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サビニー サビニーSavigny, Friedrich Karl von

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

サビニー
Savigny, Friedrich Karl von

[生]1779.2.21. フランクフルトアムマイン
[没]1861.10.25. ベルリン
ドイツの歴史法学派創始者。 1800~04年マールブルク,08~10年ランズフートの各大学で教えたのち,10~41年ベルリン大学教授,42~48年プロシア司法大臣をつとめた。ナポレオン法典にならってドイツの統一民法典の編纂を主張した A.チボーに反対し,法の歴史性,民族性を強調した。この考え方は 18世紀後半,ドイツで起った J.ヘルダー,J.グリムらによる民族精神への還帰の運動と呼応していた。主著『占有権』 Das Recht des Besitzes (1803) ,『立法および法律学に対する現代の使命について』 Vom Beruf unserer Zeit für Gesetzgebung und Rechtswissenschaft (14) ,『中世ローマ法史』 Geschichte des römischen Rechts im Mittelalter (6巻,15~31) ,『現代ローマ法体系』 System des heutigen römischen Rechts (8巻,40~49) など。

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デジタル大辞泉の解説

サビニー(Friedrich Karl von Savigny)

[1779~1861]ドイツの法学者。ローマ法の史的研究を通して、法と歴史との関係を重視する歴史法学を創始した。著「現代ローマ法体系」など。

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百科事典マイペディアの解説

サビニー

ドイツの法学者。歴史法学の樹立者。ベルリン大学教授,プロイセン国務相兼司法相を歴任。ローマ法の歴史的・体系的研究を通じ,民法学および国際私法学に大きな貢献をし,19世紀前半のドイツ法学界を指導した。
→関連項目法典論争

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世界大百科事典 第2版の解説

サビニー【Friedrich Karl von Savigny】

1779‐1861
ドイツの法学者。フランクフルトの富裕な貴族の家に生まれた。12人の兄弟があったがことごとく夭折し,また12歳で父を,13歳で母を失い,遠縁の帝国裁判所判事ノイラートに引き取られた。後見人の教育方針もあって,早くから法学を学び,16歳でマールブルク大学に入学,1800年に21歳で学位を得,以後,母校の私講師,員外教授を経て,08年ランズフート大学のローマ法担任教授となった。10年にはK.W.vonフンボルトに招かれてベルリン大学〈創立委員〉となり,12年にはフィヒテの後を受けて33歳にしてベルリン大学総長。

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大辞林 第三版の解説

サビニー【Friedrich Karl von Savigny】

1779~1861) ドイツの法学者・政治家。歴史法学の創始者。著「中世ローマ法史」「現代ローマ法体系」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

サビニー
さびにー
Friedrich Karl von Savigny
(1779―1861)

19世紀前半のドイツ法学界における指導者。フランクフルトの貴族の家に生まれる。ローマ法研究の大家(ロマニスト)で、ドイツ民法学の基礎を築き、国際私法学の樹立にも貢献した。マールブルク大学に学び、1800年母校の講師となり、1808年ランズフート大学教授、1810年ベルリン大学創設と同時に教授に就任。1812年にはフィヒテの後任として約1年半総長を務める。1842年にはプロイセン立法改訂大臣となるが、1848年に退き、以後研究に没頭する。
 1803年に、わずか24歳で『占有権論』を著して名声を博す。1814年に、チボーが「ドイツ一般民法典の必要性について」という論文を発表すると、サビニーは「立法および法学に対する現代の任務について」を書き、ここに有名な「民法典論争」が始まった。チボーは、ドイツの近代化を目ざし、フランスの『ナポレオン法典』のような近代自然法の原理にたつ、理性的・合理的基準に基づく民法典の制定を提唱した。これに対し、サビニーは、法は言語と同じく歴史的に発展してきた民族の共同の確信すなわち民族精神の現れであるから、人間が自由に作為できるものではない、という歴史法学派の立場から、民法典の制定は時期尚早であるとしてチボーの提唱を退けた。日本でも明治20年代前半に「民法典論争」が起こったが、穂積八束(ほづみやつか)は「民法出テテ忠孝亡フ」と述べ、近代民法の制定は日本伝統の醇風(じゅんぷう)美俗を損なうとして反対している。サビニー、穂積らの主張は結局のところドイツや日本の近代化を遅らせることになったことは否定できない。
 民法典論争が起こった翌1815年、サビニーは歴史法学の立場を確立するために、K・F・アイヒホルンらと『歴史法学雑誌』を創刊し、またこの年から1831年にかけて『中世ローマ法史』全6巻、また1840~1849年にかけて『現代ローマ法体系』全8巻を刊行している。サビニーの歴史法学は政治的には保守的な役割を果たしたが、法を歴史的・社会的に考察する必要を説いた点で、法の科学的研究を進めるうえで一定の貢献をしたものといえよう。[田中 浩]

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世界大百科事典内のサビニーの言及

【国際私法】より

…他方,具体的な適用の結果を知ったうえでそれを比較検討し最終的な準拠法の選定を行いうるため(結果選択的result‐selective),より妥当な解決に至りうるという利点もある。この方法は,ベヒター(1797‐1880)によって批判され,F.K.vonサビニーが後述の方法を提唱するまで,西欧を約6世紀にわたって支配した。今日でも,上記Aのタイプの規定の適用にあたってはなお有効な手段である。…

【パンデクテン】より


[パンデクテン法学]
 18世紀末以降,ドイツにおいても私的自治の領域としての市民社会が成立することになる。自然法論による法概念の形成および体系化の作業のあと,この私的自治の法としての私法の体系を完成したのは,サビニー歴史法学に発するパンデクテン法学である。サビニーは歴史主義的主張によって歴史法学を基礎づけると同時に,ローマ法を手がかりとする体系の構築(立法においては学説による)をもって実定法的秩序の変革を目ざした。…

【歴史法学】より

…19世紀初頭にドイツのF.K.vonサビニーによって樹立され,その後1世紀の間ドイツ法学をほぼ支配した学派の研究およびその理論を指すが,ときにこの学派の影響下に成立したイギリスのメーンP.G.ビノグラドフ,あるいはフランス・ベルギーのバルンケーニヒL.A.Warnkönig等の学説を含めることもある。 宗教的世界観の呪縛(じゆばく)からの人間精神の解放を前提とし,近代科学の成果に立脚しているという点で,歴史法学は近代自然法論と共通の基礎を有していた。…

※「サビニー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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