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カメラ カメラ camera

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6件 の用語解説(カメラの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

カメラ
カメラ
camera

写真を撮影するための光学器械レンズファインダーなどの光学系,シャッター絞りなどの露光装置,写真フィルムを収める暗箱,およびフィルムを巻き取る装置などからできている。カメラ・オブスキュラという,ピンホール(小孔)を利用して戸外の風景を映し出す装置がカメラの起源といわれ,ヨーロッパで 16世紀に発明されたが,のちに小孔の代わりにレンズを使用するようになった。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉の解説

カメラ(camera)

《語源はラテン語で、部屋・箱の意。「キャメラ」とも》
写真を撮影する光学器械スチールカメラ映画カメラテレビカメラなど。「胃カメラ
判事の私室。→インカメラ審理

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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
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百科事典マイペディアの解説

カメラ

写真機。レンズを介して暗箱内に収めた感光材料(乾板,フィルム)に被写体の映像を結ばせる写真撮影用光学器械。ピンホールを利用したカメラ・オブスクラ(のちに凸レンズをつけて小型化したものが描画,風景観賞等に使用された)から発達したもので,1839年ダゲールが発明したダゲレオタイプの写真機が今日のカメラの始まりといえる。
→関連項目写真ピンホールカメラベローズ(写真)ライカ

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世界大百科事典 第2版の解説

カメラ【camera】

写真機ともいう。写真を撮影するための装置。カメラの起源はカメラ・オブスキュラcamera obscuraであり,これは〈暗い小部屋〉という意味のラテン語である。すでに前3世紀の幾何学者ユークリッドは,暗い部屋の壁面の小孔を通る光線により外の風景が投影されることを認めていたといわれ,また11世紀ころにはアラビア人たちが天幕製のカメラ・オブスキュラを楽しんでいたという。英米法において判事の私室をcameraといい,しばしばin camera(判事の私室で,内密にの意)という使い方をされるのも,語源的にはcameraが写真機とともに小部屋を意味することを考えれば首肯される。

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大辞林 第三版の解説

カメラ【camera】

物体の像を記録する装置の総称。写真を撮影する写真機や映画・テレビ・ビデオの撮影機など。キャメラ。
カメラマンの略。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

カメラ
かめら
camera

写真を撮影するための光学機械。記念写真のような一般写真のほか、顕微鏡レントゲン、航空、水中、天体写真用などがあり、報道、産業、行政、学術、医学、司法、通信、芸術などの広い分野で活用されている。カメラという語は、今日では、「映画カメラ」「テレビカメラ」「ビデオカメラ」「デジタルカメラ」(パソコン電話機などに搭載のものを含む)など幅広く使われているが、詳しくは各項を参照。ここでは銀塩感光材料を使う写真機、すなわちスチルカメラを中心に解説する(テレビカメラについては、項目「テレビジョン」を参照)。[伊藤詩唱]

カメラ先史

カメラの起源は、紀元前に出現したカメラ・オブスキュラcamera obscura(ラテン語で暗い部屋の意)で、暗くした部屋の屋根や壁などに小穴をあけ、その反対側の白い壁や幕に、戸外の実像を逆さまに写し出す装置である。
 紀元前4世紀のギリシアの哲学者アリストテレスもこの原理によって、戸外の景観を写して観察したといわれている。11世紀のアラビアの学者アルハーゼン(イブン・アル・ハイサム)は「日食がきれいな三日月形に投影されるのは、小穴の径がきわめて小さい場合のみである」と研究報告し、イタリア・ルネサンス期の芸術家レオナルド・ダ・ビンチも遠近法の実験にこれを利用している。初期のカメラ・オブスキュラはレンズなしの、今日でいうピンホール・カメラであったが、16世紀のミラノの物理学者カルダーノは著書『根本的なこと』(1550)のなかで、両凸面レンズを穴にはめると、より鮮明な明るい像が得られると解説した。またベネチアの貴族ダニエッロ・バルバーロDaniello Barbaro(1513―74)も『遠近法の実際』(1568)で、小さい絞りの効果を発表した。イタリアの物理学者ジョバンニ・バッティスタ・デラ・ポルタGiovanni Battista della Porta(1538―1615)は『自然の魔術』(1589)のなかで、絵を描くときの補助具としてのカメラ・オブスキュラを推奨した。この本がヨーロッパ各国で翻訳出版されて非常に売れたために、彼が発明したものと誤信されたほどである。1620年ごろドイツの天文学者ケプラーは、移動可能なテント型のものを製作し測量に使用、同じころウュルツブルク大学の数学教授カスパル・ショットは、焦点調節のできるものを製作した。アルトドルフ大学のヨハン・シュトルムは『実験的もしくは好奇的集団』(1676)のなかで、初めてレフレックス型の図解を試みた。ウュルツブルクの修道僧ヨハン・ツァーンJohann Zahn(1641―1707)は『遠隔光線の屈折光学的人工眼』(1685)で、焦点板として乳白色ガラスを用い、箱の中を黒く塗って内面反射を防止することを最初に提案した。1758年にはイギリスの光学者ジョン・ドロンドJohn Dollond(1706―61)によって最初の色消しレンズがつくられ、映像はより鮮明となった。18世紀末になると、この像を固定しようという試みが多くの人々によって始められた。
 最初に試みたのは1793年ごろ、フランスのニエプス兄弟、弟のニセフォールと兄のクロードであったと伝えられる。イギリスのトマス・ウェッジウッドThomas Wedgwood(1771―1805)も硝酸銀を使って実験したが成功しなかったと、1802年の学士院会報に報告している。
 1816年、ニセフォール・ニエプスは塩化銀と硝酸に浸した紙を用いて実験したが、定着することを知らなかったことと、明暗が反対のネガ(陰画)に写ったので、彼自身失敗したと認めてしまった。1826年(1822年説もある)ニエプスは、ユダヤ産のビチューメン(白っぽい天然アスファルト)をスズと鉛の合金のピューター板に塗布し、これをカメラに装填(そうてん)して、戸外に向けて約8時間露出したのち、石油とラベンダー油の混合液で洗い、光を受けてアスファルトが硬化した部分を白く残して、画像を固定した。これが世界で初めて成功した写真で、彼はこれをヘリオグラフィー(Heliography=太陽の絵)と名づけた。このときニエプスが使ったカメラは、パリの光学商シュバリエ製の焦点距離300ミリメートルF15両凸色消しレンズ付きで、幅30.5センチメートル、高さ31.5センチメートル、奥行38.5センチメートルの木製のカメラ・オブスキュラを改造したものであった。
 フランスのダゲールは、ニエプスの死後、その研究の大部分を引き継ぎ、1837年に、銀めっきした銅板上に生成させたヨウ化銀に露光を与え、水銀で現像し食塩水で定着して、見えない潜像を現像して可視像をつくるという現在の写真の基礎を発明、1839年8月10日パリ・アカデミーで発表し、ダゲレオタイプ(日本名は銀板写真)と名づけた。
 ニエプスやダゲールが使ったカメラは、それまでの絵画制作の補助具としてのカメラ・オブスキュラとは異なり、後部に感光材料を入れる取枠(とりわく)をつける装置をもった、現在のカメラの直接の先祖といえるものである。[伊藤詩唱]

