ポーランド南部,マウォポルスカ地方の文化・学術・工業の中心都市。同名県の県都。ドイツ語ではクラカウKrakauという。人口75万7957(2004)は,ポーランド第3位。ワルシャワの南約250kmに位置する。ビスワ川が南のカルパチ山脈から平野部に出る谷頭部に位置し,都市域はビスワ川左岸のバベル城を中心とする旧市街を核として両岸に広がっている。14世紀から300年にわたってポーランド王国の首都がおかれ,第2次世界大戦中にも戦禍を免れたため,古い文化遺産を多く残す歴史的都市で,コペルニクスが学んだヤギエウォ大学もある。バルト海と黒海を結ぶ中部ヨーロッパの交通上の要衝で,手工業から発達した繊維,織物,食品加工,タバコ(全国生産の41%。1978)など軽工業が発達する。戦後,市東部のノバ・フータ地区にレーニン製鉄所(1950建設,54操業開始)を中心とする金属コンビナートが建設され,ポーランド最大の鉄鋼基地としてポーランド経済を支えている。ウクライナとポーランドの上シロンスク工業地帯を結ぶ産業の中心として重要性を増している。
執筆者:山本 茂
クラクフの名は,バベル城に住んでいた竜を退治したという伝説上の人物クラク公に由来する。紀元初めころ,すでに鉄器と土器を多く産していたことが知られており,9~10世紀にはチェコの影響下にビスワ族が城塞を築いていた。ボレスワフ勇敢王の時代にポーランドに帰属し(10世紀末),1000年には司教座が設置されている。ポーランドが古代ロシアとの結びつきを強めるとともにクラクフの重要性は高まり,その首都的地位が確立していった。クラクフが現在みられるような形を整えるのは,3回にわたるモンゴル軍の襲来(13世紀中ごろ)後に始まった,人格的自由を認められたドイツ人を中心とする入植者たちの都市建設による。14~15世紀にクラクフは最盛期を迎え,ヤギエウォ大学の創設,織物館やマリア教会,バルバカン要塞の建設が行われた。16世紀にはいってポーランドがリトアニアとの結びつきを強めるとともに首都の地位はワルシャワに移るようになり,1611年にジグムント1世によって正式な遷都が実現した。こうしてクラクフは衰退期を迎えることになるが,とくに大きな打撃となったのは17世紀中ごろの対スウェーデン戦争と18世紀初めの北方戦争による戦禍であった。18世紀末のオーストリア,ドイツ,ロシア3国によるポーランド分割によってクラクフはオーストリア領とされるが(1815-46年はクラクフ共和国として独自の地位を認められる),1866年の普墺戦争でオーストリアが敗北してからは生活のあらゆる分野においてポーランド化が認められるようになり,クラクフはリボフ(現,ウクライナの都市)と並んで全ポーランドの知的中心として栄えることになった。一方,ロシア領およびドイツ領ポーランドにおいてはポーランド語の使用すら禁止されていたのである。しかし1918年にポーランドが独立してからは文化活動の中心もワルシャワに移り,クラクフは工業の一大中心,観光名所として存続することになる。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ポーランド南東部、マウォポルスカ県の県都。マウォポルスカ地方の文化、科学、産業の中心都市。人口は74万1510(2000)で、ポーランド第三の都市。ドイツ名クラカウKrakau。ビスワ川が南のカルパティア山脈から平野部に出る谷頭部に位置し、都市域はビスワ川左岸の丘にあるバベル城(12~16世紀)を中心とする旧市街を核に両岸に広がる。14世紀から300年間ポーランド王国の首都が置かれ、第二次世界大戦の戦禍を免れたため古い文化遺産を多く残す歴史的都市である。バベルの丘には城のほか、ポーランド王族の墓がある大聖堂(11~14世紀)がある。15世紀の壮大な祭壇画のあるマリアツキ寺院をはじめ、古い教会の数は50以上に及び、14世紀の織物館も残る。クラクフ国立博物館をはじめ美術館も多く、日本の浮世絵などを展示する日本美術・技術センターManggha(マンガ)が1994年に開館。1364年創立のヤギエウォ大学では、かつてコペルニクスが学んでいる。また、市はバルト海と黒海とを結ぶ交通上の要衝で、手工業時代以来の繊維、織物、食品加工、タバコなどの軽工業が発達する。第二次世界大戦後ノバ・フータ地区に鉄鋼コンビナートができ、ポーランド最大の鉄鋼基地として国の経済を支えてきた。
[山本 茂]
8世紀ごろ城塞(じょうさい)が築かれ、10世紀後半にはチェコ人の支配下に置かれていたが、10世紀末ポーランド領となり、1000年には司教座が置かれた。1241年にはモンゴル人の侵入によって戦禍を受けたが、まもなく復興した。1257年都市法が制定され、1320年にはポーランド王国の首都になり、64年にはヤギエウォ大学が設立された。15世紀には、商業、手工業、文化の著しい発展をみたが、1596年(ジグムント3世が最終的に宮殿を移したのは1611年)のワルシャワ遷都後は市勢が衰えた。第三次ポーランド分割(1795)後はオーストリア領となり、1809年にはナポレオンによってワルシャワ公国に併合された。1815年のウィーン会議では、市とその周辺はロシア、オーストリア、プロイセンの保護下に置かれたクラクフ共和国として自治が許されたが、46年の独立蜂起(どくりつほうき)が敗北すると、ふたたびオーストリアに併合された。その後、オーストリア領ポーランドの政治や文化の中心地となり、第一次世界大戦後ポーランドに復帰した。第二次世界大戦中はドイツ軍の占領地総督府が置かれ、多くのユダヤ系市民がゲットーに監禁され、のち西方40キロメートルにあるオシフィエンチム(アウシュウィッツ)の強制収容所で虐殺された。戦争中、史跡などの破壊は免れ、1945年1月ソ連軍によって解放された。
[安部一郎]
歴史的な建造物が多く残る旧市街が1978年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「クラクフ歴史地区」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]
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ポーランド南部の古都。10世紀頃から商業都市として発展し,1320年から国王戴冠の場となり,1611年のワルシャワ遷都まで都として栄えた。ポーランド最古の大学を持ち,ポーランドの政治,文化の一つの中心をなす。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ポーランドの地には,ビスクーピンBiskupinに前500年前後と考えられる杭上住居の集落址があり,木の敷き道や住居が残り,また紀元後には,ボリンWolinなどで発見されている単純な木彫の神像があるが,本格的な建築,芸術活動はキリスト教受容以降のことである。すでに9世紀よりクラクフを中心として南部に,ロトンダ形式の教会堂(クラクフのバベルWawel城内の聖マリア教会など)が建てられ,モラビアよりのキリスト教伝道を示す。グニェズノを本拠とするミエシュコ1世が,966年キリスト教に改宗した後ポーランドを統一し,ドイツとの結びつきが強まると,しだいに建築も,ライン川流域やザクセンのドイツ・ロマネスクの様式に倣って,各地に建てられるようになった。…
※「クラクフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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