筆者:永田 雅宜
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[群の歴史]
五次以上の方程式の解法を見いだす努力として,J.L.ラグランジュとバンデルモンドAlexis Théophile Vandermonde(1735‐96)が,1770年ころに三次,四次の場合の解法を吟味して,根の整式に根の置換をほどこしたとき,どれだけ異なった値をもつかということなどに着目した。約半世紀後にN.H.アーベルとE.ガロアがその考えを進展させて,アーベルが,まず代数的に解ける多項式(係数から出発して,根が四則算法とべき根をとる演算とで得られるもの)を調べ,一般の五次多項式には代数的には解けないものがあることを示した。ガロアはさらに進んで,多項式の群(今日の言葉でいうガロア群)を考え,また,根をつけた体やその中間体も定義して,ガロア群の構造と中間体との関係を解明した。…
… 代数学では,16世紀のイタリアで四次までの代数方程式が四則と開方で解かれていたが,五次以上の場合に同様の解法を得るための多くの数学者の試みは徒労に帰した。N.H.アーベルは1826年その不可能なことを証明し,E.ガロアはこの問題と方程式の根の置換群との関連を見抜いて,いわゆる〈ガロアの理論〉を創始した。そのころから抽象代数学の最初の部門としての群論が登場することになる。…
※「ガロア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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