カメラ発達史


銀板写真時代
ダゲールは1839年8月、世界最初の販売カメラであるジロー・ダゲレオタイプ・カメラをパリの光学商アルフォンス・ジローから発売した。このカメラは幅39センチメートル、高さ32センチメートル、奥行約50センチメートルで、前面にレンズをつけた木箱と、後部にピントグラスと銀板を入れる取枠を装着した木箱があり、後部の箱をレンズのついた箱のなかに滑り込ませ、前後させて焦点調節を行う構造であった。レンズはシャルル・シュバリエCharles Chevalier(1804―59)がつくった焦点距離38センチメートルF17色消しランドスケープで、16.5センチメートル×21.5センチメートル(八つ切り)の写真を撮ることができた。
 フランス政府はダゲールの発明をただちに買い上げ公開したので、カメラの改良と製造の競争がたちまちヨーロッパ各地におこり、早くも同年12月にはフランスの男爵ピエール・アルマン・セギエBaron Pierre Armand Seguier(1803―76)が、世界最初の蛇腹(じゃばら)式カメラを、三脚、雲台(うんだい)のほか薬品などの装備一式とともに一つのトランクに収める方法を発表した。翌1840年には前記シュバリエも分解組立て可能の木製カメラを発売している。
 同年イギリス人タルボットは、現在のネガ・ポジ法の祖であるフォトジェニック・ドローイングphotogenic drawing(タルボタイプ、のちに改良されてカロタイプとよばれた)を発明、イギリス特許を取得し、1841年にロンドンで発売されたという記録があるが、現存するタルボット使用のカメラは、幅と高さが7.5センチメートルないし14センチメートル角、「ネズミ取り」という愛称のよく似合う小型の自家製で、レンズは既製のものである。
 同年3月イギリスの天文学者ハーシェルは、現在使われているフォトグラフィphotographyという名詞や、フォトグラフphotograph(動詞)、フォトグラフィックphotographic(形容詞)、さらに20年後にはスナップショットsnapshotなどの新語を最初に使用している。
 1841年ドイツのフォクトレンデル社は、ウィーン大学教授で数学者のヨゼフ・マックス・ペッツバールJosef Max Petzval(1807―91)が設計したF3.7焦点距離149ミリメートルという当時としては驚異的な明るさのレンズを取り付けた、真鍮(しんちゅう)製でカクテルシェーカー型のカメラを売り出した。このカメラは、快晴の日中でも40分を要した従来の露出時間を、一挙に約16分の1に短縮した。同年フランスのルルブール社製カメラのレンズには、回転する金属板に数種の小穴をあけた回転絞りが初めて採用され、これは次の時代には盛んに使われるようになった。またドイツのシュタインハイル社は、当時のオーストリア通貨グロッシェン銀貨の片面を研摩し、表面に8.5ミリメートル×11ミリメートルの写真を写す豆カメラを発売した。この画面サイズは、後年のミノックス(超小型精密カメラ)に採用されて復活している。
 このころ、銀板写真術の改良と相まって欧米各地に続々と写真館が誕生、肖像画にかわる肖像写真が急速に普及し、街頭スナップ写真も初めて撮影された。さらにフランスでは1844年に、銀板を半円状に曲げ、画角150度のパノラマ写真用カメラがつくられ、45年ごろには自然落下式の木製ギロチン型シャッターが現れたといわれているが、実物は現存しない。また53年にイギリスのジョン・ベンジャミン・ダンサーJohn Benjamin Dancer(1812―87)がつくった二眼式のステレオカメラはプロペラ型シャッターをもち、このころから原始的なシャッターが出現し始めた。
 いわゆる銀板写真時代とは、アーチャーが湿板を発明した1851年までをいうが、実際には1855年ごろまで銀板が使用されていた。しかしこの短時日に写真は急速に進歩し、1853年にはアメリカのポートレート作家でニューヨーク大学教授であったジョン・ウィリアム・ドレーパーJohn William Draper(1811―82)が月の超望遠銀板写真の撮影に成功している。
 なお日本へは銀板写真術がダゲールの発明1~2年後にオランダを通じて渡来し、島津藩に伝えられた。[伊藤詩唱]
湿板写真時代
1851年、産業革命後のイギリスでアーチャーにより湿板写真術(湿式コロジオン法)が発明された。これは、ヨードカリを含むコロジオンをガラス板に塗布し、これを硝酸銀溶液に浸して、湿っているうちに撮影、現像を行い、ハイポで定着する方法である。これで得たネガは、裏に黒布を当てるとポジに見える便利さがあり、画像が鮮明で、しかも銀板写真は数十分、カロタイプが数分という露光時間を数秒に短縮し、価格も低廉となった。加えて発明者が特許を取得しなかったこともあって、またたくまに世界中に広まり、ゼラチン乾板が普及する1880年ごろまで湿板が写真感光材料の主流となった。その間、湿板写真のつくりやすい特徴を生かして野外撮影が盛んになり、辺境の地まで撮影紹介されるようになって、カメラは旅行向きの蛇腹付き組立て型が中心となった。
 1857年に「太陽カメラ」という引伸し機もつくられたが、引伸し用印画紙がなかったために実用化には至らず、カメラは密着用でキャビネ判を最小に四つ切り判がほとんどであった。1860年にはイギリスのジョン・キッブルJohn Kibbleにより、画面サイズ91センチメートル×112センチメートルという超大型カメラまでつくられた。
 1850年代後半にはさまざまの変型カメラがつくられている。1854年にフランスのアンドレ・アドルフ・ウジェーヌ・ディデリAndr Adolphe Eugne Disdri(1819―90)が考案した多眼カメラは、18センチメートル×24センチメートル判の中に名刺大の8枚の肖像写真を撮影するもので、それまで一般大衆にとって高価であった写真の単価を引き下げ、名刺写真ブームを引き起こした。1858年にイギリスのトマス・スケイフThomas Skaifeは、引き金を引くとゴムバンドの力でシャッターが切れる、画面の直径約36ミリメートル、ダルメヤーF1.1付きピストルグラフを製作した。これは前述したようにハーシェルをしていわゆるスナップショットということばを初めて使わせることになった。
