改訂新版 世界大百科事典 「キプチャクハーン国」の意味・わかりやすい解説
キプチャク・ハーン国 (キプチャクハーンこく)
Qipchaq Khān
チンギス・ハーンが長子ジュチに与えたイルティシュ川流域の所領が,西方に拡大発展して成立した遊牧国家。1243-1502年。〈ジュチのウルス(所領)ūlūs-i Jūchī〉と呼ばれ,ロシア人は金帳ハーン国Zolotaya Ordaと呼んだ。版図は,東はイルティシュ流域から西はドニエストル川,北はブルガールから南はカフカス,シル・ダリヤ中流域に及び,ルーシ(ロシア)も属国となって貢租を支払った。ロシア史ではこれを〈タタールのくびき〉と呼ぶ。国家の創設者バトゥ(在位1227-55)はジュチの第2子で,1236-41年に,キプチャク草原,ロシア,東欧を席巻し,ボルガ下流のサライを中心として国家の基礎を築いた。その際,長兄オルダOrdaらがジュチの本領(イルティシュ流域)を継いで国家の左翼となり,ハーン位を継承したバトゥは,弟のベルケBerkeやシバンShibanらとともに,右翼に所領を占めた。後の史料では,左翼の所領を青帳ハーン国Kök Orda,右翼を白帳ハーン国Aq Ordaと呼ぶこともある。
征服者のモンゴル人は,4000(あるいは9000)戸ほどの少数であったため,治下のトルコ族の影響をうけて急速にトルコ化したが,チンギス・ハーンの定めたヤサ法に基づき,モンゴル固有の制度と機構を維持していた。ハーン位継承等の重要政策はクリルタイで決定され,ハーン家一族とベクやタルハンtarkhanの称号をもつ遊牧集団の長たちが,支配階級を形成した。軍団は十進法で組織され,服属した都市や属領からは,ダルガチや軍事力をもつバスカークbasqaqの手で徴税した。イスラムを初めて受容したベルケ・ハーンBerke Khān(在位1255-66)は,商工業の中心地として,旧サライの北に新サライを建設し,外交的には,ザカフカスの領有をめぐって,1世紀にもおよぶイル・ハーン国との争いを開始する一方,エジプトのマムルーク朝とは友好関係を結んだ。次のマング・ティムールMangu Tīmūr(1266-82)のとき,大ハーン位をめぐって,フビライとハイドゥの間で戦われたいわゆるハイドゥの乱(1266-1304)に介入して,キプチャク・ハーン国は独立国家の地位をえ,14世紀前半のウズベクÖzbek(在位1312-42),ジャーニーベクJānībek(在位1342-57)父子のときに最盛期をむかえた。
ウズベク・ハーンはイスラムを国教とし,新サライを都と定めてモスクなどの建築物を造営し,商業・手工業を振興した。この時代,イスラム商人が活躍し,元朝やクリミアのビザンティン人やジェノバ人との貿易も栄えた。しかし,ジャーニーベクの死後,国の統一は乱れ,ルーシ諸侯も離反するなか,一時,左翼の王であるトクタミシュToqtamishが再統一に成功したが,1395・96年の冬に,ティムールの侵入をうけてサライも灰燼に帰し,国は急速に衰退していった。15世紀には,支配領域内より,ノガイ・ウルス,ウズベク国家,シビル・ハーン,カザン・ハーン,クリム・ハーン,アストラハン・ハーンの各ハーン国が次々に独立し,16世紀初頭,ついに滅亡した。
執筆者:堀川 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報