ソ連の物理学者。モスクワに生まれる。1942年モスクワ大学物理数学部を卒業、1945年レーベデフ物理学研究所に入り、I・タムの研究チームに加わり、タムとともに水爆開発に大きく寄与。1953年、32歳の若さで科学アカデミー会員となった。しかしその後、核実験による放射能汚染の重大性などから、その中止を当時のソ連首相フルシチョフに要請(1958)したり、ソ連の体制にかかわって批判的な発言や活動を行うようになり、1968年にはソ連の民主化、人権確立などを主張する論文「進歩、平和共存、知的自由」が西側で公刊された。彼の活動は当局から「反ソ的」として激しく非難されたが節を曲げず、1975年ノーベル平和賞授与に際しては出国が許可されず、夫人が代理受賞した。1980年1月当局により連行され、国家的栄誉も剥奪(はくだつ)され、ゴーリキー(ニジニー・ノブゴロド)市に強制移住させられたが抵抗の姿勢は変えなかった。1986年12月モスクワに帰還。
[内田 謙]
『金子不二夫・木村晃三訳『サハロフ回想録』上下(中公文庫)』
ソ連邦の核物理学者,異論派の中心的存在。若くして核兵器開発に大きな寄与を果たし,ソ連の〈水爆の父〉ともいわれる。32歳にして科学アカデミー会員に選ばれた。やがて核実験による大気汚染を心配し,実験の中止をフルシチョフに進言するにいたり,60年代半ばからは民主化を求める社会的な発言を公然と行うようになった。《進歩,平和共存,知的自由に関する考察》がサミズダート(自主タイプ・コピー)で広められ,68年西側で公刊されたため,機密の仕事からはずされ,科学アカデミー物理学研究所に配置換えとなった。70年代には異論派の柱,ただ一人のスポークスマンであった。この活動に対して,75年ノーベル平和賞が与えられたが,これも材料とされ,しばしば国内で非難キャンペーンが起こされた。80年1月,いっさいの国家的栄誉を剝奪されたうえ,ゴーリキー市(現,ニジニ・ノブゴロド)に行政的に流刑された。ゴルバチョフ政権下の86年12月,流刑解除でモスクワに戻る。89年3月,人民代議員に選ばれ,民主化要求運動の先頭に立っていた。
執筆者:和田 春樹
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1921~89
ソ連の核物理学者,人権活動家。若くして「ソ連水爆の父」といわれ,32歳で科学アカデミー会員。1960年代には異論派として民主化を要求して運動した。75年ノーベル平和賞を授与される。80年にゴーリキー市に行政流刑。86年モスクワに帰還し人民代議員になって,活躍。訪日後,急死した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…メドベージェフは民主主義的改革に期待をかける共産主義者であるのに,ソルジェニーツィンは正教信仰に傾斜し,共産主義体制を全否定する。この2人の間に立って異論派運動の柱となったのは〈ソ連水爆の父〉,科学アカデミー会員サハロフである。彼は普遍的な人権の原理による民主主義者である。…
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