 1861年にはイギリス人トーマス・サットンThomas Sutton(1819―75。彼は1859年に、レンズの間に水を入れ写角120度という超広角レンズを製作している)が一眼レフに関する最初の特許を取得したが、一眼レフの商品化は次の時代になってからである。このころになるとシャッターもようやく本格的なものの原型がつくられるようになり、ダルメヤー社製のステレオカメラには扉型の可動式金属板のフラップシャッターが取り付けられた。また1864年フランスのジュール・アンドレ・ガブリエル・ブルダンJules Andr Gabriel Bourdin(1832―93)は、湿板用であるがカメラ内で現像を行う世界最初のインスタント・カメラ、ダブロニの特許を取得している。
 この時代はカメラ自体の技術革新もさることながら、感光材料の改良進歩が目覚ましい。1861年にイギリス人ジェームズ・クラーク・マクスウェルJames Clerk Maxwell(1831―79)により実験された天然色写真のほか、湿板の感度上昇やコロジオン乾板の発明、70年の感光色素の発見などがある。一方、気球からの空中写真や、アーク灯の光による人工光撮影が写真家ナダールによって行われ、プロイセン・フランス戦争(1870~71)中に、湿板の膜を通信文としてハトに運ばせるなど写真の利用範囲が拡大していった。
 日本で写真撮影が本格的になるのもこのころからで、幕末の1862年(文久2)には下岡蓮杖(しもおかれんじょう)が横浜に写真館を、上野彦馬(ひこま)が長崎に「上野撮影局」を開業、明治維新ごろから全国各地に写真館が増え、普及への道をたどり始めた。[伊藤詩唱]
カメラの小型化と大型一眼レフ時代
これはゼラチン乳剤(いわゆる乾板)の発明から第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)までの時期にあたる。前期の湿板写真がコロジオンと硝酸銀を塗り、乾かないうちにただちに露光し現像しなければならなかったのに対し、1871年イギリス人リチャード・リーチ・マドックスRichard Leach Maddox(1816―1902)が発明した乾板は、ガラス板の上にゼラチンを支持体として臭化銀乳剤を塗り、乾いてから使う方法であった。その後の研究で高感度の乾板が工業生産されるようになり、1880年代には乾板が湿板にとってかわった。しかし乾板は重く割れやすいために、のちにフィルムが開発されると、しだいに姿を消していった。
 現在も使われている現像主薬のハイドロキノン(1880)やメトール(1891)が発見されると、アマチュアの間に写真が急速に普及し、同時にカメラは革命的ともいえる発展を遂げた。
 感光材料の感度が高くなり、何十分の1秒という露光が可能になると、それまでレンズの蓋(ふた)でしかなかったシャッターは、露光時間を調整する目的の本格的なものを必要とした。まず、すきまのあいた膜がレンズの前を走るローラーブラインド型(日本ではソルントンと俗称)は現代のフォーカルプレンシャッターの祖ともいえるもので、しだいに改良されて感光材料の直前に組み込まれ、現在の形となった。1891年にはドイツ人オットマール・アンシュッツOttomar Anschtz(1846―1907)が1000分の1秒を、98年にはドイツのジュメユ・シグリストが2500分の1秒という超高速フォーカルプレンシャッターを実現し、これによって動物の高速度生態写真の撮影が可能になった。レンズの前面で何枚かの羽根が開閉するレンズシャッターが出現したのもこのころで、これをレンズの中央部に組み込んだ、現在のものと同じような型を製品化(1891)したのはアメリカのボッシュ・ロム社である。
 さらにこの時代の特筆すべきことは、ロールフィルムの発明とカメラの小型軽量化である。アメリカのジョージ・イーストマンは、重く壊れやすいガラスにかわる乳剤の支持体と手軽に写真を撮る方法を探究していたが、ゼラチン乳剤を紙に塗布しロールに巻くことを考え付き、1885年アメリカンフィルムと称するロールフィルムを発売した。続いて1888年には「あなたはシャッターを押すだけ、あとはお任せください」という有名なキャッチフレーズのもとに、このロールフィルム(100枚撮り)を装填(そうてん)したボックス型カメラ、ザ・コダック(最初のロールフィルム専用カメラ)を世に送り出した。横幅82ミリメートル、高さ95ミリメートル、奥行165ミリメートルで、シャッター速度は約20分の1秒、レンズは単玉で直径約55ミリメートルの円形の写真を写すことができた。価格は革ケース付き25ドル、撮影後、追加料金10ドルを添えてイーストマン社の工場に送ると、現像・焼付けをしたうえで新しいフィルムを入れて送り返された。その簡便さに大衆の人気が集まり、発売後1年もたたないうちにザ・コダックはアメリカ人の生活の一部となり、カメラの小型化を推進する大きな力となった。
 さらにイーストマン社は、牧師グッドウィンが特許をもつニトロセルロースを支持体とするフィルムを改良し、1898年には最初のスプリングカメラ、フォールディング・ポケット・コダックを、1912年には世界初の大量生産カメラとなったベスト・ポケット・コダックを発売した。後者は世界中の人気を集め、ベスト判単玉カメラであったことから、日本では「ベス単」の愛称で親しまれた。同社はブランド名をとってイーストマン・コダック社と社名を変更、1913年のX線用フィルム発売以来、写真を今日の科学研究に欠くことのできないものに育て上げた。
 こうしてカメラが手持ちで撮影できるようになると、撮影範囲を決めるためのファインダーが必要となった。ザ・コダックではボディーの上に三角形の線を引き、撮影できる角度を大まかに示すだけであったが、やがて凸レンズの後方にミラーをセットし、上から磨(すり)ガラスを通して覗(のぞ)く小型の反射式ファインダーが考案され、ベス単などに使われた。
 従来の乾板用カメラも小型の折畳み式手提げカメラが主流となり、当時の新金属アルミニウムを一部に使用し軽量化することが図られた。ドイツのテディ(1899ごろ)、イギリスのサンダーソン改良型(1901発売)、ドイツのイデアール(1905ごろ)などがこの時代を代表する機種で、いずれも小型の反射式ファインダーを備えている。
 この時代のもう一つの特色は、大型高級一眼レフの出現である。1885年ごろアメリカのスミス社からパテント・モノキュラー・デュープレックスが商品化第一号として世に出たのち、1898年に同じくアメリカのフォルマー・シュウィング社からグラフレックスが発売された。これはその後約50年間も生産され、アメリカ市場を独占し、後発のものに大きな影響を与えた。
