改訂新版 世界大百科事典 「ササン朝」の意味・わかりやすい解説
ササン朝 (ササンちょう)
Sāsān
アルサケス朝パルティアのあとを受け,4世紀以上にわたって西アジアの大半を支配し,イスラムの出現によって滅ぼされたイランの王朝。224-651年。その帝国はササン朝ペルシアと呼ばれる。
歴史
王朝の祖ササンSāsānは,タバリーの年代記によれば,パールス(現ファールス,ペルシアの語源)地方のイスタフル(ペルセポリス付近)のアナーヒター神殿祭司であった。パールス地方にはアケメネス朝の伝統が強く保存され,パルティアの支配のもとに王を称する土着の君侯が存在していた。3世紀初めころ,ササンの子パーパクPāpakがイスタフルの王となり,パーパクの子アルダシール1世のときに,イラン南部からバビロニアに進出して224年にアルサケス朝のアルタバヌス4世を敗死させ,首都クテシフォンにおいて新しい帝国支配を開始した。第2代のシャープール1世は対外的発展につとめ,西方では3度ローマ軍を破り,東方ではクシャーナ朝を併合し,シル・ダリヤ地方まで勢力を拡大した。ササン朝はもともとイランの伝統的な聖火崇拝に熱心であったが,シャープール1世は寛容な宗教政策をとり,そのため新興のマニ教は急速に教勢を広げることができた。これに対して正統派信仰の確立に努力したのが祭司カルティールKartīrであった。彼はワラフラン(バフラーム)2世Varahran(Bahrām)Ⅱの時代に,マニ教のみならずユダヤ教,キリスト教,仏教など,すべての異教を禁止し,各地の拝火神殿を組織してゾロアスター教の国教化を完成した。その後,ワラフラン3世の即位に際して大貴族の反乱が起こり,ナルセーNarsehが王に推戴されるという事件が起こった。ササン朝が国内問題にかかわっている間にローマはたびたびメソポタミア北部に侵入し,ナルセーは反撃をこころみたが,結局ローマに領土を割譲しなければならなかった。
4世紀に入るとシャープール2世のもとにペルシアは攻勢に転じ,東西にわたってかつての勢威を回復した。当時,キリスト教はコンスタンティヌス帝の公認と保護を受け,ペルシアとローマの係争の地であったアルメニアに伝道を進めていた。これに対抗して,シャープール2世はキリスト教の迫害を開始した。迫害はその後もくりかえし行われたが,その間には対ローマ政策や内政と相関して,ヤズダギルド1世Yazdagird Ⅰのようにキリスト教に寛容な時代もみられた。しかし,エフェソス公会議によって東方のネストリウス派が西方教会から分離すると,イランのキリスト教徒の状態はしだいに改善された。シャープール2世の死後,大貴族やゾロアスター教祭司階級は王権の制限につとめ,しばしば王位継承に干渉した。5世紀半ばには東方にエフタルが出現し,ペーローズPērōzの時代はエフタルの侵入とうち続く大飢饉に苦しんだ。カワード1世Kavādh Ⅰは,当時国内に起こっていたマズダク教の社会運動,他方ではエフタルの力を利用して大貴族や祭司階級の勢力を抑え,王権の強化をはかった。カワードの治世末期にマズダク教徒を弾圧したホスロー1世は,父王のあとをついで即位すると,税制改革,官僚制の整備,国王常備軍の編成によって中央集権的な支配体制を確立した。国力の充実にともない対外政策も積極化し,ビザンティンと戦ってシリアに侵入し,東方では突厥と同盟してエフタルを滅ぼし,またイエメンを征服して南海に進出した。この時代はまた,ササン文化の最盛期でもあった。しかし,王権は必ずしも永続的な安定を得たとは言えなかった。
つぎのホルミズド4世Hormizd Ⅳの時代にワラフランVarahran(バフラーム・チョービーンBahrām Chōbīn)が反乱を起こし,王はウィスタームVistahmによって廃位された。ワラフランもウィスタームも大貴族出身で,短期間ではあるが相ついで王を称した。ホルミズド4世の子ホスロー2世は,ビザンティン帝国との戦争を指導することによって専制権力を再建した。ペルシア軍はシリア,パレスティナ,エジプトを占領し,小アジアを進んでコンスタンティノープルに迫った。しかし,ビザンティンのヘラクレイオス帝が反撃に転じ,クテシフォンにまで近づくと,ホスロー2世は敗戦のさなかに暗殺された。その後4年間に少なくとも10人の王(そのうち女王2人)が交替し,そのなかにはササン朝以外のものも含まれていた。632年,ヤズダギルド3世の即位によって王位をめぐる混乱は収拾された。しかし,636年にはイスラム勢力の侵入が始まり,翌年カーディシーヤの戦でペルシア軍が敗北し,首都クテシフォンも奪われた。ヤズダギルド3世はメディアに移って再起をはかったが,642年にニハーワンドの戦に敗れ,651年メルブで暗殺された。王子ペーローズ(卑路斯)は中国に逃れ,唐朝の支援を受けてササン朝の回復を企てたが,成功をみないで672年に没した。
社会と文化
ササン朝は王権神授の観念にもとづいて王の支配の絶対性を強調したが,国内にはなおアルサケス朝の一族やパルティア時代から続く名門が特権的大貴族層を形成していた。ゾロアスター国教会の成立は,貴族に対抗する新しい勢力の出現を意味した。ササン朝後半にディフカーンdihqān(村の領主)と呼ばれる小貴族層が成長し,ホスロー1世の改革はディフカーンを官僚,軍隊に取り入れることによって中央集権の強化に成功した。社会は祭司,戦士(貴族),書記(官僚),平民の4階級に分かれ,支配階級に属する上の3者には免税の特権が与えられていた。ホスロー1世は,それまで収穫に応じて徴収していた地税を定額税にあらためた。そのほかに人頭税が存在したが,ユダヤ教徒やキリスト教徒など異教徒には,さらに特別の人頭税が課せられていた。ホスロー1世時代に確立された税制や,ディーワーンdīvān(大臣)によって運営される官僚制は,のちのイスラム国家に影響を与えた。
イラン文化の復興はすでにパルティア時代に始まっていたが,ササン朝ではさらに中世ペルシア語が公用語になり,ゾロアスター教が国教化され,アベスターの編纂が行われるとともに,古代イランの物語詩や伝説が収集されて民族英雄叙事詩が成立した。しかし,外国の要素が排除されたわけでなく,シャープール1世や同2世などが戦争捕虜を植民して建設した都市を拠点に,西方文化が流入した。とくにグンデシャープールが有名である。ホスロー1世は,ユスティニアヌス帝によって追放されたアテナイのアカデメイアのギリシア哲学者を迎え入れ,彼の侍医はインドから医学や文学を伝えた。ギリシアやインドの書物がさかんに翻訳され,それらは中世ペルシア語の文献(その多くは散逸)とともにイスラム時代の諸学問の基礎となった。
執筆者:佐藤 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報