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アフリカ アフリカAfrica

翻訳|Africa

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アフリカ
Africa

赤道を中心に南北両半球にまたがる世界第2の大陸。東はインド洋,西は大西洋,北は地中海,北東は紅海に囲まれるが,幅約 115kmのスエズ地峡によってユーラシア大陸とつながる。面積 3031万3000km2(島嶼部分を含む)。東部を南北にアフリカ大地溝帯が通り,タンガニーカ湖マラウイ湖など多くの湖を出現させている一方,陥没の影響で,アフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5895m)をはじめ,ケニア山,ルウェンゾリ山など 5000m級の火山がある。これらと北部のアトラス山脈を除けば,先カンブリア時代以来,著しい地殻変動もあまりなく安定した陸地であったため,全体的に台地状をなし,ほかのどの大陸よりも高山や低地,平野が少ない。気候は,温帯気候の地中海沿岸地方と南端部のほかは,熱帯および乾燥気候帯が広く分布し,砂漠,サバナ熱帯雨林地帯が大部分を占める。ほかの大陸に比べ動物が豊富だが,近年,野生動物は激減,ほとんど動物保護区にしかみられなくなった。
古くは各地に部族王国が盛衰したが,のちヨーロッパ人が進出,19世紀後半から 20世紀初期にかけて植民地分割が行なわれ,大陸のほとんどがヨーロッパ列強の植民地となった。しかし 1950年代初めから独立の機運が高まり,1960年代前半までに約 40ヵ国が独立,1990年までに全植民地が独立した。2011年には島嶼部分も含めて独立国は 54ヵ国となった。人種的にはサハラ砂漠以北の「白アフリカ」と,以南の「黒アフリカ」に区分され,前者は地中海人種系のアラブ人ベルベル人などが居住するイスラム文化圏で,言語はハム=セム系の諸言語。後者は黒色人種を主とする地域で,中部および南部の大部分ではバンツー諸語,西部の大部分では西スーダン語群と総称される多種の言語が用いられる。農牧業を主とし,経済発展はまだ初期の段階にある地域が多いが,地下資源が豊富で,金,ダイヤモンド,コバルトなどは世界一の産出量をもつ。鉄鉱石,銅などの産出も多い。高い人口増加率,主要輸出品である農鉱産物価格の低迷,経済運営の失敗などにより,1980年代から経済危機が深刻化した。1968年頃からのサハラ南縁地域の砂漠化,1991年から 1992年にかけての南部アフリカの干魃は多くの難民を生んだ。

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百科事典マイペディアの解説

アフリカ

赤道を中心に南北に約35°ずつ延び,東西約70°にわたる大陸。3025万km2。8億人(2001)。インド洋と大西洋にはさまれ,北部は地中海を隔ててヨーロッパに対し,北東端のスエズ地峡でアジアとつながる。

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デジタル大辞泉プラスの解説

アフリカ

アメリカのロック・バンド、TOTOの曲。アルバム「TOTO IV~聖なる剣」(1982年)からのシングル。1983年に全米第1位・全英第3位を獲得。メンバーのデヴィッド・ペイチとジェフ・ポーカロが共作したもので、テレビで見たアフリカに関するドキュメンタリー番組に着想を得たという。原題《Africa》。

アフリカ

《Africa》イギリス海軍の戦艦。キング・エドワード7世級。1905年進水、1906年就役の前弩級戦艦。1918年退役。

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世界大百科事典 第2版の解説

アフリカ【Africa】

アフリカは面積3030万km2,人口7億2036万(1996),面積ではアジアに次ぐ世界第2の大陸である。赤道をはさんで同心円状に,熱帯雨林,サバンナ,砂漠,地中海気候帯と多様な自然をもっている。サハラ砂漠をはさんで,北は西アジア・地中海世界とひとつづきのハム・セム系の文化をもつ白人(コーカソイド)が支配的な白人アフリカ,南は,ピグミーコイサン(サン,コイ・コイン)の非黒人先住民と,おそらく北西部から移住拡散した黒人(ニグロイド)の世界,すなわち黒人アフリカである。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アフリカ
あふりか
Africa

総論


 アフリカ大陸は面積約3031万3000平方キロメートル(地球の陸地の約22.3%)、ユーラシア大陸および(南北)アメリカ大陸に次ぐ広大な大陸で、北緯37度付近から南緯35度付近に至る南北の長さはおよそ8000キロメートル、東経51度付近から西経17度付近に至る東西の幅はおよそ7400キロメートルに及んでいる。アフリカ大陸の地理的な特徴としては、全体的に海岸近くまで台地状をなしていること、東へ行くにしたがって平均高度が高くなるという東高西低の地形をなしていること、などがあげられる。そのほか、自然環境として、赤道付近の熱帯気候を中心に、中緯度の乾燥気候、高緯度の地中海性気候と、南北対称の気候区をもっていること、西部のギニア湾沿岸地方や中部のコンゴ川(ザイール川)流域は高温多湿な熱帯雨林に覆われていること、東部にはサバンナが、北部にはリビア砂漠、サハラ砂漠が、南部にはナミブ砂漠、カラハリ砂漠が、それぞれ広がっていることが特徴である。
 アフリカはまた、金、ダイヤモンド、クロム、マンガン、ウラン、燐(りん)鉱石、ボーキサイト、銅などの地下資源を豊富にもっているが、これらはいずれも偏在している。石油の生産もエジプト、リビア、アルジェリア、ナイジェリア、ガボン、カメルーン、アンゴラなど少数の国に限られている。この点は農産物についても同様であり、ココア、コーヒー、ラッカセイ、パーム油、原木などの主要産品はいずれも偏在している。
 1996年時点のアフリカの人口は約7億3900万人であるが、北部はアラブ系、ベルベル系(およびそれらの混血)の住民が大部分を占め、サハラ以南のブラック・アフリカにはネグロイド型の黒人やピグミー型、コイサン型の諸民族が分布している。これらのアフリカ諸民族はおよそ900の部族に分かれ、また彼らの使用する言語は約800種類もある。しかし植民地時代以降は、独立期を経た今日でも、北のアラビア語圏を除けば、英語、フランス語、ポルトガル語など旧宗主国のことばが公用語となっていることが多い。もっとも、タンザニアのスワヒリ語、ソマリアのソマリ語のように現地語、民族語が公用語になっている事例もあるし、アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のように従来の英語、アフリカーンス語と並んでズールー語、コサ語など9種類の民族語を公用語とした事例もある。ブラック・アフリカは15世紀末からヨーロッパ列強の進出にさらされ、16世紀から4世紀間にわたって大西洋奴隷貿易の犠牲にされたのち、19世紀末期から20世紀初期にかけて分割、植民地化され、第二次世界大戦後の植民地体制の崩壊によって北アフリカとともに独立の時代を迎えた。[小田英郎]