 しかし一眼レフを大きく進歩させたのはイギリスで、1899年アダムス社は高速度フォーカルプレン付きアダムス・レフレックスを、1901年シウ社は後部取枠回転式や表面鏡を開発してシウ・フォーカルプレン・レフレクターを出した。1910年代には近代の2枚幕フォーカルプレンの原型や、シャッターレバーを押し下げている間だけミラーがあがっている現代のクイックリターン方式の祖となる機構をもった機種が製造発売されて、世界中に多数の愛用者を生んだ。
 また二眼レフもこの時代に生まれたが、一眼レフに需要を奪われ、発展するのは次の時代になってからである。
 1900年ごろ流行したカメラに、撮影済み乾板をカメラ内の空間に収蔵するマガジン式や種々の趣向を凝らした隠し撮り用がある。なかでもフランスでつくられた二眼式のジュメユ・カーペンター(1892)は、ファインダー用ビューレンズ側の空間を収納庫として利用したユニークな設計であった。また2個のレンズを左右に並べ、同一被写体を同時に2枚の画面に撮影し、ふたたび2個のレンズを通して立体的に見る金属性ステレオカメラがこの時期に大流行した。蛇腹を引き出すとただちに手持ちで撮影できるクラップカメラの原型や、世界最初の自動巻上げ機ル・パスカル(フランス)、超小型カートリッジ式のチッカ(イギリス)なども製造されている。
 この時代、日本でもカメラや乾板の国産化がようやく始まり、1882年(明治15)六桜社が木製組立て暗箱の製造を開始し、1900年のパリ万国博覧会には浅沼商会が木製暗箱を出品した。六桜社からは1900年ボックス型マガジンカメラのチェリー、1911年にミニマムアイデアが発売されたが、レンズやシャッター、感光材料を含む大部分を輸入に頼る状態であった。[伊藤詩唱]
スプリングカメラと二眼レフの時代
第一次世界大戦から第二次世界大戦終了までで、この時期にライカ、コンタックスを頂点に、スプリングカメラと二眼レフでドイツが世界をリードし、連動距離計やEE(エレクトリック・アイelectric eyeの略。初期の自動露出)機構など、現代の精密カメラの基礎技術となるものが次々と開発された。
 第一次世界大戦中の1916年、コダック社は世界初の連動距離計カメラAオートグラフィック・コダックスペシャルを出し、これは軍用に用いられた。戦後、ドイツの復興は目覚ましく、ネッテル社は当時のアメリカのベストセラー「ベス単」と同型のピコレットを生産開始し、やがてドイツはアルミニウム軽合金を活用した精密カメラを次々と発表して、それまで木製カメラの最大生産国であったイギリスを追い抜き、質量ともに世界第1位の王座についた。
 1923年、ドイツのエルネマン社から「見えるものならなんでも写せます」というキャッチフレーズで、F2(のちにF1.8)という明るいレンズをつけたエルノックス(のちにエルマノックス)が発表され、室内での早撮りが可能となった。写真家ザロモンはこのエルマノックスでヨーロッパの首脳会談など政治舞台の貴重なスナップを記録している。これが契機となってアンゴーやパルモスなどのクラップカメラが長期間にわたり、アメリカのスピードグラフィック(通称スピグラ。1913)とともに世界中の新聞社などで使用され続けた。
 映画産業用の35ミリフィルムを利用することは20世紀初頭から試みられていたが、ドイツのエルンスト・ライツ社(現ライカ・カメラ社)の技師オスカー・バルナックOskar Barnack(1879―1936)は第一次世界大戦前の1913年(一説に1914年)に、シネカメラの露光テスト用として、映画の標準サイズ2こま分を使って画面サイズ24ミリメートル×36ミリメートルという小型カメラを試作した。これをもとに1925年春、ライプツィヒ博覧会にライカA型が出品されたが、以来、各型の改良によって精巧さと操作性、各種付属品の完備している点で、いまだに人気を持続している。この画面サイズはその後つくられた35ミリカメラの標準サイズとなり、ライカ判という新語を生み出した。ライカは1932年に、精密距離計をレンズの動きと結び付けた、いわゆる連動距離計式カメラに発展していった。
 第一次世界大戦後のドイツで乱立したカメラメーカーのうち4社が企業合併してできたツァイス・イコン社は、アメリカのコダック社発売の1ドルカメラ、ブローニーのフィルムを使用し、蓋を開けるとレンズ部が飛び出すスプリングカメラ、イコンタを1929年に発売、続いてブローニー2分の1サイズのセミイコンタ、ベス単用フィルムを使用するベビーイコンタを出した。1932年にはライカに対抗する距離計連動の35ミリ判のコンタックスが出現、1935年のコンタフレックス(35ミリ二眼レフ)には、アメリカのウエストン電気が開発したセレン電気露出計を組み込むなど、エルンスト・ライツ社とツァイス・イコン社は互いに技術競争し、ともに世界最高級品を世に送り出した。また1934年には、パトローネ入り35ミリフィルム発売のきっかけとなった、レンズシャッター付きコダック・レチナ(ドイツ)も出現している。
 二眼レフは第一次世界大戦前、イギリスの高級一眼レフに圧倒されて姿を消したが、映画がトーキー時代に入った1928年、ドイツのローライ社(正式名ローライ・ウェルケ・フランケ・ウント・ハイデッケ社)が近代的なローライフレックスとして復活させると、ドイツのほかのメーカーも趣向を凝らしたものを製造、追随した。二眼レフはカメラ前面に、撮影用とファインダー焦点調節用の2個のレンズを上下に配列し、上方のピントグラスを見ながら撮影するもので、1934年には普及型のローライコードが出て世界各国に二眼レフブームがおこった。
 この間アメリカではコダックの低価格ボックス型カメラが市場を独占し、アマチュアの写真熱を盛んにし、写真愛好家の底辺を拡大した。
 また、現在はあまり使われなくなったフラッシュバルブ(閃光電球(せんこうでんきゅう))は、1927年ごろドイツで開発され、ストロボは1939年アメリカで発明され、翌年コダックが製品化している。レンズのコーティング(増透処理)は1935年ごろから研究され、世界初のEEカメラもコダックから1938年に発売されているが、これらが普及するのは次の時代になってからである。
 1939年に第二次世界大戦が始まり、ライカなどの供給がとだえると、各国でライカコピーがつくられ、なかでも1941年コダック社のエクトラはドイツ品以上の高性能を誇った。
