フランスの国立劇団、ときにその劇場(本拠はパリ、リシュリュー街にあるリシュリュー館)もさす。1680年創立の現存する世界最古の劇団の一つ。コメディはここでは喜劇ではなく「悲劇も含む演劇、劇場」の意味。モリエール没(1673)後、彼の一座は競争相手のマレー座と合併してゲネゴー座となり、さらに1680年ルイ14世の命によって王立劇団オテル・ド・ブルゴーニュ座と統合されてパリ唯一の王立劇団としてコメディ・フランセーズが創設された。当時国王によってパリに招かれていたコメディ・イタリエンヌ(イタリア人劇団)と区別するために、コメディ・フランセーズ(フランス人劇団)と名づけられた。モリエールにゆかりがあるので、別名「モリエールの家」Maison de Molièreともよばれる。
創設時にはモリエールの弟子のラグランジュ、シャンメレ夫妻ら俳優27名からなり、パリにおけるフランス語での独占上演権を与えられ、補助金も受けた。劇場は、最初はマザリーヌ街のゲネゴー座、のちにランシエンヌ・コメディ街に移り、1782年にはコンデ公邸跡の今日のオデオン座に移った。ここで1784年ボーマルシェの『フィガロの結婚』が初演されたのは有名。1789年のフランス革命で王立劇団から「国立劇団」となるが、独占上演権は失い、劇場開設が自由化され、ライバルの私立劇場が多く誕生する。革新派の悲劇俳優タルマと王政擁護の保守派が対立し、1791年タルマ派が脱退してリシュリュー街の現在の劇場に本拠を置き、オデオン座の残留組と対峙(たいじ)する。1799年両者がタルマ派のこの劇場で合体し国家からの補助金を得て、劇団規約も制定され国立劇団の形態が整えられた。さらにナポレオンが1812年ロシア遠征中モスクワで発した「モスクワ勅令」が今日の劇団機構の根幹になった。フランスの伝統を重視する劇団として各時代の演劇の中心をなし、18世紀のルカン、クレロン、19世紀前半のタルマ、ラシェル、後半のムネ・シュリー、コクラン、大女優サラ・ベルナール、20世紀のルドゥー、シャロン、イルシュ、バロー、アニー・デュコーら名優が輩出した。第二次世界大戦直前にはコポー、ジューベらの気鋭の演出家を招いて刷新を図った。本拠のリシュリュー館では、主としてコルネイユ、モリエール、ラシーヌ、マリボー、ボーマルシェなどの古典作品をレパートリー・システムで日替り上演することを基本とするが、機構改革をして現代劇にも意欲を示している。
劇団は正座員(ソシエテール)約40名(うち1名首席俳優=ドワイヤン)、1年契約の準座員(パンシオネール)約30名の俳優のほかに、約300名の従業員からなり、政府任命の総支配人(多くは俳優、演出家、ときに劇作家)が劇団を統括し、国からの補助金を管理する。正座員任命、劇団予算、収益配分も、総支配人が主宰する正座員総会で決定される。いわば俳優の「協同組合」的な性格をもつところに特色がある。演目選定には外部の人も含む文芸委員会が設けられている。現在の劇場(リシュリュー館)は1974~76年に大幅に改装され、客席数は892とかなり減少した。また第二次世界大戦後コメディ・フランセーズの第二劇場となっていたオデオン座は、1959年近代劇中心の独自の国立劇場となり、83年からは「オデオン・ヨーロッパ劇場」として国際的な活動を行っている。このためコメディ・フランセーズは、その後パリ市内に別の劇場を二つもって活動している。一つはコポーが創設したことで知られる元のビュー・コロンビエ座を改装して1993年に第二劇場(客席数330)としたもので、主として現代劇上演の拠点にしている。さらに96年からはルーブル美術館わきに小さなスタジオ劇場(客席数136)を第三劇場として発足させ、主として短編の実験的な新作戯曲を取り上げている。コメディ・フランセーズは1962年(昭和37)に初来日、その後計3回来日公演を行っている。
[伊藤 洋]
『パトリック・ドゥヴォー著、伊藤洋訳『コメディ=フランセーズ』(1995・白水社)』