自然


地質
アフリカ大陸は、ゴンドワナ古大陸の中核をなす大陸である。本大陸には、約15億年以上の地質時代を通じて造山運動の影響を受けてこなかった四つの安定陸塊stable landmass(英語)、Kraton(ドイツ語)、craton(フランス語)が存在する。一つは、西アフリカの中・西部からサハラ砂漠の西部一帯に広がる広大なモーリタニア・マリ安定陸塊、これに匹敵する大きさでコンゴ盆地からアンゴラにかけて広がるコンゴ・アンゴラ安定陸塊、この東方にザンビア・タンザニア安定陸塊、そして南東方にトランスバール・ジンバブエ安定陸塊がある。後者二つの安定陸塊は、前者二つの約半分ほどの大きさである。これらの安定陸塊の間を埋める部分は、過去12億年間に造山運動の作用を受けてきた岩石からできている。
 アフリカ大陸を構成する地質は、主として変成岩類と花崗(かこう)岩類を中心とする基盤岩類である。変成岩については、ミグマタイトのような変成の程度が強いものから、片麻(へんま)岩、さらに変成度が比較的弱く、変成前の堆積(たいせき)岩の堆積構造を反映した各種の片岩までさまざまである。また花崗岩類は、変成作用にも関係し、基盤岩類の一部分を構成する。これら基盤岩類からなる大陸の周辺部や内陸の凹地部に、古生界や中生界さらに新生界の堆積岩、火山岩が分布する。とくにアフリカ大陸北西部のアトラス山脈や南西端の高度の低い山地列は、古生代以降の褶曲(しゅうきょく)作用を受けた地域である。[堀 信行]
地形
起伏の高低からみて、大陸は大まかに高いアフリカと低いアフリカの二つに分けられる。高いアフリカは紅海の西側からエチオピア高原、東アフリカの大地溝帯、南部アフリカへと続く地域である。一方、低いアフリカは、サハラ砂漠、西アフリカ、中央アフリカ一帯の地域である。大陸全体としての平均高度は標高700メートルほどで、横断面の形状が台形のようになった高原性の大陸である。高原面はおもに第三紀以降の侵食平坦(へいたん)面からなり、大陸特有の緩く波状の起伏をもった地形となっている。高原または台地状の地形が海岸近くまで迫り、海岸平野の発達は悪い。海岸線の出入りはほとんどなく著しく単調である。
 高原性の比較的平坦な地形とはいえ、大陸の地表面の起伏とその平面的な形状に注目すると、アフリカ大陸は長軸が数百キロメートルから1000キロメートルを超えるいくつもの盆状地形の集合から成り立っていることが認められる。そのおもな盆状低地は、大陸の西部から東部、さらに南部に向けて次のようになっている。西アフリカではマリ低地、カメルーン北端のチャド湖、南スーダンの白ナイル流域の大湿地帯のスッドから青ナイルと合流する下流域、コンゴ盆地、ビクトリア湖およびキョガ湖、カラハリ低地などである。アフリカ大陸の大河であるナイル川、ニジェール川、コンゴ川、ザンベジ川、リンポポ川、オレンジ川等の諸河川は、盆状地形を反映して、盆地底に収斂(しゅうれん)するような樹枝状の水系網を呈しながら排水されている。大盆地とその周辺の高原面の形状や相互の分布状態は、大規模な曲降down warpingによって盆状低地を形成し、曲隆up warpingによって盆地外縁部の高まりを形成するような地殻変動が継続してきたことを反映したものである。
 大陸の東部の大地溝帯グレート・リフト・バレーGreat Rift Valleyは安定大陸にあって活断層が存在し、現在でも、火山噴火が起きている活発な地殻変動で特徴づけられる特異な存在である。グレート・リフト・バレーが形成されている場所は、アフリカ大陸にあって曲隆部に相当しており、結果として活発な地殻変動が起きる場所になっている。大地溝帯を形成する断層地形は、おもに正断層からなる階段状の地形が、長大な地溝をつくっている。地溝底には火山が噴火し、溶岩台地や各種の火山地形が、大小、高低それぞれに組み合わされ、変化に富んでいる。地溝底には、タンガニーカ、マラウイ(ニアサ)、ナクル、ナイバシャ、マガディなどの大小あるいは長短さまざまな形状の湖が分布する。
 またアフリカ三山とよばれる5000メートルを超える高山、ルウェンゾリ山(5109メートル)、キリマンジャロ山(5895メートル)、ケニア山(5199メートル)には、赤道地域にもかかわらず山頂部に氷河が存在する。これらのうちルウェンゾリ山は、断層運動によって傾動地塊となった高山で、第四紀の火山体のキリマンジャロ山、第三紀の火山体ケニア山とは、山地形成の成因が異なる。
 東アフリカの湖をはじめ前述の凹地を中心に分布するアフリカ各地の湖沼群は、第四紀の気候変化を通じて水位面が上がったり下がったりしてきたことが知られている。この結果、珪藻(けいそう)土を伴う段丘堆積物からなる湖岸段丘が形成されている。段丘堆積物中には、人類の考古遺物が含まれ、古環境や古気候の復元の手掛りとなっている。また高山の氷河も氷期には拡大するなど、氷河の消長が指摘されている。ケニア山などでは、氷期に拡大した氷舌端が三千数百メートルまで下がり、U字谷を形成した。現在はこれらのU字谷の末端に下流側から谷頭(こくとう)侵食でV字谷が食い込んでいる。こうした湖沼面の水位変化や氷河の消長、さらに砂漠地域の堆積物の移動から、氷期には、アフリカ大陸全体が非常に乾燥した状態にあったことがわかってきた。
 アフリカ大陸の地形は、前述の基盤岩類が長い地質時代をかけて強度の風化作用を受け、その結果深さ数十メートルから100メートルを大幅に超える深層風化を呈する。一般に高温多湿な熱帯雨林地域では、凸型斜面の集合からなる丘陵が卓越し、赤色の厚い風化層の上層部には、酸化第二鉄や酸化アルミニウムの鉄・アルミ分が豆状の粒子となって集積して、いわゆるラテライト(紅土)になっているが、未固結ないし半固結部分が多くなっている。水系網は一般に樹枝状であるが、支流は丸く湾曲した平面形を示す。さらにサバンナ地域では風化層が薄くなり、球状風化による核岩が累積したトアTorとよばれる露岩地形や、島状丘の裾野(すその)には布状侵食などによりペディメントという緩斜面が発達した地形となる。乾燥地域には完全な露岩地形とともに、砂質の堆積物が各種の砂丘地形をつくる。砂漠地域の周辺部では、現在の植生で覆われて固定された古砂丘がある。サバンナ地域や熱帯雨林地域の縁辺部では、強度の風化を受けた風化層上部に集積した鉄やアルミ成分が固い皮殻を形成し、典型的なラテライトとなっている。斜面頂部あたりに存在するラテライトの周縁部は板状に固結しており、これが斜面の侵食過程において造崖層(ぞうがいそう)となり、メサまたはビュート状の地形やケスタ状の地形となる。サバンナの環境下では斜面の崩壊現象により、凹型斜面が多くなる。また熱帯雨林下の凸型斜面上の表層堆積物は一般に数メートルに達する細粒物質からなるが、最下部に礫層(れきそう)を伴い、しかもその堆積時の斜面形が凹型斜面に近く、現在の地表面の斜面形と不協和になっている。このほかに熱帯雨林中に残存する露岩のドーム地形もある。以上のような諸事実の研究から、植被で固定された古砂丘は氷期の砂漠の拡大期のものであること、熱帯雨林中の基盤岩の風化層上部の固化したラテライトや斜面堆積物中の礫層および露岩地形は、多湿で植被の密な熱帯雨林の環境下では形成されず、植被が疎(まばら)なサバンナになったことを教えている。少なくとも最終氷期のおよそ2万年前は、熱帯雨林がほとんど消滅したとする意外な事実が明らかにされつつある。[堀 信行]
気候
アフリカ大陸のほぼ中央部を赤道が横断し、北緯35度から南緯35度の緯度域にあるために、大陸全体がほぼ熱帯ないし亜熱帯地域に属する。温帯地域はわずかに地中海沿岸と大陸南端部のみである。したがって、日本の気候のように移動性の低・高気圧や前線の通過などに支配されず、熱帯特有の大気循環による気候が特徴である。なおアフリカ大陸は全体として台地状の地形を呈している。たとえば標高約1600メートルのケニアの首都ナイロビのように、植民地時代に白人たちの居住に快適な高原地域が広く求められた。なお、エチオピア高原からドラケンスベルク山脈(ドラケンスバーグ山脈ともいう)まで南北に走る高地を境に、アフリカ大陸の気候は東西で大気循環および降水量の分布に顕著な差異がある。[堀 信行]
季節変化する雨域と風系とその地域性