 この時期の日本は、第一次世界大戦によってヨーロッパからの輸入が期待できなくなり、カメラをはじめとする光学機器の国産化の必要に迫られた。1917年(大正6)の日本光学(現ニコン)の設立に続き、旭光学(あさひこうがく)工業(のちペンタックス。2008年HOYAに吸収合併。2011年リコー傘下のペンタックスリコーイメージングとなる)、高千穂製作所(現オリンパス)、オリエンタル写真工業など数社が発足、昭和に入って、東京光学機械、精機光学研究所(現キヤノン)、千代田光学精工(のちミノルタ)などが設立され、本格的な光学機械工業がおこった。初期は従来のガラス乾板用ハンドカメラを生産していたが、1925年になってベス単と同型機のパーレットが誕生し、これは第二次世界大戦まで愛用された。1933年(昭和8)小西六(のちコニカ)からブローニー判スプリングカメラのパール、セミ判のセミ・パールなどが発売されると、他社も歩調をあわせて次々とロールフィルム使用機を生産した。1934年には当時日本で唯一の成功商品となったボックス型カメラ、ミノルタベストが発売されたが、国産初の35ミリカメラ、ハンザ・キヤノンのほか国産二眼レフも含めて、大部分はドイツ製品の模倣の域を出なかった。[伊藤詩唱]
第二次世界大戦以降
第二次世界大戦後のドイツも日本も、戦前のスプリングカメラなどの生産から再スタートしたが、1950年(昭和25)ごろまでに戦前型は全部出そろい、以降は戦後型カメラの時代となる。この間注目すべきことは、カメラの価格が引き下げられ、カラー写真が普及し、電子化と自動化が進められ、戦前カメラの生産では二流国にすぎなかった日本が、ドイツを追い越して世界のトップにたったことである。
 第二次世界大戦後2年目の1946年には早くもハンガリーのガンマ製作所で、目の高さで正像に見えるファインダーやクイックリターンミラーなど近代的な機構を備えた一眼レフ、デュフレックスの量産試作が行われたが成功せず、幻の名機に終わった。
 1948年になると世界的な技術開発競争が始まった。まずアメリカのポラロイド社が、撮影後即座に写真ができる1分間写真ポラロイド・カメラを発明、これはのちに一般写真のほか科学、医学、産業など広い分野に活躍することになった。1950年、旧東ドイツのツァイス・イコン社から、世界で最初にペンタプリズムを使った一眼レフ、コンタックスSが発売された。一眼レフではレンズを通った光がミラーで反射し、ピントグラス上に左右逆の像を結ぶ。この逆像を正像に見えるようにするのがペンタプリズムである。やがてこのプリズムはヨーロッパ各国、のちに日本の一眼レフに採用され、これを収納するための屋根をつけた一眼レフ特有のスタイルが誕生した。また同年、ピントをあわせるときには開き、シャッターが切れるときは定められた絞りになる一眼レフ用自動絞り機構がアメリカのグラフレックス社で開発された。
 朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した1950年に、ローライはF2.8付き、旧西ドイツのコンタックスは電気露出計を組み込んだa、a型、ライカはフラッシュと完全同調するf型へと改良された。
 日本では第二次世界大戦中のライカコピー製造を足掛りに、1946年ごろから連動距離計付き高級35ミリフォーカルプレンカメラのキヤノンやニコンなどを生産していたが、戦後の一時期は占領軍の命令で、アマチュア用フィルムの生産中止、輸入食糧の見返りにマイクロやダンをはじめとするミニカメラを含め、生産カメラを全量輸出するなどの困難な時期を経験した。しかし50年『ニューヨーク・タイムズ』にニコン(カメラ)とニッコール(レンズ)の優秀性が報道されると、日本のカメラは世界の注目を集めるようになった。同年オリンパス光学工業(現オリンパス)から「ガストロカメラ」が発表され、胃内を簡単に直接撮影することに成功し、それ以後、医療の面に多大の貢献をした。さらにこの年、性能がよく低価格の二眼レフ、リコーフレックスが発売されると、フィルムの巻きぐせをなくしたミノルタや、レンズ交換式のマミヤなど多数の銘柄が続出、以後10年にわたる二眼レフブームのスタートが切られた。
 一方ヨーロッパでは35ミリ一眼レフが普及し始め、イタリアのレクタフレックスはスプリットイメージの祖ともいえるデュオフォーカシングを採用した。スプリットイメージはピントをあわせやすくするために、くさび状のプリズム2個を左右向きを変えて配置し、焦点板上に上下像を合致させるようにした距離計で、これを採用した機種に旧東ドイツのエキザクタバレックス、旧西ドイツでは世界初のレンズシャッター式で35ミリ一眼レフ、ペンタプリズム付きのコンタフレックスがある。日本では1954年に旭光学工業が、シャッターが開いている間はミラーがあがっているクイックリターン・ミラーを実用化し、1955年ペンタプリズムを採用したオリオンカメラのミランダTが出るようになると、前出の高級35ミリカメラなども着実に生産量を伸ばした。1954年、エルンスト・ライツ社は同型機の理想像ともいえるライカM3型を発売してほかを大きく引き離した。56年になると旧西ドイツのアグフア社(現アグフア・ゲバルト社)が、レンズシャッター付き35ミリカメラのEE化(自動露出化)に着手し、日本にも波及した。
 日本では、オリンパスワイドにみられるような広角レンズや、電算機導入による廉価な大口径レンズ付き35ミリ大衆カメラが一時的なブームをおこしたが、1959年にハーフ判(24ミリメートル×18ミリメートル)のオリンパスペンが発売されると、大型化したカメラに反発するかのように、ハーフ判ブームが日本だけにおこり、1960年代の小型化への志向がはぐくまれた。
 アメリカでは、コダック社がフラッシュ同調式のスターシリーズを発売し、1957年から5年間に約1000万台を生産したが、ボックス型カメラは同機が最後となった。
 1960年代になると二眼レフ、スプリングカメラ、連動距離計付き高級35ミリカメラは姿を消し、完全に自動化したレンズシャッター付き35ミリ大衆カメラと、高級一眼レフの時代となった。日本の大手2社日本光学(ニコン)とキヤノンも59年に一眼レフの生産に乗り出し、魚眼レンズから焦点距離1000ミリメートルを超す望遠レンズ群までそろえ、顕微鏡撮影をはじめとする補助装置を整備し、気象観測用全天カメラから水中カメラ(1961年にフランスのスピロテクニック社が発明、1963年にニコンが商品化したニコノス)まで、あらゆる用途に対応するシステムを完成、1962年にはスチルカメラの生産高では日本が世界第1位となった。
