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シネマ・ベリテ cinéma‐vérité[フランス]

世界大百科事典 第2版の解説

シネマ・ベリテ【cinéma‐vérité[フランス]】

カメラをもつ男/これがロシアだ》(1920)で知られるロシアの前衛的記録映画作家ジガ・ベルトフが1922年に,大新聞《プラウダ》に対して自分の撮るニュース映画はその付録として〈映画(キノ)に撮られた新聞〉であるという意味で〈キノ・プラウダ〉と名づけたが,フランスの映画史家ジョルジュ・サドゥールがこれをフランス語に直訳し(キノ=シネマ=映画,プラウダ=ベリテ=真実),1950年代後半から60年代にかけて台頭したフランスの新しいドキュメンタリー映画,とくにアフリカを舞台に活躍していた人種学者ジャン・ルーシュの一連の作品に与えた名称である。

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世界大百科事典内のシネマ・ベリテの言及

【アフリカ映画】より

…それでも,1961年にはアフリカ映画のトーキー第1作《愛は障害を越えて》がソマリア(1960年7月独立)のホッセン・マブルークによって作られる。さらに,セネガル(1960年6月独立)の作家ウスマン・サンベーヌの映画が国際的評価を得たこと(アフリカ映画史上最初の長編作品《黒人女》がフランスで1965年度ジャン・ビゴ賞,《郵便為替》が68年ベネチア映画祭審査員特別賞,《エミタイ》が71年モスクワ映画祭銀賞を受賞),1946年以来アフリカで一連の〈人種学映画〉を撮り続けているフランスの人種学者であり映画作家であるJ.ルーシュの影響(〈シネマ・ベリテ〉と呼ばれる一種の〈演出された〉ドキュメンタリー《われは黒人》(1958),《人間ピラミッド》(1960),《ジャガール》(1967)等々に出演した黒人たちがその後みずから映画を作り始める),そして外国(とくにフランス)に留学して映画の技術を学んだ若い世代(例えばコートジボアールの映画作家デジレ・エカレはフランスの高等映画学院(IDHEC)の出身である)が帰国して映画を作り始めたこと等々といったことが集積して,60年代後半から70年代にかけてアフリカ映画が〈映画の第三世界〉としてにわかに注目されるに至った。映画の内容も,当然ながら文明=植民地主義=白人社会の中で疎外された黒人の運命を主題にしたものが多い。…

※「シネマ・ベリテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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