(1)ITCZとそれに伴う風系
 自然環境の地域特性を生み出すおもなものは、気候条件である。とくにアフリカ大陸の場合は、南北すなわち緯度方向の降水量の増減を主体とする乾湿の季節変化およびその地域変化が顕著である。これらの諸変化は、熱帯内収束帯(Intertropical Convergence Zone、以下略してITCZ)を軸とする気候システムと深くかかわっている。
 アフリカ大陸の降水域の範囲と降水量の地域変化と季節変化を考えるとき、大気中へ蒸発によって供給される水蒸気量の多少とそれを運ぶ風系とその影響域に注目することが大切である。水蒸気のおもな供給地域は、海域である。水蒸気を内陸側へ運び込むのは風である。温度差が大きい大気がぶつかり合えば、両大気の界面(境界面)で温度差を解消すべく大気の擾乱(じょうらん)が起き、そこで陸域に運び込まれた水蒸気が降雨となって地表を潤すことになる。以上のような図式が、大気大循環として地球上で大規模に展開されている。
 太陽は、北回帰線から南回帰線の緯度域の間を季節の推移とともに移動する。これによって低緯度の熱帯域内で位置の季節変化はあるものの、大気が熱せられて上昇気流が卓越する地域ができる。この上昇気流の生じる低圧部に向かって、吹き込んでくる大気の流れがある。すなわち北半球側からの北東貿易風と南半球側から吹き込む南東貿易風である。両貿易風の風が収斂(しゅうれん)するところを熱帯内収束帯(ITCZ)という。
 アフリカ大陸の気圧配置と風系について1月と7月を比較してみると、まず1月は北半球では、大西洋の北緯30度から40度付近に中心がある亜熱帯高気圧が東へ伸びて北アフリカを覆い、その北東に位置するアジア大陸側の高気圧とアラビア半島付近で対している。この亜熱帯高気圧からハルマッタンとよばれる高温乾燥の北東風が砂塵(さじん)を伴って赤道側へ吹く。この風もサハラ砂漠の東部では北風となる。また地中海側へ吹く熱風はシロッコとよばれる。一方、南半球では、大陸の南端に近い南緯30度付近の、大西洋側とインド洋側に亜熱帯高気圧が存在する。全体としては南東貿易風であるが、西岸沿いには南西風となっている。
 以上の南北両半球の高気圧に挟まれて赤道低圧帯が存在する。とくに1月は、西アフリカの北緯7度付近で、高温乾燥の北東風とギニア湾からのやや低温で湿潤な南西風とが接し、ITCZが顕著である。東アフリカ側は北東風が卓越し、南アフリカ東岸の東風との間の収束帯は不明瞭(ふめいりょう)である。次に7月についてみると、赤道低圧帯の中心は北緯20度付近まで北上し、アフリカ大陸を東西に横断している。これに伴い、ギニア湾からの南西風は内陸深く吹き込み、スーダンのハルトゥームあたりにまで達する。
 ハルマッタンについて説明すると、アフリカ大陸では、内陸に広がるサハラ砂漠から吹き出す北東風があり、この地方風は、西アフリカのファンティをはじめとする地方語haramataに由来し、ハルマッタンHarmattanとよばれている。この風は、おもに12月から2月の乾期に吹く風で、サハラ周辺の砂塵を巻き上げ、この風が吹くと頭痛など病になりやすいといって現地の人々に好まれていない。ハルマッタンも本質的には貿易風にほかならない。ただこの風は、内陸の乾いた大地から吹いてくるために、大変乾燥している。
(2)ITCZと雨域の季節変化
 アフリカ大陸の降水分布は全体的に帯状分布が顕著である。とくに年降水量が50ミリメートル以下のことが多いサハラ砂漠の南側は帯状性が著しい。年降水量が多いのは、ニジェール川三角州から西カメルーンの高地で、3000ミリメートルから4000ミリメートルに達する。西アフリカのギニア・ビサウやシエラレオネからギニア湾岸地域およびコンゴ盆地にかけては、断続的に年降水量が1600ミリメートル以上の地域が分布する。しかし東アフリカでは年降水量は著しく減少する。降水分布を1月と7月についてみると、1月は、アトラス山脈の北斜面と南半球側に集中している。とくにマラウイ湖周辺高地の300ミリメートル以上の値をピークに、東西に多雨域が広がっている。7月は、北上した熱帯内収束帯の南側の北緯15度と赤道付近の範囲で、東西方向に帯状性の明瞭な雨域が広がっている。ただしエチオピア東部からソマリアとケニア北部にかけては少雨域となっている。
 なお、マダガスカル島では地形性の降水が顕著で、1月に北西風が島の北西斜面にぶつかり、風上側が多雨域となる。しかし7月には南東風に転じ、島の東側斜面が多雨域となり、風下側の西側斜面は乾燥する。
 またアフリカの気候に大きな影響を与えているものの一つに、海水条件とくに表面海水温度がある。寒流と湧昇(ゆうしょう)流のある沿岸部でその影響が著しい。たとえば、大陸の西岸部では北からカナリア寒流、南からベンゲラ寒流が流れ、湧昇流もあるため表面海水温度は低く、20℃ほどになっている。西アフリカのギニア湾側ではその影響も少ないが、ガーナのアクラ近海では7月から9月にかけて湧昇流の影響が現れ、他の月の表面海水温度より10℃余り低下する。このため霧が多発し、沿岸部に乾燥した気候をもたらしている。インド洋側ではソマリアの近海に湧昇流があり、同様の現象が沿岸地域で起きている。
 サハラ砂漠の南側で降水が期待できるのは、夏期だけである。降水による水資源の分布の季節的、地理的偏在が、この地域の著しい特徴であり、干魃(かんばつ)にみまわれやすい。ITCZと降水域の季節変化と地域変化が典型的にみられる西アフリカをみてみると、ITCZの南側はつねに降水域であり、北側はまったく無降水域となっている。
 この理由は、サハラ砂漠から吹き出す大気とギニア湾側から吹き込む大気との性格の違いにある。サハラ砂漠から吹き出す乾いた熱風は、ギニア湾で蒸発した水蒸気をたっぷり含んだ暖かい風と、内陸でぶつかる。このとき、乾燥して相対的に高温のサハラ側からの大気が、ギニア湾側から吹き込んだ大気の上に乗り上げることになる。その結果、両大気が接触する界面(境界面)で激しい大気の擾乱が生じ、積雲、積乱雲が発生する。これらの雲は、すべてギニア湾側から吹き込んだ大気側で発生するので、結果的にITCZの南側ということになる。
 ITCZは、文字どおり大気の収束するところであるから、サハラ砂漠側とギニア湾側の二方向から吹き込んできた大気とがぶつかり、サハラ砂漠側の大気が上方へ発散していくので低圧部となる。もし吹き込んできた両大気塊の気温と風速が、同程度の値でぶつかれば、ITCZでの両大気の界面は垂直方向、すなわち上方へまっすぐ立った状態で発散することになる。しかし、いまみてきたように両大気の接触界面は南側へ大きく傾いた状態になっている。
 雨を待つサヘル地域(アラビア語で岸辺の意で、ステップ地帯)の牧畜民や農耕民にとって、関心事はただ一つ「今年は例年どおりの時季に、期待どおりの降雨があるのだろうか」ということである。住民の立場から、ITCZの構造に関心をもつとすれば、次の一点であろう。すなわち、ITCZの南側で降雨が期待できるということならば、サヘル地域の北側にITCZが位置しなければならない。そのためには、ギニア湾側から吹き込んだ大気が、より内陸まで入り込まねばならない。いいかえれば、サハラ砂漠からの熱風の下側へギニア湾側からの大気が潜り込み、より北の内陸側へ達することである。このためには、ギニア湾側から勢いよく内陸側へ流入した大気の温度とサハラ砂漠側から吹き出す大気の温度との差があるほど、ITCZの位置は北上することになろう。
 ここで一つのジレンマが生じる。ギニア湾側から吹き込む大気中の水蒸気が多ければ、多くの降雨が期待できる。水蒸気量は、ギニア湾の表面海水温度が高いほど多いであろう。ところがギニア湾の海水温度が高ければ、その上を通過する大気も暖められて気温も上昇する。大気中の水蒸気量は増加しても、サハラ砂漠からの大気の温度との温度差が小さくなれば、風速の問題もあるが、より内陸まで吹き込めない。その結果、ITCZの位置は、サヘル地域の南側にとどまる。しかも、こうした状態では、両大気の接触界面であるITCZの傾きはより高角度となる。そうなるとITCZの南に広がる降水域の幅が狭くなってしまう。
 かくして、サヘル地域に雨が期待できるのは、ギニア湾の海水温度がかなり鍵(かぎ)を握っていることになる。ギニア湾の海水温度が高すぎればITCZの位置はサヘル地域の北側まで北上できない。一方、ギニア湾の海水温度が低すぎれば、多くの蒸発量が期待できず、少雨となる。サヘル地域に降水があるためには、サハラ砂漠からの大気の温度と相対的な関係ながら、ギニア湾が適度な海水温度を保って、ギニア湾側からサハラ砂漠の南縁地域まで湿った大気が吹き込んだとき、サヘル地域の住民にとっては、まさに慈雨となるのである。
(3)植被の地域性
 アフリカ大陸の気候の地域差は、高山地域を除いては温度条件よりも降水量の多少による乾湿の差によって明瞭に現れ、熱帯雨林気候、熱帯サバンナ気候、ステップ気候、砂漠気候などの気候帯に分類される。熱帯雨林地域は、コンゴ盆地を中心とするアフリカ中央部から西アフリカのギニア湾岸沿いに分布する。ここでは乾期が認められず、年降水量が1500~2000ミリメートル、少なくとも1000ミリメートルは超える。湧昇流の出現があるガーナ、トーゴ、ベナンでは乾燥して雨林がとぎれる。熱帯雨林は火入れや伐採などにより多次林化し、純林は少なくなった。林内は枝根の張った高さ40~50メートルに達する超高木をはじめ、丸みのある樹冠をもった木々が成長し、入光量の少ない林床部は比較的すいている。次に、乾期が明瞭で年降水量が400~1500ミリメートルの範囲では、熱帯サバンナ地域となる。乾期が長くて乾燥度が強いほど樹木の比率が少なく草原が卓越し、草本の高さも低くなる。樹木もとげをもつものが多くなる。
 なおアフリカ大陸の30%以上を占めるサバンナ景観の成因は、気候条件のみからは説明できない。たとえば農牧業に伴う火入れと伐採を伴う長い歴史は無視できない。サバンナ景観は、気候と植生、人為作用と植生、植被と土壌侵食など、人間の営みと、気候、生物、土地からなる自然との動的な平衡関係によって成立する象徴的な事例として注目される。サバンナより乾期が長くなり、乾燥度も強くなると、ステップ、さらに砂漠へと移行する。サハラ砂漠周辺地域ではステップ帯のことをサヘル地域ともいう。地中海沿岸地域は、冬の降水量と夏の月降水量が数ミリメートルという乾燥のため、オリーブやコルクガシなどの硬葉樹とその他の灌木(かんぼく)林からなる。アフリカ最南端部にも同様の気候景観が分布する。