 一方カメラの小型化がこの時期に現れ、創立以来カメラの大衆化を目ざしてきたコダック社は、フィルムの出し入れが簡単なカートリッジ式を開発して1963年に初心者用のインスタマチック・カメラ126判(26ミリメートル×26ミリメートル)を出すと爆発的な人気をよび、さらに1972年には同じくカートリッジ式の超小型のポケット・インスタマチック(13ミリメートル×17ミリメートル)を発売、世界各国でこの形式のものがつくられた。旧西ドイツでは1967年にコンパクトなローライ35が発売されると各社でも小型化が進み、日本もこれに追随したが、その後の一眼レフブームに押されてやがて鎮静化してしまった。
 さかのぼって1960年に旧西ドイツのメック16SBは、硫化カドミウム受光素子(1957、アメリカRCA社開発)を使い、TTL測光方式を実用化している。TTLはスルー・ザ・レンズthrough the lensの頭文字で、カメラ内部に受光体を置き、レンズを通ってきた光を直接測って露出を決定する機構で、日本では1960年に試作品がつくられたが、1963年にTTL方式一眼レフ、トプコンREスーパーが市販され、この方式を採用したライカM5が1972年に発売されている。
 一方、1950年代まで新聞報道写真の主役であったスピグラに代表される大型カメラは、1964年東京オリンピックのころまでには機動性に優れた35ミリカメラにその座を明け渡した。1970年代にシャッターなどから電子化が始まったが、一般化には至らず、商業写真や営業写真など専門家用として日本、ドイツ、スイスなどで少量生産されているにすぎない。
 さかのぼって、1950年ごろから発売された内(うち)型カラーフィルム(初めのうち日本では天然色といわれた)は写真のカラー化を進めるきっかけとなった。当初は製版技術(三色分解)の遅れから遅々として進まぬようにみえたが、その後製版技術の急速な進歩により広告の印刷物からカラー化し、1960年ごろから廉価なネガカラーのサービスサイズプリントが始まるとモノクロ写真は急激に減少、カラー写真の氾濫(はんらん)となっていった。[伊藤詩唱]
一般大衆への浸透
ポラロイド社は、シャッター時間を正確に制御する電子シャッターを開発し、1966年には東ドイツ(当時)のプラクチカがこれを一眼レフに採用した。1970年代に入って一連の電子化が積極的に進められ、日本の35ミリ一眼レフでは1971年電子記憶回路による初の自動露出カメラ、アサヒペンタックスESが発表され、1972年には発光ダイオードをファインダー内表示に使用したフジカST801が登場、完全電子化へのスタートを切った。さらに1982年、アサヒペンタックスMEFが自動焦点を実用化すると、ほかのメーカーも相次いで自動焦点機を発売した。1975年にはアメリカのハネウェル社が開発したオートストロボ内蔵のコニカC35EF、1977年には同じくハネウェル社の自動焦点機構を世界で最初に組み込んだジャスピンコニカC35AFが発売され話題をよんだ。
 日本では各社から自動調光ストロボ・自動露出・自動焦点装置などを内蔵、ほとんど完全に電子化し、自動化し、日付を入れて写真の特長の一つである記録性を高めた(キヤノンのキヤノデートより)コンパクト35ミリカメラが次々と発表された。さらに1970年ごろから始まったネガカラーフィルムの現像・プリント処理の合理化による値下げ競争と相まって日本国内に写真ブームがおこり、だれにでも写真が撮れる大衆カメラとして生産量を増やし、確固たる地位を築くとともに、性能のよい日本のカメラは世界を完全にリードした。この自動化指向の波は、1985年α7000(ミノルタ)、86年F‐501(ニコン)の自動焦点化を皮切りに高級一眼レフへも波及し、ほぼ完全な自動化を達成した日本のカメラは世界に君臨した。
 この間の1972年には、写真表現、とくに報道写真の分野に大きな影響を与え続けてきた週刊誌『ライフ』(アメリカ)が休刊となったが、1981年『フォーカス』(新潮社)の発刊を機に、一時、日本国内に写真週刊誌ブームがおこり、次々と新雑誌が発売され、このころから新聞写真もカラー化が始まった。1982年にはコダック社がフィルムを円盤状にしたディスクカメラを発売、日本を除く世界中の人気商品となったが、しだいにその姿を消していった。
 前述の写真ブームも1980年代に入り、しだいに下火となり冷え込んでしまったが、1986年富士写真フイルム(現富士フイルム)から簡単な構造のレンズ付きフィルム「写ルンです」(最初は110サイズ、翌年よりライカ判、後年APSサイズも加わる)が発売された。小学生でも写真が撮れるということから写真文化の裾野(すその)を大きく広げ、パッケージの多様化によりコレクションマニアを生むほどの大ヒットとなった。しかもこのカメラは、最初からリサイクルすることを目標として開発され、1990年(平成2)にはほぼ完全なリサイクル・ユースを達成、コダックから発表された新規格の24ミリメートル幅のフィルムを使用するカメラ、APS(アドバンスト・フォト・システムの略。小型軽量化を推進)と市場を二分する勢いとなった。[伊藤詩唱]
デジタルカメラの台頭
1981年(昭和56)ソニーが磁気記録方式による電子スチルカメラ「マビカ」の試作機を開発、発表した。これは2インチのフロッピーディスクにアナログで画像を記録するものであった。市販された最初のものは1986年発売のキヤノンの電子スチルカメラ「RC‐701」だが、高価格であったため一般には普及しなかった。以後、画像記録方式をデジタル方式にするなどの改良が重ねられ、1995年(平成7)カシオ計算機からQV‐10(25万画素)が発売され、デジタル化へのスタートを切った。1998年ごろからコダックDCS‐200、富士写真フイルム(現富士フイルム)のファインピックスのような200万画素を超えるカメラが各社より次々と登場し、「どんどん撮る・その場で見られる・よいものだけを残せる」という特性を生かし普及の一途をたどりだした。
 1998年冬季長野オリンピックで報道写真のデジタル化が試みられたが、価格のわりには性能が不十分であったこともあり、その目的を達成できなかった。2000年のシドニーオリンピックでは、その優れた速報性と配信性を生かし、新聞報道の90%が実用上十分な性能をもつに至ったニコンD1やキヤノンDなどのデジタルカメラによる画像となった。これを機に写真のデジタル化が急速に進み、翌年にはデジタルカメラは生産量・売上高において銀塩フィルムカメラを上回り、写真表現の世界でも大きなさま変わりをみせることとなった。[伊藤詩唱]