フランスの国立劇場(団)。別名〈モリエールの家〉,またその所在地から〈リシュリュー劇場〉ともいう。1680年,ルイ14世の勅令により創立。前身は喜劇界の大立者モリエールの一座。同座は73年にモリエールが死ぬと,解散した〈マレー座Théâtre du Marais〉の役者たちを吸収合体して存続していたが,さらに上記の勅令で当時悲劇の総本山だった〈オテル・ド・ブルゴーニュ座(ブルゴーニュ座)〉と合併,パリおよびその周辺の演劇独占権(イタリア劇団は例外)を与えられた王立劇団としてコルネイユ,ラシーヌの悲劇,モリエールの喜劇などを財産として発足した。最初,セーヌ左岸ゲネゴー劇場を本拠としたが,87年フォセ・サン・ジェルマン・デ・プレに,1771年チュイルリー宮内に,82年には現在オデオン座のある場所の劇場に移った。一座の役者団は18世紀を通じて自分たちの利益と権威の確立に励み,演劇独占権を利して他の劇団を圧倒した。大革命時には〈国民劇団〉と改称,〈共和国劇団〉と名乗る分裂グループも現れるが(1791),99年に再統一,名称も元に戻して,現在のパレ・ロアイヤルに定着した。1812年以降,ナポレオン1世の勅令に基づいて一座の運営がなされる。69年,ナポレオン3世が劇場創立の自由を認めてからは,新劇場が続出し,劇壇における地位も絶対的ではなくなり,いわば伝統演劇の保持と古典尊重を使命とするに至る。1946年,政令により国立第二劇場である〈オデオン座Théâtre de l'Odéon〉(リュクサンブール劇場)が合体,パレ・ロアイヤル(リシュリュー劇場)では古典劇や世を去った外国作家の作品,リュクサンブール劇場では現代物を上演したが,59年にはそれぞれ独立した劇場(団)として再出発。
60年代以後は,旧態依然たる一座の運営・作品演出法が,演劇の国際化・多様化の波に取り残された観があったが,75年,劇団規定が改善され,気鋭の演出家・若手俳優の登用,レパートリーの見直しなど,徐々に復活の兆しを見せている。閣議決定による政令に基づき指名された理事長administrateur généralのもと,6名の正座員sociétairesからなる理事会があって劇団運営にあたる。座員は正座員と準座員pensionnairesに分かれ,最古参の正座員が座長doyenとなるほか,名誉座員sociétaires honoraires制度もある。正座員は利益配分を受けるが,準座員は1年ごとの契約制で給料をもらう。レパートリーは選定委員会が決定してシーズン初めに公表した作品(たとえば81-82年シーズンは23編)を次々に上演する。1962年,65年,76年の3回にわたって来日。
執筆者:鈴木 康司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…したがって,その劇団と劇場の両方が,総称としての同じ一つの名前(西欧のものが日本語に訳された場合には〈○○劇場〉などの名称)で呼ばれることが多い。
【ヨーロッパ】
西欧における国立劇場の歴史は古く,その多くはいわゆる〈宮廷劇場〉の系譜に連なり,また重なるものとしてあるが,国家が経済・芸術上の管理・運営の責任者=パトロンとなった屋内ホールの国立劇場の嚆矢(こうし)は,1680年パリに誕生した〈コメディ・フランセーズ〉である。これはフランスにいち早く集権的な統一国家ができたことや,ルイ14世の人柄や,モリエール,ラシーヌら強力な劇作家が輩出したせいでもあろう。…
…フランス最初の常設劇場で,のちにはそれに拠る劇団をも指した。現在の国立劇場コメディ・フランセーズの淵源の一部を成す。 その歴史は,パリ市内のかつてブルゴーニュ公の館があった場所を中世宗教劇の上演団体〈受難劇組合〉が買い取り,そこに1548年に新しい劇場を開設したことに始まる。…
…この方式は,アメリカで20世紀に始められたロングラン・システムとは対照的なもので,古くからヨーロッパで行われていた。最長の伝統をもつのは,フランスで1680年に結成されたコメディ・フランセーズであり,この一座には大革命期まで,他の劇団にこの劇団のレパートリーの上演を許さぬ独占権が与えられていた。近年,ヨーロッパをはじめ世界各国で演劇振興のために公的援助が与えられるようになったが,そこでもレパートリー・システムによる劇団活動に援助が与えられることが多く,俳優の養成と新しい劇作家の登場を促進する効果を生んでいる。…
※「コメディフランセーズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加