 これまで述べたような風系と雨域の季節変化とそれに伴う地域変化は、地表面にも影響を与えている。地表面の乾湿条件は、地表面の景観とくに植生景観を大きく変える。ここでいう植生は自然植生を前提としているが、さらに推し進めていえば、人間が雨期の到来とともに播種(はしゅ)をして育てる農作物も、地表面の乾湿に影響された人為的な植生として考えることができる。
 中央アフリカから西アフリカにかけてITCZの南側の雨量分布で顕著なことは、低緯度になるほど雨量が多くなる傾向を示すことである。それに対応して植被の状態も密となり、植生の高さも高くなる。つまり、草本主体の植生から徐々に木本が加わり、木本主体へと移行する。
 このほかに植生の垂直的変化もキリマンジャロ山やケニア山などの高山やエチオピア高原、あるいはサハラ砂漠の縁辺部でスーダンの西端、チャドの国境に近い位置にそびえる高山ジャベル・マラ(3088メートルの火山)などの高地で顕著である。しかし、これらの高地では、いずれも長い環境変遷を通じて、一つの避難所的な空間として機能し、人間の居住空間としても利用されてきたために人為的な影響も大きく、植被の状態が大きく変わり、植生の荒廃も進んでいる。
 また、エチオピア高原のもっとも高いところは、4000メートルを超える。このため、氷期には氷食作用や凍結・融解による周氷河作用が進み、植生の垂直分帯が認められる。こうしてみてくると、年間を通して降水量と蒸発量との過不足が、地表面の乾湿状態を決めていることになる。そして、植生は大まかにみて地表面の乾湿状態の地域差に敏感に反応して、地域ごとに特色ある植生景観を生み出している。アフリカ大陸の植生分布を概観してみると、地表面の乾湿状態の地域変化が、植被の疎密や常緑樹や落葉樹などの樹種構成とよい対応をしていることがわかる。たとえば、年間を通して雨域が重なっている地域は熱帯雨林となり、乾期と雨期が交替する地域はサバンナ植生となっている。さらにその外縁部の乾期が長い地域にはステップが広がっている。アフリカの気候帯と植生帯の分布特性は、相互の地域的な重なりと、それぞれの帯状分布が明瞭(めいりょう)なことである。
(4)気候変化のなかの生物相
 生物の分布は、おおむね現在の間氷期の気候や植生によく対応している。たとえば鳥類やチョウ類、さらにはカエルなどの諸生物にも、過去の氷期の寒冷化や乾燥化、さらに植生環境の変化に伴い、山々の高所や平地林内に隔離分布したと解釈されるものもある。また現在のサハラ砂漠中に、ゾウ、キリン、カバの化石や、それらを猟する人々も含む岩壁画や伝承が残されている。それらは、いまから約8000年前の後氷期の温暖期のものであったことがわかってきた。いまでこそワジ(涸(か)れ谷)となっているところも、その当時には流水が存在し、草地や灌木林が存在したことが指摘されている。アフリカ大陸の熱帯雨林から砂漠に至る自然環境は地質時代を通じて大規模な変遷を遂げてきた。この変化は単に植物や野生動物の変化にとどまらず、人類の居住域や生活様式の変化、さらに生物全体の進化を考える前提条件を揺さぶる大きなテーマであろう。[堀 信行]
植物
アフリカの植物界は、北から南に向かって、冬雨夏乾の亜熱帯、サハラの砂漠、サバンナ、熱帯降雨林、サバンナ、砂漠と変わり、南端部でふたたび冬雨夏乾の亜熱帯となっている。植物の種類からみると、北から南に、全北植物区系界、旧熱帯植物区系界、ケープ植物区系界の3地域に区分されるが、もっとも広いのは旧熱帯植物区系界の地域である。
 アフリカの北縁部の植物種類相・植生は、ヨーロッパ大陸の地中海沿岸と共通で、ヒイラギガシなどを主とする硬葉樹林やガリグ(耐乾性の低木群落)がみられ、全北植物区系界の地中海区系区に属する。モロッコのアトラス山地にはアトラス・シーダやモロッコモミなどの山地の針葉樹林もみられるが、その分布地域は限られている。カナリア諸島も地中海に似た植生をもつが、山地には日本のタブノキに似たクスノキ科の照葉樹林がみられるのが著しい。また固有の種族が多くマカロネシア区系区とされている。
 地中海気候域の南は極度に乾燥したサハラ砂漠で、オアシス以外では植生はまばらで、種類も乏しい。サハラ全域の高等植物の種類は約1200と見積もられている。サハラの植物相はアラビア半島からインド西部とあわせて旧熱帯植物区系界のサハラ・シンド区系区とされている。サハラの南はサヘル地域とよばれ、樹木の散在するサバンナであるが、近年乾燥化がすすみ砂漠化して農耕・牧畜が困難となり、問題となっている。サヘル地域の南はサバンナ地域で、イネ科の草原にアカシアが点在する植生がもっとも広い。同様な植生域はアフリカ東部から南部にわたって広がり、アフリカでもっとも広い面積を占めている。これらのサバンナ地域は旧熱帯植物区系界のスーダン・ザンベジ区系区とされている。
 アフリカでもっとも植生が密に発達するのは、コンゴ川を中心とするアフリカ中部から西部の湿潤な地域で、ここには東南アジア・南アメリカと並ぶ熱帯降雨林がみられるが、両地域に比べて植物の種類はやや少なく、固有の科はクキトペタラ科、ホプレスチグマタ科、オクトクネマタ科、パンダ科、キアナストラ科など少数で、しかもこれらの科は、それぞれごく少数の種があるだけである。またセンダン科のグアレア属、スミレ科、パイナップル科、マヤカ科などのように南アメリカと共通に分布する湿潤熱帯の植物があり、大陸移動の名残(なごり)と考えられている。熱帯降雨林を構成する樹木にはマメ科が多い。熱帯降雨林域は旧熱帯植物区系界のギニア・コンゴ区系区とされる。
 東アフリカにはキリマンジャロ山・ケニア山・ルウェンゾリ山などの火山性の高山がある。これら高山の高所は、熱帯高山の、気温の年変化がほとんどないのに日変化の大きな特殊な気候条件を反映して、イネ科の草原の中に大木化したキク科のキオン属やキキョウ科のミゾカクシ属などが散在する特有な植生を示す。これに似た植生は南アメリカのアンデス山脈北部にもみられる。アフリカの高山は旧熱帯植物区系界のアフリカ高山区系区として区別されるが、その種類のなかには北半球の中・北部に由来すると考えられる種類も多い。
 アフリカ南東部には広い砂漠があり、1科、1属、1種の特異な裸子植物のウェルウィッチアがみられるほか固有種が多く、旧熱帯植物区系界のカルー・ナミブ区系区として区別される。
 ケープ地区はきわめて狭い地区でありながら、地中海的気候のもとに多数の固有種をもち、ケープ植物区系界として区分されている。固有の科としてアカリア科、グルッビア科など6科がある。エリカ属など属のレベルでは地中海地域と共通のものがあるほか、ヤマモガシ科、レスティオ科など一部の植物はオーストラリアに関連をもっている。植生はヤマモガシ科の硬葉樹林が発達している。エリカ属はこの地域に400種以上がみられるほか、プロテア属など一つの属に多数の種が分化しているのが著しい。
 マダガスカルの植物相は基本的にはアフリカ本土に似ているが、固有の種類がきわめて多い。また島を南北に走る脊梁(せきりょう)山脈を境に東側と西側で気候が異なり、植物相の違いも大きく、それぞれ旧熱帯植物区系界の東マダガスカル区系区、西マダガスカル区系区とされている。[大場達之]
動物
サバンナにはアフリカゾウ、シロサイ、クロサイ、シマウマ、キリン、クロスイギュウなどの大形草食獣が群棲(ぐんせい)するほか、70種以上の大小さまざまなレイヨウ(アンテロープ)がいる。捕食者にもライオン、リカオン、ブチハイエナのように群れをなして生活するものが多い。ほかにヒョウ、チーター、サーバル、ジャッカル、ツチブタ、イボイノシシなどをみる。熱帯降雨林には、グエノン、マンガベイ、コロブス、マンドリルなどのオナガザル類、類人猿のゴリラ、チンパンジー、原猿類のポトなどがすむ。このほか、ウロコオリス、オオセンザンコウ、ツメナシカワウソ、キンイロネコ、キノボリハイラックスなどもみる。草食獣は少なく、ミズマメジカ、オカピ、モリイノシシ、アカスイギュウ、ボンゴ、マルミミゾウなど原始的なものをみるにすぎない。砂漠には、オリックス、アダックス、ガゼルなどのレイヨウ類、フェネックギツネ、トビネズミ、トビウサギなど乾燥に強いものがすむ。このようにアフリカの哺乳(ほにゅう)類は豊富であるが、ユーラシアに普通にみられるシカ類とクマ類はサハラ以南にはいない。北アフリカには、バーバリヒツジ、バーバリザル、アカシカ、ヒグマ(絶滅)など、ユーラシア系の動物がみられる。
 マダガスカル島は古くアフリカ大陸から離れたらしく、固有のものが多い。新生代第四紀の更新世(洪積世)まではカバとツチブタがいたが絶滅し、今日では有蹄(ゆうてい)類は、移入された疑いが強いカワイノシシをみるにすぎない。原猿類のキツネザル、インドリ、アイアイ、原始的な食虫類のテンレック、ネコに似たフォッサ(ジャコウネコ)などはこの島に固有である。
 マダガスカル島を除くアフリカに固有の目と科は、哺乳類では食虫類のキンモグラ科、ボタモガーレ科、ハネジネズミ目、齧歯(げっし)類のトビウサギ科、ウロコオリス科、イワネズミ科、デバネズミ科、アシネズミ科、イワダヌキ目(ハイラックス)などで、これらは新生代第三紀の始新世以来ここで進化を続けてきた。ポト、ガラゴなどのロリス科、オナガザル科、類人猿科、長鼻目(ゾウ)はアジア南部でもみるが、これらもアフリカ起源である。しかし現在大いに栄えているレイヨウ、キリンなどの偶蹄目、シマウマ、サイなどの奇蹄目、ツチブタとして知られる管歯(かんし)目、ネコ類、イヌ類、ハイエナなどの食肉目は、新生代第三紀の漸新世(ぜんしんせい)末か中新世におけるユーラシアからの外来者で、アフリカ起源の動物ではない。鳥類ではダチョウ目、ネズミドリ目、ハシビロコウ科、シュモクドリ科、ヘビクイワシ科、ホロホロチョウ科、エボシドリ科など、爬虫(はちゅう)類ではヨロイトカゲ科、魚類ではポリプテルス目、肺魚のプロトプテルス科などが固有である。ほかの特徴的な動物は、スカンクに似たゾリラ、臼歯(きゅうし)が多いオオミミギツネ、地上生のジサイチョウ、カンムリヅル、体色を変えるカメレオン類、猛毒ヘビのマンバ、気の荒いナイルワニ、体長40センチメートルに達する巨大なゴライアスガエル、つめのあるツメガエルなどがある。[今泉吉典]