カメラ工業


 レンズ、プリズムなどの光学部品と精密機器、電子機器を組み合わせてカメラを生産する工業。工程上、労働集約的部分が多く、大手メーカーはカメラの心臓部分だけを自社生産し、ほかは外部より購入、または下請系列企業に発注、完成組立てを行うものが多い。傘下に多数の中小企業を抱えている。
 フランスのダゲールが写真術(1839)、イーストマン・コダック社がロールフィルム(1884)を開発し、1930年にかけてライカ、ローライフレックス、イコンタなどの小型カメラの生産が始まり、カメラ工業は近代産業として急速に発展した。わが国では、小西六右衛門(ろくえもん)(1847―1921。小西六、のちのコニカの創始者)がカメラの製作に乗り出したのが1882年(明治15)のことであるが、レンズ、シャッターを欧米から輸入して舶来品に対抗した大正期を経て、日本最初の35ミリフォーカルプレンシャッター付きカメラであるカンノンカメラ(1935)、国産初の二眼レフカメラであるミノルタフレックス型(1937)の出現をまって、カメラの国産化が実現するものの、日中戦争、第二次世界大戦はカメラの大衆化を押しとどめ、各カメラメーカーは光学兵器生産を通じて技術の蓄積を行うにとどまった。戦後、とくに1950年代にカメラ工業は急成長軌道にのった。小西六(のちのコニカ)、千代田光学精工(のちのミノルタ)、日本光学(現ニコン)、小原光学(現オハラ)、富士写真フイルム(現富士フイルム)5社の共同研究による8種類の新種ガラスの製造の成功は、レンズ性能の飛躍的向上を可能にしたほか、シチズンなどシャッター専門メーカーによる諸成果は、日本のカメラ工業が当時の西ドイツをしのぎ、世界の最高水準に達する足掛りとなった。戦前のカメラ工業の中心地、当時の東ドイツのドレスデンの低迷を奇貨として輸出が急増した。必要資材の国内調達が可能なこと、戦時中に技術=熟練労働の養成が進んでいたこと、とくに35ミリレンズシャッター付きカメラを中心に高級機の開発が進んだことがその原因であった。
 1960年代に入ると、距離計、電気露出計が連動するEE方式の採用が進み、量産体制が敷かれ、一眼レフ高級機を中心に他国の追随を完全に振り切ることとなった。1965年から1970年にかけて、日本のカメラ工業はエレクトロニクスを駆使した新製品を次々と開発し、レンズを通して光を測定するTTL(through the lens)方式の採用、電子シャッター、オートストロボ、モータードライブ、自動露光等の新機構を盛り込んだカメラが、カメラのシステム化を実現した。
 世界のカメラ業界は1960年代を通じてさま変わりの状況を呈することとなった。カメラ業界の寡占体制の結果、一眼レフカメラの開発においてツァイス、フランク・ハイデッケ、エルンスト・ライツの各社が日本企業に決定的な後れをとり、国内労働力の不足も絡んで、世界の高級カメラの生産を支配していた西ドイツが高級機生産から事実上の撤退を余儀なくされた。1972年のミノルタとエルンスト・ライツ社およびヤシカ(現京セラ)とツァイス財団との技術提携が日本企業の主導のもとに進められたことがそれを物語っている。そのころ、スチル(静止)カメラの生産台数世界一を誇るアメリカ(1000万台=1972年の実績。以下同年)と香港(ホンコン)(150万台)、イギリス(100万台)はほとんどがイーストマン・コダック社のインスタマチック・カメラとポラロイド・カメラによって占められ、西ドイツも300万台中200万台がドイツ・コダック社のインスタマチック・カメラであった。250万台のソ連(当時)、150万台の東ドイツはフォーカルプレンシャッター付きカメラが主体で、いずれも低価格のものであった。生産台数550万台の日本が高級・中級カメラを中心に世界市場を支配しており、1974年には世界のスチルカメラの総需要、2893万台、8億9000万ドルのうち、日本は台数の26%、金額の58%を占めるに至った。世界のフィルム市場の約8割を独占していたイーストマン・コダック社は1972年に16ミリのカートリッジ式のフィルムを使用する小型のポケット・インスタマチック・カメラ(単価1万円前後のもの)を発表、世界の大衆市場支配をねらったが、撮影時の手ぶれ、引伸しに耐えない、今後の高級化が望めない、などの欠陥があった。輸出好調に支えられて安定した成長を達成してきた日本のカメラ工業も、1980年代に入り、輸出の鈍化がみられるようになり、中級機を中心に台湾、香港、韓国などの追い上げも激しくなった。労働集約度の強いカメラ生産だけに、低賃金を求めて、これらの地域、さらには東南アジアへ日本メーカーが資本進出したこともこれに影響した。
 世界のカメラ市場を席巻(せっけん)している日本のカメラメーカーは、1990年代には、カメラ生産の海外移管を進め、海外生産分が国内生産分を上回り、国内生産は高級機種を中心に、91年度(平成3)の生産数量1700万台から97年度には1200万台(24ミリカメラを含む)に落ちている。フォーカルプレンシャッター式35ミリカメラが180万台(前年比2.8%減)、レンズシャッター式35ミリカメラは760万台(前年比9.5%減)となったが、カメラの選択肢は35ミリカメラだけでも約100種類に及ぶ。また、性能のよい新製品よりも、「使いにくいが、人が主役」と、中古のライカにちょっとしたブームが起きているなど、ユーザー側のとまどいもみられる。
