ラグランジュ(読み)らぐらんじゅ(英語表記)Comte de Joseph Louis Lagrange

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラグランジュ」の意味・わかりやすい解説

ラグランジュ
らぐらんじゅ
Comte de Joseph Louis Lagrange
(1736―1813)

フランスの物理学者、数学者。イタリアのトリノの生まれ。どこで数学を学び、だれが紹介したのか不詳であるが、18歳のときトリノ陸軍砲兵学校の数学教員となっている。そして数学談話会をつくり、談話をまとめて公刊した『談話会誌』はのちに『トリノ論文集』として、トリノ科学アカデミー紀要となった。1766年、プロイセンのフリードリヒ2世により、オイラー後任としてベルリン科学アカデミーに招かれ、20年間在職し、多くの論文を書き、ラプラスの『天体力学』と並び称される古典的名著『解析力学』(1788)も、この期間に完成した。17世紀に解析幾何学・微積分法の基礎が築かれて、自然現象を数量的・記号的に扱い近代自然科学への第一歩が踏み出されたのであるが、『解析力学』は「仮想仕事の原理」を出発点とし、「変分法」を応用して、剛体と流体の力学を論じ、また、運動についても、「一般化座標」を導入し、統一的な運動方程式を樹立し、これを出発点としているなど、力学における一つの画期をなす著作となった。

 1787年、フリードリヒ2世の死後パリ科学アカデミーに招かれた。パリではフランス革命勃発(ぼっぱつ)後も革命政府の新度量衡制度委員会の委員になり、1795年に高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)の教授に、1797年に理工科大学校(エコール・ポリテクニク)の教授になった。理工科大学校での講義「解析関数論」は、この学校の「紀要」(1797年号)に出ている。「無限小」すなわち「極限」の概念を排除した解析学を樹立したものであるが、論理的基礎は、あいまいであった。

小堀 憲]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラグランジュ」の意味・わかりやすい解説

ラグランジュ
Lagrange, Joseph-Louis, comte de l'Empire

[生]1736.1.25. イタリア,トリノ
[没]1813.4.10. フランス,パリ
イタリア生まれのフランスの数学者。16歳のときにトリノ王立砲術学校の幾何学教授に任命された。1766年にレオンハルトオイラーらの推薦でベルリン科学アカデミーの物理・数学の主任となった。1787年にルイ16世の招きでパリへ移った。1794年,国立中央職業学校(翌 1795年エコール・ポリテクニクに改称)の教授に就任。おもな業績は代数方程式論,変分法,解析関数論など,代数学や解析学に関する分野にあった。しかし特に有名なのは,それらの天体力学および力学への応用で,三体問題をはじめ一般座標ラグランジュの運動方程式の導出など,またアイザック・ニュートン以後の力学研究を解析学を基礎にしてまとめた『解析力学』Mécanique analytique(1788)は不朽の業績である(→解析力学)。また『解析関数論』Théorie des fonctions analytiques(1797)ではテーラー級数によって微分係数を定義しており,18世紀の解析学の一つの典型となった。パリの科学アカデミーから 5回にわたって賞を受け,ナポレオン1世に目をかけられて伯爵や元老院議員にもなった。

ラグランジュ
Lagrange, Marie Joseph

[生]1855.3.7. ブールアンブレス
[没]1938.3.10. マルセイユ
フランスの神学者。パリで法学を学んだのち 1879年ドミニコ会に入り,83年司祭となる。 90年エルサレムにドミニコ会聖書研究学院を創設。カトリック聖書学に批判的歴史的方法を導入した。主著は『聖書研究』 Etudes bibliques (1903) ,『キリスト以前のユダヤ教』 Le Judaïsme avant Jésus-Christ (31) ,『神秘,オルフェウス教』 Les Mystères: l'Orphisme (37) 。

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