政治


 19世紀末期から20世紀初期にかけて分割、植民地化され、ヨーロッパ列強の支配下に組み込まれたアフリカは、第二次世界大戦後における植民地体制の崩壊を背景として、独立の時代を迎える。アフリカの独立の時代は、1951年のリビアの独立を皮切りに北アフリカでその幕を開け、1957年のガーナ(旧英領ゴールド・コースト=黄金海岸)の独立以降、サハラ以南のアフリカ(ブラック・アフリカ)に急激に広がっていった。第二次世界大戦前のアフリカの独立国は、エジプト、エチオピア、リベリア、南アフリカ連邦(現・共和国)のわずか4か国にすぎなかったが、2000年2月時点の独立国の総数は、係争中の西サハラを除いても、実に53を数える。
 通常、「1960年はアフリカの年」といわれるが、それはこの年にフランス領西アフリカおよび赤道アフリカを中心に17植民地が一挙に独立を達成したからである。イギリス領ナイジェリアやベルギー領コンゴもこの年に独立した。変則的であったのはソマリアで、イギリス領が1960年6月に独立し、同年7月のイタリア領の独立と同時に合体してソマリア共和国(現・民主共和国)となった。
 1950~1960年代のアフリカ諸国の独立は一般に宗主国との交渉によって達成された。例外はアルジェリアで、フランス本国の一部とされていたために独立の展望が開けず、結局1954年に始まるアルジェリア民族解放戦線(FLN)の武装闘争によって1962年に独立した。1970~1990年代の時期は、アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウなどの旧ポルトガル領諸国、旧イギリス領南ローデシア(現・ジンバブエ共和国)、国連の直接責任下の地域とされながら南アフリカ共和国の不法統治のもとにあったナミビアなど、武装解放闘争による独立が多くみられた。
 エリトリアの場合は、19世紀末期にイタリア領となり、1952年に自決権行使によりエチオピアと連邦を結成したが、1962年にエチオピアの一州として併合された。その結果武装解放闘争が激化し、エリトリア人民解放戦線(EPLF)主導で1993年に念願の独立を達成した。
 ナミビアの場合は、アフリカ分割期の19世紀末期にドイツ領、第一次世界大戦後に南アフリカ連邦(現・共和国)の委任統治領となった。さらに第二次世界大戦後に国際連盟の委任統治領が国際連合の信託統治領へと地位を変更していくなかで、南アフリカ共和国はナミビアの地位変更を認めず不法統治を続けたが、南西アフリカ人民機構(SWAPO)の激しい武装解放闘争と国際社会の圧力によって、ついに1990年独立を達成した。
 旧スペイン領西サハラの場合は、マドリード協定(1975年)により、1976年その歴史的領有権を主張していたモロッコ、モーリタニアに分割併合された。しかし同年、独立を主張するポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言して武装闘争を強化し、モーリタニアが1979年に西サハラの領有権を放棄した後は、モロッコとの戦闘が続くという、いわゆる「西サハラ問題」が生じていた。その後1991年にかねて国連などが提案していた「住民投票による西サハラの将来の決定」が合意されたが、有権者の確定作業が困難を極め、実施に移されなかった。
 第二次世界大戦後に独立した49か国の宗主国別分類は、旧フランス領が21か国、旧イギリス領が16か国、旧ポルトガル領が5か国、旧ベルギー領が3か国、旧スペイン領、旧イタリア領が各1か国、その他が2か国(ナミビア、エリトリア)である。なお旧イギリス領と旧イタリア領が合体したソマリアは旧イギリス領に含めてある。[小田英郎]
国家建設の課題
こうして独立したアフリカの新興国家は、そのほとんどが統一性を欠いた多民族モザイク国家であった。なぜなら、アフリカの独立は自治権の行使によるものであったとはいえ、自決権を行使したのはヨーロッパ列強によって「人工的につくられた植民地」以外のなにものでもなかったからである。アフリカの独立は「民族自決」ではなく「植民地自決」であった。そのために求心力をもたないアフリカの新興諸国は、統一性を欠き、たびたび民族対立、地域対立に悩まされた。1960~1963年、1963~1965年の二度にわたるコンゴ動乱や、1967~1970年のナイジェリア戦争(ビアフラ戦争)も、ともにその原因の大部分は民族対立に基づく地域対立であった。こうして国民的統合、国民国家の建設が、独立期以後の新興アフリカ諸国の最大の課題となった。ザンビアの初代大統領カウンダはかつて「われわれの目的は、植民地主義者が全大陸を分割してつくったぶざまな加工品から、真の近代的国民国家(ネーション)をつくりだすことである」と述べたが、このことは、独立アフリカ諸国の第一の課題が、国民的に統合された近代国家の建設であることを、的確に物語っている。[小田英郎]
政体
2000年2月時点で、アフリカ53か国のうちで、君主制を採用しているのはモロッコ、スワジランド、レソトの3か国である。これら諸国を除いた50か国は、いずれも共和制国家である。アフリカ最古の独立国エチオピアも1974年の革命以前は帝制の国であったが、現在は連邦共和国である。共和制をとっているアフリカ諸国の場合、そのほとんどが大統領制である。例外はかつての王制国家リビアであって、同国には大統領や首相のような行政上のポストはなく、国家元首として「革命指導者」という独特のポストが置かれている。1969年のリビア革命を指導したカダフィ大佐が2000年2月現在なお革命指導者の地位にある。[小田英郎]
開発独裁体制の盛衰
近代的国民国家の建設といった課題は、単に国民的統合を推進するだけでは達成されない。近代的な政治制度、法制度も整備しなければならないし、近代的な経済構造も構築しなければならない。また、一方では政府のマネジメント能力を、他方では国民の参加能力や社会の流動性を高めていかなければならない。また、新しく独立した国家を経済発展のレールに乗せ、急速な開発を推し進めることも、重要な課題である。こうした総合的な近代的国民国家建設の課題に取り組むために、大多数のアフリカ諸国が採用した体制が開発独裁体制であった。
 開発独裁とは、政府主導の権威主義的な開発政策によって急速な経済発展を目ざす強権的な政治体制をさすが、具体的には一党体制や軍部支配体制などの形をとることが多い。それは第二次世界大戦後から民主化の1990年代に入る直前までの時期の開発途上地域に多くみられた体制であり、アフリカでも1960年代なかばから1980年代末までの時期に支配的であった。
 試みに開発独裁体制の時代が終わる直前の1989年12月の時期をとってみると、当時のアフリカ51か国(ナミビア、エリトリアは未独立)のうち一党体制の国は30か国で、実に6割を超えていた。残り21か国のうちにはガーナ、ギニア、スーダンなどのように軍事政権下にあって政党が禁止されていた国や、リビアのような無政党国家も含まれていたので、それらを差し引けば一党体制国家の比率はさらに高かったことになる。また複数政党国家のなかにも、チュニジア、アルジェリアのように1988年まで一党体制をとっていた国も含まれる。すなわち一党体制国家の比率がさらに高かった時期もあったということである。2000年2月時点で、過去に一党体制をとったことのあるアフリカの国は39か国に達する。なお、そのうちの20か国は軍事政権ないし軍部支配政権も経験している。
 また、開発独裁体制の一種である軍事政権や軍部支配政権も1960年代後半から多くのアフリカ諸国に登場し始めた。それは、独立から数年を経過して初期の文民政権がほころびをみせ始めた時期と、アフリカ諸国の軍部、軍隊が、独立後短期間でもっとも有力な近代的集団として成長し「軍事に対する文民の統制」という原理を一時棚上げするかたちで、政治介入の構えをみせ始めた時期とが、ほぼ一致したからである。1965年6月アルジェリア、同年11月のコンゴ民主共和国、1966年1月のナイジェリア、同年2月のガーナといったアフリカを代表する諸国で軍事クーデターが起こり、軍事政権が登場したことは、1960年代なかばが軍部支配の時代の幕開けの時期であることを象徴している。これ以後、つねに10か国前後の軍事政権や軍部支配政権がアフリカに存在した。2000年2月時点で、それまでに軍事政権ないし軍部支配政権をもったことのあるアフリカの国は28か国を数える。
 一党体制や軍事政権、軍部支配政権を経験したことのないアフリカの国は、独立後まだ数年しか経過してないエリトリアをはじめ、南アフリカ共和国、ナミビア、ボツワナ、モロッコ、モーリシャスなど数か国にすぎない。
 一党体制、軍事政権、軍部支配政権などの開発独裁体制は、たしかに総合的な近代的国民国家建設という目的との関係でいえば効率的な体制であるが、独裁体制をチェックする仕組みが備わっていないため、体制側は暴走する危険があり、しかも政治的不満が蓄積され政治的不安定性を助長するという重大な欠陥をもっている。しかも合法的な政権交代の道が閉ざされているため、クーデターを引き起こしやすい。1960年代後半以降のアフリカにクーデターが頻発したのは、同じ時期から一党体制や軍事政権が多く登場し始めたことと密接な関係がある。
 こうして1960年代後半から1980年代末期まで支配的であった開発独裁体制も、少なくともアフリカではほとんど国民的統合や経済開発の実績を残すことができず、1990年代の民主化の時代に至って、ほとんどその姿を消すことになったのである。[小田英郎]
アフリカ的社会主義の盛衰
独立期から1980年代にかけての時期のアフリカでは、多くの国で社会主義が唱えられた。「公正さを伴う急速な経済発展」のためには、社会主義が最適のイデオロギーであり制度であり政策であると考えられたからである。これらの社会主義はマルクス主義を含めて多種多様であるが、その大部分はアフリカ的社会主義と総称される「アフリカ性」を色濃く反映した独特の社会主義であった。アフリカ的社会主義に共通しているのは「植民地化される以前のアフリカの共同体社会には社会主義的伝統があった」という認識であり、「そうした社会主義的伝統を復原して現代的な政治・経済制度と融合させることによって、新たな社会主義社会を建設しようと目ざす」ことであった。タンザニアのウジャマー社会主義はその代表的なものであるが、それはスワヒリ語圏の伝統社会を律していたとされる「ウジャマー」(一種の家族共同体的な愛)精神を基礎に据えた社会主義社会の建設を目ざすものであった。実際には、ウジャマー社会主義は、農民をウジャマー村(一種の農業共同生産村)に再組織して行う農業開発を軸に、1967年から推進されたが、結局は目だった成果をあげえないままに、1980年代後半以降後退を余儀なくされた。他のアフリカ的社会主義も同様であった。また、モザンビーク、アンゴラ、エチオピア、コンゴ(ブラザビル)、ブルキナ・ファソ、ベニン(ベナン)などに代表されるマルクス主義的社会主義も国家建設の成果をあげることなく、1980年代末期までに事実上放棄された。[小田英郎]
民主化の1990年代
地中海のマルタ島で1989年12月に行われたG・H・W・ブッシュ‐ゴルバチョフ会談(米ソ首脳会議)によって第二次世界大戦後40数年にわたって続いてきた東西冷戦が終結すると、世界的な民主化の時代の訪れという歴史的大転換が起こった。アフリカもむろん民主化の大きなうねりのなかに引き込まれていった。「アフリカにとって1990年代は、独立の時代である1960年代に次ぐ、第二の解放の時代」だという声も至る所で聞かれた。1990年代は「独裁体制からの解放の時代」だということである。事実、米ソ首脳会談(マルタ会談)の時点で、当時のアフリカ51か国のうち、一党体制国家は30か国を数えたが、それから数年のうちにことごとく複数政党制国家への転換(および自由選挙)を実施あるいは公約したのである。まさしく民主化の雪崩(なだれ)現象である。
 アフリカの民主化の雪崩現象は、開発独裁体制そのものが挫折(ざせつ)状況に陥り、各国で民主化要求が高まったことなどの内部的原因と、先進諸国からの援助がらみの強い圧力などの外部的原因が作用して起こったものである。実際、1980年代のアフリカの1人当りGNP成長率は年平均でマイナス1.3%であり、1990年時点のアフリカ大陸全体の対外累積債務は2717億ドルに達していた。とくに1986年から1990年までの対外累積債務の増加率は54%と並はずれて大きかった。経済面でアフリカの1980年代は「失われた十年」といわれたが、それほど状況は危機的だったのである。経済危機はむろん政治的、社会的危機を生み出す。そうした全体的危機打開のためには、政治の立て直し、政府のマネジメント能力の向上などがなによりも必要である。民主化はそのための切札的なものと考えられたのである。政治面では民主化、経済面では市場経済化が1990年代以降のアフリカの主要な潮流になっているが、アフリカの国家建設の課題は、まだまだレールに乗り切れない。そうしたなかで、長年アパルトヘイトとよばれる人種差別・隔離政策をとり続けてきた南アフリカ共和国で、1991年6月までにアパルトヘイトが全廃され、1994年4月の全人種参加の選挙に続いて同年5月に同国初の黒人大統領ネルソン・マンデラの政権が誕生したことは、時代の変化をはっきり示すできごととして注目される。
 しかし全般的には、他の開発途上地域と同様、1990年代のアフリカは、冷戦時代、開発独裁時代のさまざまな制約が緩んだ結果として、国際紛争、民族紛争を含む国内紛争がいっそう多発するようになってしまった。ソマリア、リベリア、ルワンダ、ブルンジ、コンゴ民主共和国、コンゴ共和国などの内戦はその代表的なものである。冷戦時代から続いていたエチオピアの内戦も1990年代に入って激化し、政権の武力による交替でひとまず終結した。スーダン内戦については、1998年になって政府と人民解放軍との間で和平交渉が再開されたものの、1990年代を通じて終結のきざしがみえなかった。[小田英郎]
パン・アフリカニズムとOAU
現代アフリカの政治・国際関係を大陸的規模で規定しているもっとも重要なイデオロギー運動はパン・アフリカニズム(汎(はん)アフリカ主義)である。それは19世紀末期のアメリカ合衆国やカリブ海地域(とくにジャマイカ、トリニダードなどの旧英領)のアフリカ系の人々の間に起こった運動であって、ときおり開かれたパン・アフリカ会議などを軸に主としてヨーロッパ、アメリカ合衆国を舞台に展開されたが、第二次世界大戦後にアフリカに導入され、「アフリカの統一」を目ざす運動へと発展した。この統一運動は、当初ガーナの初代大統領エンクルマらの指導のもとに「アフリカ合衆国」の創設を目ざしたが挫折(ざせつ)し、やがて独立アフリカ諸国の緩やかな連帯を推進する運動へと変質した。1963年に創設されたアフリカ統一機構(OAU)はそれが具体化された地域機構である。2002年7月アフリカ連合に改組され、2002年8月時点で、西サハラ問題へのOAUの対応を不満として1984年に脱退を声明(発効は1985年)したモロッコを除く全アフリカ独立国52か国に、西サハラのサハラ・アラブ民主共和国(国連の仲介により、独立かモロッコへの併合かを決める住民投票が実施される)を加えた53か国が加盟している。なお、1974年にはアフリカで最初の(第6回)パン・アフリカ会議がタンザニアの首都ダルエス・サラームで、また1994年には第7回会議がウガンダの首都カンパラで開催されるなど、パン・アフリカニズム運動そのものも生命力を保持している。[小田英郎]