 しかし、1990年代にはカメラの世界に三つの画期的なできごとが生じた。第一の「レンズ付きフィルム」の普及(1998年の国内需要8500万本)は、「カメラは所有せず消費する」という利便性の意識を定着させ、写真を誰もが気軽に撮れる時代とした。第二の「新写真システム」APS(アドバンスト・フォト・システム)は、新規格の24ミリメートル幅のフィルムを使うカメラで、小型で使いやすいことと、おしゃれ感覚が若者・女性の人気をよんだ。第三は「フィルムを使わない」デジタルカメラの発売である。1995年にカシオ計算機が、おもにインターネットのホームページに写真を載せたり、写真付き電子メールを送るといったパソコンを対象とした機種を初めて発売したが、同社のポケットサイズの名機といわれたQV‐10(1996)は25万画素(他社製品も30万画素が中心)であった(デジタルカメラ第一世代)。1998年に入ると、100万画素を超える電荷結合素子(CCD)をもつものが発売され、「メガピクセル時代」を迎え、2000年のデジタルカメラ総出荷台数は1034万台、4379億円、うち国内出荷は295万台、残りは北米が主要な輸出先であった。1999年春には各社が200万画素超の製品を相次いで登場させ、2001年には500万画素超の製品が発売された。200万画素を超える画質というのは、フィルム写真機に迫る高画質である。性能の向上は著しく、従来機が電源を入れてから起動するまで約10秒、画像データ書き込みのため、撮影間隔も5秒を要したものが、起動時間が2秒台、撮影間隔約1秒に短縮され、機敏な操作性をもつようになっており、3倍ズーム、無段階に近い自動焦点機能、約2センチメートルの近接撮影も可能で、高級一眼レフユーザーでも満足できるものも出てきている。いまのところ、シールや葉書をつくったり、画像データをネットを通じてサービス業者に送り、Tシャツやマグカップに印刷するなどの楽しみ方のほか、写真データをCD(コンパクトディスク)に収めた「電子アルバム」により、パソコン上で画像加工を楽しむところまできている。今後、記録媒体の高容量化が進むと考えられており、フラッシュメモリー方式の媒体(スマートメディア、コンパクトフラッシュなど)の挿入だけで印刷出力できる機器も製品化された。デジタルカメラは、従来の、パソコン周辺機器の位置づけから独立し、劣化の心配のない「元画」保全という利点を生かして、パソコンなしでデジタルカメラを使う際のインフラ整備(デジタル写真プリントサービス網の拡充)の進行とともに、フィルムカメラを確実に凌駕(りょうが)する時代が到来することとなる。[殿村晋一]
『ゲルンシャイム著、伊藤逸平訳『世界の写真史』(1967・美術出版社) ▽『写真とともに百年 小西六写真工業株式会社史要』(1971・小西六写真工業) ▽鈴木八郎著『発明の歴史・カメラ』(1980・発明協会) ▽富士写真フイルム株式会社編『富士フイルム50年のあゆみ』(1984・富士写真フイルム) ▽経済界「ポケット社史」編集委員会編著『コニカ 画像情報で明日を創造する』(1992・経済界) ▽75年史編纂委員会編纂『光とミクロと共に ニコン75年史』(1993・ニコン) ▽酒井修一著『ライカとその時代――M3までの軌跡』(1997・朝日新聞社) ▽野藤忠著『ツァイス企業家精神』(1998・九州大学出版会) ▽リーズ・V・ジェンキンズ著、中岡哲郎訳『フィルムとカメラの世界史――技術革新と企業』(1998・平凡社) ▽ジョン・H・ハモンド著、川島昭夫訳『カメラ・オブスクラ年代記』(2000・朝日選書) ▽鶴田匡夫著『第5・光の鉛筆 光技術者のための応用光学』(2000・新技術コミュニケーションズ) ▽北野邦雄著『カメラの話』復刻版(2001・朝日ソノラマ)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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世界大百科事典内のカメラの言及

【写真】より

…光を媒体として物体の像を感光性記録材料の上に画像として記録する方法,およびこれによって得た画像をいう。一般にはレンズを備えたカメラに感光性記録材料として写真フィルムを収め,光の下で被写体を撮影し,現像して写真画像を得る。
【人間と写真の歴史】

[写真の出現]
 いわゆる〈写真術photography〉が発明される前に,カメラの原型に相当する装置はすでに存在していた。…

【精密機械工業】より

… 精密機械工業の出荷額は1995年で4兆1523億円,従業者数20万6000人で,それぞれ製造業の1.3%,1.9%を占めている(通産省《工業統計表》による)。また通産省《機械統計年報》によって生産金額をみると,カメラなどの光学機械器具が2814億円,時計が2326億円,計測機器が4251億円となっている。そのほか電子式卓上計算機(電卓),複写機などの事務用機械が9063億円,ミシンおよび毛糸手編機械が1178億円となっている。…

※「カメラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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