経済・産業


概観・特徴
アフリカ大陸におけるアフリカ人の経済活動は、地域的・時間的差異は非常に大きいと思われるが、全般的にみれば、比較的低位の生産技術・組織によって担われ、比較的に自給的生産・消費活動が長期にわたって継続していた。西アフリカの古王国(ガーナ、マリ)時代、東アフリカにおけるスワヒリ時代、また15世紀からのヨーロッパとの接触以降、アフリカ人の生活は大きく変化し始めたと推測される。17、18世紀ごろ、大西洋沿岸地域、インド洋沿岸地域における奴隷貿易の時期に、多大の労働力を送り出し、アフリカ社会の発展に大きな阻害的影響を与えた。19世紀には、産業革命を推進したヨーロッパ諸国の原料獲得市場、製品販売市場となった。19世紀末には、アフリカ大陸のほぼ全域がヨーロッパ列強によって分割され、植民地化された。植民地時代に、ヨーロッパ人の入植・投資活動あるいは貿易活動によって、アフリカ諸地域の経済活動は完全に世界資本主義体制のなかに取り込まれた。
 アフリカ諸国の経済発展の類型は、
(1)ヨーロッパ人入植型(アルジェリア、南アフリカ共和国、ケニア、ジンバブエ)
(2)鉱産資源開発型(ザンビア、コンゴ民主共和国=旧ザイール)
(3)アフリカ人小農生産熱帯農産品輸出型(ガーナ、ウガンダ、セネガルなど)
に分類される。(1)(2)の場合、経済的・社会的発展は一部の地域、または社会層(ヨーロッパ人)に限られ、欧米資本によって支配されていた。また、(3)の場合にも、農産品の買付け、搬出、輸出の流通機構はヨーロッパ人・資本によって支配されていた。またいずれの類型であろうと、少数の輸出品に依存し、一般消費物資、生活必需品を輸入するという「植民地」経済であった。
 アフリカ諸国の経済活動は、地域・自然条件、規模、賦存資源、経済圏に基づく差異が大きく、概括することはきわめてむずかしい。地域的には、北アフリカ、西アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカに分けられる(アフリカ各国の人口とGNP〔表1‐1‐2〕参照)。北アフリカは、地中海に面し、地中海性気候をもち、アラブ・イスラム文化圏に属する5か国。西アフリカは、ニジェール川沿岸諸国、サヘル地域、大西洋沿岸諸国、セネガルなど旧フランス領西アフリカ諸国、旧英領諸国を含む16か国。内陸部はイスラム文化圏である。中部アフリカは、旧フランス領赤道アフリカ諸国、カメルーン、旧ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)を含む10か国。東アフリカは、ケニア、ウガンダ、タンザニアの旧英領地域を含み、大半がスワヒリ文化圏に属する15か国。南部アフリカは、重要な鉱産資源を埋蔵し、経済的にもっとも発展している南アフリカ共和国を含む5か国である。人口規模別に考察すれば、ナイジェリアのみが1億を超す大国であり、人口1000万人を超す国が21か国を占めている。人口200万人以下の国が12か国あり、全体としてみると小規模人口国が多い。賦存資源からみれば、鉱産資源保有国は、南アフリカ、ボツワナ、ザンビア、コンゴ等の特定地域に限定され、また、石油産出国では、石油への依存度がきわめて高い。経済圏という視点でみれば、西アフリカ、中部アフリカの旧フランス領諸国に組織されているCFAフラン(アフリカ仏領植民地フラン)圏諸国が、フランス・フランとリンクしているために、比較的安定した経済活動を進めている。
 アフリカ諸国の経済活動は、先進国経済の経済活動・景気変動に大きく依存する脆弱(ぜいじゃく)な経済構造をもっている。しかし、各地域において、統計上も把握しがたいインフォーマル・セクター(都市雑業層・農村非農業者層)の活動がみられ、また、よりよい条件を求めての国際的労働移動が多いことにも注目する必要があろう。[中村弘光]
農業
アフリカの農業は自然的条件の差異が大きく、北アフリカならびに南アフリカの地中海性気候の地域は、柑橘(かんきつ)類ならびに小麦などの耕作が可能であり、メイズ(トウモロコシ)を輸出している。熱帯アフリカ地域における人口密度は相対的に低いが、農耕に適している面積は、降水量、土質によって大きく限定されている。1969~1974年の時期にみられた「サヘル大干魃(かんばつ)」(サヘルはサハラ砂漠の南端を東西に横切る地域をさし、マリ、オートボルタ、ニジェール、セネガルの一部を含む)、また1978~1980年にかけての東アフリカ大干魃は、広大な地域にわたって農業、牧畜に大きな損害をもたらした。農耕は比較的低位の農業技術によって行われ、大部分の地域では鍬(くわ)と小刀(マチェット)に依存している。移動農耕を行っている地域もあるが、灌漑(かんがい)農業、肥料の投入、トラクター利用も始められている。
 熱帯アフリカ諸国では、ココア、コーヒー、パーム(アブラヤシ)、ラッカセイ、ゴム、サイザル麻、ショ糖、タバコなどの熱帯・亜熱帯農産品を産出し、アフリカ農民の現金収入源であり、各国の輸出収入に占める農産品の比率は高い。農民はそれと同時に、ヤムイモ、キャッサバ、プランテン・バナナ(主食用バナナ)、米、ミレット(アワ・キビ類)、ソルガム(モロコシ)、メイズなどの食糧作物を生産している。干魃、あるいは地域紛争などにより食糧生産が低下し、食糧輸入依存度は高くなる傾向にある。
 ココアは、世界総生産の約3分の2をアフリカが占め、コートジボワールは1970年代末期に、かつての世界一生産国ガーナを追い越した。コーヒーは、世界の約5分の1をアフリカで産出し、ウガンダ、エチオピア、コートジボワールが主要産出国であり、ウガンダでは輸出総額の77%(1993~1994)、エチオピアでは63%を占めている(アフリカの主要農産品生産量〔表2〕参照)。ラッカセイ生産は、1980年代までセネガル、ザンビアなどが主要生産地であったが、サヘル大干魃以降の干魃によって生産は縮小し、その後はナイジェリアがアフリカ最大の産出国になっている。マーガリン、せっけん、洗剤などの原料となるパーム油(アブラヤシの油脂)は西アフリカが原産地であり、世界の主要産出地域であったが、マレーシア、インドネシアが生産・輸出を拡大し、アフリカの比率は大きく減少した。そのなかではナイジェリアが主要産出国となっている。[中村弘光]
鉱業
アフリカ大陸には、ダイヤモンド、金、ウラン、クロム、マンガン、銅、コバルト、石油などの重要な鉱産資源が賦存している。鉄鉱石、錫(すず)、ボーキサイトの埋蔵・採掘量も多い。金生産は世界の約4分の1を占め、その5分の4を南アフリカ共和国が生産している。ガーナ、ジンバブエがそのあとに続く。ダイヤモンドは、ボツワナが世界生産の約6分の1を占め、世界第1位となった。銅生産はザンビアが、1980年はじめまでチリに次ぐ産銅国であったが、鉱石品位の低下、精練価格の高騰、輸送問題などによって生産は低下した。それでもザンビアの輸出収入の約80%を占めている。コンゴ民主共和国ならびに南アフリカ共和国でも採掘・精練されている。コバルトは、通常銅鉱石に混在し、アフリカでは世界の約4分の1を生産し、ザンビアが世界最大の産出国である。ウランは世界の約4分の1を占め、ニジェール、ナミビア、南アフリカ共和国でも産出している。
 石油は、北アフリカのリビア、アルジェリア、エジプト、西アフリカのナイジェリア、中部アフリカのガボン、コンゴ、アンゴラが主要産出国であり、石油の輸出額に占める比率はきわめて高い(アフリカの主要鉱産品生産量〔表3‐1‐2‐3〕参照)。[中村弘光]
工業
工業開発は、白人入植地であり、豊富な鉱産資源・農産資源に恵まれている南アフリカ共和国、ならびに地理的にヨーロッパ市場に近く有利である北アフリカ地域(とくにエジプト、アルジェリア)以外はほとんど進んでいない。
 南アフリカでは、鉱産資源の開発に伴う運輸機器・火薬工業などとともに、1920年代以降、輸入品代替化の工業が進行し、1928年には南アフリカ鉄鋼会社が設立された。1960年代に、工業開発は急速に進行し、製鉄、自動車工業、また食品加工、飲料、タバコなどの軽工業も発展した。
 サハラ以南のアフリカ諸国における主要な工業は、輸入代替と結び付く消費財工業ならびに輸出農産物・鉱産物の一次加工業である。植民地時代には工業開発は等閑視され、独立後にようやく工業化が進められたが、各国ともに国内市場がきわめて狭小であるため、設立された工業も全般的に小規模である。
 また、原料・中間材、エネルギー源(石油)の輸入によるコスト高、外貨不足などの諸条件によって、設備稼動率が低いという悪循環に陥っている。サハラ以南アフリカ諸国のなかでは、西アフリカのセネガル、コートジボワール、ガーナ、ナイジェリア、中部アフリカのカメルーン、コンゴ民主共和国、東アフリカのケニア、南アフリカのジンバブエに、食品加工、輸出産品加工、ビール・飲料品、衣料などの輸入代替化産業が設立されているが、稼動率は低位にとどまっている。モーリシャスでは、繊維工業を中心にした輸出加工区を設置し、繊維製品輸出は従来の基幹産業である砂糖の輸出額を超えた。また、ナイジェリアでは、鉄鋼一貫生産体制を目論(もくろ)むアジャオクタ製鋼会社を1980年代に発足させている。[中村弘光]
交通
アフリカ諸国の運輸体系は、植民地時代に、宗主国経済に直結し、また宗主国の戦略的意図によって、鉱産・農産・林産資源の開発・搬出に適合するように整備された。各国植民地政府は個別に自国領の鉄道網を建設し、近隣諸国との関連性は考慮されなかった。
 独立後、各国政府は、道路、通信などのインフラストラクチャー(鉄道、道路、港湾、通信など都市構造の基盤となる、長期にわたって変化のないもの)の整備に努め、トラックなどの輸送量が急速に増加している。農産品の集荷・搬送、消費用物資・食料品の輸送、また人間の移動に、トラック・小型トラックが非常によく利用されている。[中村弘光]
貿易
世界の輸出・輸入総額のなかでアフリカが占める比率は、1950年から1990年までに、輸出では5.3%から2.3%へ、輸入は5.7%から2.1%へと減少している(世界貿易地域別比率〔表4〕参照)。世界貿易拡大化のなかにあって、アフリカ地域の貿易額は、アジアなど他の開発途上国の発展に取り残されている。アフリカの輸出の大半が、ヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国に向けられている。
 アフリカ諸国の貿易の特徴は、
(1)一次産品(農産品、鉱産品)を先進国(ヨーロッパ、アメリカ、日本)に輸出し、先進国から、機械、輸送機器、電気機器、繊維製品、化学工業製品を輸入するという開発途上国型である(主要国別主要輸出品の比率〔表5〕参照)
(2)貿易相手国としては、輸出入ともに旧宗主国が占める比率が高い
(3)輸出産品の交易条件の悪化・停滞、輸入原油価格高騰によって、貿易収支は慢性的に赤字
(4)域内貿易の比率がきわめて低い
との4点である。この傾向は、20世紀後半全体を通していえることである。[中村弘光]
投資・援助
アフリカに対する援助ならびに対外投資は、1960年代から1980年代までの東西冷戦期に増大したが、1990年以降は世界経済の停滞、1970年代の2次にわたる石油価格引上げ(オイル・ショック)による影響等によって減少した。世界銀行の構造調整政策もまた、大きな影響を与えた。
 1998年における対アフリカの外国直接投資額は8.3兆ドルであるが、南アフリカ、ナイジェリア、エジプト3国が際だって大きく、これに続くのがチュニジア、ジンバブエ、ガボンなどで、これら少数の国に限定されている。産業部門別にみれば、1970年代までは石油、鉱産資源開発が中心であったが、その後化学工業、繊維工業、機械工業へと移行している。
 政府開発援助(ODA)も、1990年代後半には低下傾向を示し、サハラ以南アフリカ諸国の受取総額は、189億9600万ドル(1990)から149億3000万ドル(1997)に低下し、1人当り受取額も40ドル(1990)から26ドル(1997)に減少した。対アフリカ公的援助額〔表6‐1‐2‐3〕にみられるように、各国のODAへの依存率(1人当り援助額、対GNP比率)は、国によって差異はあるが、全般的に高い。にもかかわらず、ODAは1990年代に入って低下している。援助に頼らざるを得ない多くのアフリカ諸国にとっては厳しい1990年代であった。[中村弘光]
独立後の現代アフリカ経済の歴史
1960年代には、多くのアフリカ諸国が独立を達成した。独立初期の時期は、世界経済の状況も比較的良好で、アフリカ諸国はアジア諸国より高い経済成長率を示していた。しかし、独立当初の政策の行き詰まりは、1960年代後半期に露呈し始め、1973年の石油価格引上げ(オイル・ショック)はアフリカ諸国に打撃を与えた。1970年代末の再度の石油価格の急騰、それに伴う先進資本主義諸国の景気低迷によって、アフリカ諸国の国際収支は悪化し、各国とも対外公的債務が増大した。1980年代初頭に、世界銀行・国際通貨基金(IMF)による構造調整政策が始められた。この構造調整政策は、アフリカ諸国の経済的危機の打開(貿易赤字・財政赤字の改善)、またその原因と考えられる経済制度の改善であり、つまり、市場経済化を意図するものであった。この政策は、かならずしも各国一様に実施されたものではないが、通貨の切下げ、農産物価格の自由化、公共部門の人員縮小などの政策がとられた。この構造調整政策によって経済活動の正常化がみられた反面、教育、衛生などの社会的側面に悪影響を与えたともいえ、評価は困難である(この時期における主要国の対外債務額の財・サービス輸出総額に対する比率は、ボツワナの3.2%からアルジェリアの38.7%までの間に散らばっている。アフリカ主要国の対外債務〔表7〕参照)。
 1980年代後半期以降、各国における経済危機は、リベリア、シェラレオネ、またソマリア、ルワンダ、ブルンジ、コンゴ(旧ザイール、現コンゴ民主共和国)、スーダンなどにおいて民族グループ間の紛争、内戦をもひき起こし、正常な経済活動を停止・低下させた。また、多くの難民・国内難民が発生し、近隣地域にも悪影響を与えた。[中村弘光]
地域経済統合
アフリカ大陸域内の地域協力関係の発展は、きわめて大きな課題といえる。北アフリカでは、ヨーロッパ、また中東との関連が大きく、北アフリカ域内の協力機構は、1989年2月に、アラブ・マグレブ連合(AMU)が、アルジェリア、リビア、モーリタニア、モロッコ、チュニジアの5か国によって設立された。サハラ以南アフリカ地域では、1960年代の各国独立達成以後、各地域ごとに経済協力・統合が整備・促進されている。
 西アフリカ地域では、1960年代初期に、フラン圏諸国を中心として、1962年に西アフリカ通貨同盟(UMOA)が成立、1994年に西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA)に改編された。1975年には、西アフリカ全域をカバーする西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が成立し、この地域の経済協力、また国際協力・平和維持にあたっている。中部アフリカでも、フラン圏地域を中心に、1964年に中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)が発足し、域内の協力に努めている。1994年には、中部アフリカ地域の市場統合を推進する中部アフリカ経済通貨共同体(CEMAC)が結成された。東アフリカでは、1960年代に旧英領東アフリカの3か国によって東アフリカ共同体(EAC)が結成されたが、1977年に事実上解体した。しかし、1996年に東アフリカ協力(EAC)として再発足し、1981年に結成された東・南部アフリカ特恵貿易地域(PTA)は、1994年には、東・南部アフリカ市場共同体(COMESA)に進展した。南部アフリカ地域では、1979年に、タンザニアなど9か国で結成された南部アフリカ開発調整会議(SADCC)が、1992年に南アフリカ共和国を含めた南部アフリカ開発共同体(SADC)となり、経済協力活動が進められるようになった。
 アフリカ大陸の、モロッコを除く52か国にサハラ・アラブ共和国を加えた53か国は、アフリカ連合(旧アフリカ統一機構)の加盟国であり、アフリカ開発銀行(AfDB)、国連のアフリカ経済委員会(ECA)も、全域の開発・協力を進めている。[中村弘光]

社会


 アフリカは広大な、しかも自然条件、人種、民族、言語、歴史などいずれの側面からみてもまことに多様な大陸であるから、包括的にこれをとらえて社会構造の特徴を摘出するのは容易でない。ただ、ほぼ異論なしにいえると思われるのは、現代のアフリカ社会が多民族モザイク社会の段階から近代的国民国家の段階へ移行する途上にあるということである。こうした社会構造上の変動は、とくにアフリカが植民地時代から独立の時代を経て国家建設の時代に入った1960年代以降においては、自然に進行するままになっているのではなく、むしろ政府の手で積極的に推進されていく傾向にある。アフリカの場合、民族自決という近代的原理によって、植民地から独立国への転換が行われたのは周知の事実であるが、国民国家の内実をつくりあげること、つまり国家への帰属意識をもった国民の形成は、国家建設期のもっとも重要な課題として、いまなお追求されているわけである。[小田英郎]
近代化の諸側面
ところで、多民族モザイク社会の段階から近代的国民国家の段階へという変動ないし発展は、伝統社会から近代的社会への変動ないし発展というものに置き換えて理解することができる。近代化の社会的側面はまた、しばしば都市化の程度、識字率、就学率その他、計量可能な要素によって部分的に測定される。
 アフリカについていえば、都市人口は1950年に3263万人であったものが、1970年には8326万人、1995年には2億5000万人と、過去45年間に7.66倍に、過去25年間では3倍強に増加している。アフリカ総人口の伸びは、過去45年間で2億2200万人(1950)から7億2800万(1995)へと約3.28倍、1970年(3億2600万人)から1995年までの25年間に2.23倍であるから、都市人口の比率は確実に高まっていることになる。なお、1995年に34.3%にすぎなかったアフリカの都市人口比率が、30年後の2025年には53.8%に達するという予測もある。都市化の面でみたアフリカの近代化は、着実に進行すると考えられる。とはいえ、アフリカにおける都市化の程度はむろん一様ではない。1995年の統計をみれば、都市化の比率の高い国は、コンゴ共和国(59%)、チュニジア(57%)、アルジェリア(56%)、南アフリカ共和国(51%)、ガボン(50%)、モロッコ(49%)、ザンビア(45%)、カメルーン(45%)、コートジボワール(44%)などであり、比率の低い国としては、ルワンダ(8%)、ブルンジ(8%)、ウガンダ(12%)、エチオピア(13%)、マラウイ(13%)などがあげられる。なお、一口に都市といっても、すべてが同程度に近代化されているわけではなく、また都市住民が一様に都市的生活様式を身につけているわけでもない。むしろ、村落から都市への人口移動によって、都市のなかに伝統的、前近代的生活様式が部分的に持ち込まれたり、また逆に、都市への出稼ぎ労働者が、村落に近代的生活様式をもち帰り、そのために村落の伝統的生活様式に多少とも変化が起きたりすることも、ないわけではない。
 次に識字率であるが、一定年齢(一般的には15歳)の人口に対する比率を1995年についてみると、高いほうではジンバブエ(85%)、モーリシャス(83%)、南アフリカ共和国(82%)、ケニア(78%)、ザンビア(78%)、リビア(76%)、コンゴ共和国(75%)、レソト(71.3%)、ボツワナ(70%)などの国があり、低いほうではニジェール(14%)、ブルキナ・ファソ(19%)、マリ(31%)、セネガル(33%)、エチオピア(35%)、ブルンジ(35%)、ベナン(37%)などの国があげられる。全体として、アフリカ諸国の識字率はまだまだ低いといわなければならない。
 就学率については信頼できるデータがない。たとえば世界銀行の『世界開発報告、1997年』(World Development Report 1997)がユネスコの資料などをもとにして作成した一覧表をみても、モザンビークの初等教育男子就学率は1980年が114%、1993年が69%、同じくエチオピアのそれは44%、27%、トーゴのそれは146%、122%などとなっている。初等教育年齢は通常6~11歳であるが、開発途上地域の場合、国によっては、初等教育就学者がその年齢集団をはみ出しているケースが少なくないために、100%を超える数字が往々にしてはじき出される。アフリカの場合には、そうしたケースやそれに近いケースが非常に多い。また自然災害や内戦などで、就学人口が激しく変動する場合もある。ジンバブエについて独立の年である1980年のデータが上記の資料にないのは、1970年代末期まで解放戦争が続いていたからであろう。1975年11月の独立をはさんで、解放戦争に続く内戦が30年近く続いたアンゴラの場合は、1980年ばかりか1993年のデータもない。そうした次第で、ここでは就学率の変動によってアフリカ諸国の社会の近代化を測定することは、現時点では困難だということだけを述べておくにとどめる。[小田英郎]
宗教
アフリカの宗教的分布図は、イスラム教、キリスト教、伝統的宗教の三つにほぼ色分けされる。イスラム教は7世紀にアラビア半島からアフリカに伝わり、地中海沿岸地域に広がった。イスラム教がサハラ砂漠を越えてブラック・アフリカにまで広がり始めたのは11世紀ごろからである。イスラム教は一方で平和的な布教活動やジハード(聖戦)を通じて広められたが、他方では北アフリカとブラック・アフリカとの交易に付随して広められもした。イスラム教のブラック・アフリカへの拡大の過程は緩やかなものであって、19世紀末期に始まるヨーロッパ列強のアフリカ植民地分割の時代にもそれは続いた。今日、アフリカのイスラム圏は北部、西部を中心に広がっているが、東部でもスーダン北部およびソマリアはイスラム教が支配的であり、エチオピアで人口の35%、エリトリアでも人口の50%をイスラム教徒が占めている。またケニアからタンザニアを経てモザンビークの北半に至る地域の沿岸部には帯状にイスラム圏が延びている。さらに中部アフリカにも、チャド(人口の45%)、カメルーン(人口の20%)など多くのイスラム教徒を抱える国がある。アフリカにおけるイスラム教徒の総人口は1996年の推計で3億0866万人といわれているが、その半数が北アフリカに、4分の1が西アフリカに、残り4分の1が東部および中部アフリカに居住している。
 キリスト教は紀元1世紀以降地中海沿岸から北アフリカに入っていった。ブラック・アフリカへのキリスト教の渡来は、15世紀末のポルトガルの同地域進出に伴うものであって、以来、今日のコンゴ民主共和国(旧ザイール)やアンゴラに伝道団が渡り、教会が建てられた。しかしブラック・アフリカへのキリスト教の大規模な布教活動がみられ始めたのは18世紀以降のことであり、さらに19世紀後半以降は、植民地主義の本格的進出とともに布教活動はピークに達した。1996年の推計によればアフリカのキリスト教徒は総計3億5087万人に達している。その内訳は、カトリックが1億2537万人、プロテスタントが1億1472万人、東方正教会系が2521万人、英国国教会系が2720万人である。その他、キリスト教の教義にアフリカ的再解釈を加えた独立教会系のキリスト教信徒も存在する。キリスト教徒の分布範囲は、おおむねイスラム教徒のそれと対照的であって、ブラック・アフリカが中心となっている。
 前記の二大宗教以外ではヒンドゥー教徒がおよそ198万人を数えるが、その分布範囲は、インド系の人々の多い南アフリカ共和国やケニアなど東アフリカの一部に限られている。そのほかにアニミズムとして類別されるさまざまな伝統的宗教をもつ人々がいるが、社会の近代化に伴ってキリスト教やイスラム教を受け入れる傾向がある。そのためにアフリカ全体としてキリスト教人口やイスラム教人口は微増を続けている。[小田英郎]
人口問題と飢餓・難民問題
アフリカの人口は、独立期さなかの1960年に約2億7500万人であったが、1970年に3億5500万人、1980年には4億7000万人、そして1995年には7億2800万人(国連推計)に達した。この間、人口増加率も1960~1965年の2.48%から1975~1980年の2.9%、1980~1990年3.0%へと上昇線をたどり、文字どおり人口爆発の様相を呈している。他方、1980~1990年の先進諸国の人口増加率は、おしなべて低く、カナダの1.2%を例外として、他は1%を下回り、0.5%に達しない国も少なからず目につく。同じ時期の世界人口増加率の平均は1.7%であり、南アジアは2.2%、ラテンアメリカ・カリブ海は2.0%、東アジア・太平洋は1.6%であるから、アフリカ(この場合はサハラ以南)の3.0%は、中東・北アフリカの3.1%とともに突出しているといえる。アフリカはもともと人口密度が低かったのであり、現在の人口も適正規模を超えているわけではないが、経済成長が急激な人口増加に追いつかないため、さまざまな社会問題が発生している。とくに、1980年代のアフリカは1人当りGNP成長率が毎年のようにマイナスを記録し「失われた十年」といわれるほどの慢性的経済危機に陥ったため、社会問題もいっそう深刻化した。1997年時点で、国連の認定する後発開発途上国(LLDC)48か国のうち、32か国がアフリカ(この場合はサハラ以南)に、世界銀行の基準による低所得国63か国のうちの39か国が、同じくアフリカに存在している。1996年時点で、アフリカ53か国のうちで1人当りGNPが1000ドルを超える国は、北アフリカのアルジェリア、チュニジア、モロッコ、リビア、サハラ以南のセイシェル、ガボン、モーリシャス、南アフリカ共和国、ナミビア、カーボベルデ、ボツワナ、スワジランドの、合計12か国にすぎない。また500ドル未満の国が31か国もある。こうした状況下での急激な人口増加は、アフリカの貧困問題、飢餓問題の深刻化に拍車をかける結果を招く。他方で1970年代初期から断続的に訪れている干魃(かんばつ)とそれによる砂漠化の進行、燃料用木材などのための過度なまでの森林伐採その他による深刻な環境破壊、ルワンダやコンゴ(旧ザイール)に典型的にみられるような、ポスト冷戦期に入っていっそう拡大し悪化した民族紛争・内戦などによる難民の増大など、21世紀アフリカの展望は明るいとはいえない。基本的には、貧困の増大→人口の急増→環境破壊→貧困のいっそうの増大といった悪循環から、アフリカが抜け出すことができるかどうかが鍵(かぎ)なのである。「2015年までに貧困人口を半減させる」「2005年までに環境保全のための国家戦略を策定し、2015年までに森林、水産資源等における環境破壊の傾向を逆転させる」などをうたった、経済協力開発機構(OECD)の新開発戦略(1996年5月)は、アフリカでこそその実施がもっとも強く求められているといえる。[小田英郎]

アフリカ諸社会の生活形態


 エチオピアを含む北アフリカとサハラ以南とでは、先住民の生活形態、とくに技術と生業の面において、著しい対比がみいだされる。サハラ以南については基本的な一様性と、そのなかでの多様性とを指摘することができる。
 古代エジプトやアクスム王国からローマやアラブ文化のマグレブ地方(リビアからチュニジア、アルジェリア、モロッコなどアフリカ大陸北西部)まで、北アフリカは西アジアや地中海世界と連続性を示しており、石の文化を発達させた。一方、サハラ以南のアフリカの建造物や造形表象を特徴づけているのは、土と藁(わら)と木である。そのよい例として、ムスグン社会(カメルーン)、ハウサ社会(ナイジェリア)の土壁の建造物、バクバ社会(コンゴ民主共和国=旧ザイール)やバミレケ社会(カメルーン)の藁と木の家、西アフリカ、中部アフリカの諸族(マリのドゴン社会、コートジボワールのセヌフォ社会、バウレ社会、カメルーンのバムン社会、コンゴ民主共和国のバテケ社会、バクバ社会などが代表的な社会としてあげられる)の、祖先の時代から彫り継いできた儀礼用の木の仮面や祖霊像などがあげられる。サハラ砂漠を越えての長い交流にもかかわらず、サハラ以南のアフリカ社会は、北アフリカで重用された文字、車輪(そのほか、回転原理やてこの原理を応用した道具)、犁(すき)、釉(うわぐすり)などをほとんど取り入れなかった。そうした点で広範な共通性がある一方、多様な自然環境に対応して、採集狩猟、漁労、根菜農耕、穀物農耕、牧畜が営まれ、一方、長距離交易に携わる商業集団も形成された。なおイネ、タロイモなどの農耕とウシの牧畜をおもな生業とするマダガスカルは、住民の起源からも、言語や生活文化の面からも東南アジアと共通しており、大陸部のアフリカとは異なる位置を占めている。[川田順造]
採集狩猟
採集狩猟民の代表的なものは、中部アフリカの森林地帯に生活するネグリロ(外部から「ピグミー」と総称されてきた人々)、南部アフリカのカラハリ砂漠のサン(同じく「ブッシュマン」と総称されてきた人々)である。両集団とも、簡単な木の枝の小屋をつくる遊動性の大きい生活を小さな群れで営んだ。金属器はつくらず、近隣のネグロイド系農耕民との交換で入手した。弓矢、槍(やり)の狩猟のほか、「ピグミー」の一部では集団の網猟も行われていた。男性が狩猟に携わり、女性が木や草の実、トカゲなどの小動物や虫の採集をする。またピグミーの一部では女性が漁労も行ってきた。イヌのほか家畜を飼わなかったというのも、この森林と砂漠の二つの採集狩猟民に共通している。このほか東アフリカのソマリア、ケニア、タンザニアの一部に、ボニ社会、ドロボ社会、サニエ社会など、狩猟をおもな生業としてきたネグロイド系住民の小社会が散在している。狩猟民には、物品の交換などによって近隣の定着農耕民と共生関係を結んでいるものが多い。狩猟は、近年野生動物が激減するまでは、後述の農耕民社会でも食料獲得の手段として一般にかなりの重要性をもっていた。採集も、アフリカの農耕民一般に、野生樹や野草の葉や実が食生活で占める割合はきわめて大きく、採集狩猟はサハラ以南のアフリカ社会の大部分で、他の生業と重なり合って存在していたといえる。
 海での漁業が最近まできわめて限られたものだったのに対し、内陸水系の多いアフリカ大陸では、湖、川、沼などでの網、筌(うけ)、簗(やな)、銛(もり)(やす)、伏せ籠(かご)などを用いての漁労が各地で活発に行われてきた。西アフリカ内陸のニジェール川大湾曲部の広域にわたって、木の板を縫い合わせた舟を用いて半水上生活を営むボゾは、内陸水系の漁労民の代表的なものといえる。[川田順造]
農耕
冬雨型の地中海性気候をもつ北アフリカでは、小麦を主作物とし、大規模な灌漑(かんがい)も行い、大家畜に引かせた犁(すき)を用いる、土地生産性の高い農耕が行われている。それと対照的に、サハラ以南のアフリカでは、西アフリカ内陸原産とされているアフリカイネ(グラベリマ種Oryza glaberrimaともいう)やフォニオDigitaria exilis(メヒシバの一種)などイネ科植物をばら播(ま)きしておいて、結実後穂を摘んだり、たたいて籠(かご)の中に落としたりして取り入れる、著しく粗放な農耕や、移動性の大きい焼畑農耕が主である。耕作用役畜あるいは廏肥(きゅうひ)用としての大家畜の飼育と農耕が結び付いておらず、一般に柄(え)の短い鍬(くわ)を用いて、鉄分の多い紅土(ラテライト)層の上の腐植土層を、浅くかいて耕作する。焼畑農耕で栽培される穀物は、サバンナ地帯では、モロコシSorghum sp.、トウジンビエPennisetum sp.、奴隷貿易の時代にアメリカ大陸からもたらされたトウモロコシZea maysなど背の高いイネ科の植物で、ヤッコササゲVigna unguiculata、バンバラマメVoandzeia subterraneaなどマメ科の作物を穀物の根元に混作することもよく行われる。このほか東アフリカではシコクビエEleusine coracana、エチオピアではテフEragrostis abyssinicaとよばれる、背の低い、実は砂のように粒の細かい穀物がつくられてきた。イネ、フォニオが粒のまま調理されるのを除くと、他の穀物はすべて、粉に挽(ひ)いたのち、水に溶いて火にかけて練り、別に調理した汁につけて食べる(ただ、テフは粉にして水で練って発酵させ、薄く延ばして焼き、副食とあわせて食べる。また、シコクビエは主食としてよりは、酒の原料として多く用いられる)。森林地帯では、木の密生していない土地を選んで焼畑が行われ、穀物としては、東南アジア系のイネOryza sativa、トウモロコシが多くつくられるが、ヤムイモDioscorea sp.、タロイモColocasia sp.、マニオクManihot utilissimaなどの根菜もつくられる。ヤムイモ、タロイモは煮て搗(つ)き、餅(もち)状にして食べることが多いが、南アメリカ渡来のマニオクは、おろしてから絞って毒抜きをし、炒(い)ったものを水で練って食べるか、地方によっては、乾燥させてから粉にしたものを水に溶き、火にかけて練って食べる。わずかにつくられている蔬菜(そさい)としては、アフリカ原産のオクラHibiscus esculentusやローゼレHibiscus sabdariffa、アジア原産のゴマSesamum indicumなどがあり、アメリカ大陸からもたらされたラッカセイArachis hypogaeaも急速に広まって、商品化作物としても重要な位置を占めている。食用にはされないが容器として広く用いられている各種のヒョウタンLagenaria sp.も、西アフリカ原産と推定される栽培植物である。
 栽培というより、自生しているものを保護しながら利用する樹木も、サハラ以南のアフリカの生活にとって重要である。森林地帯ではアフリカ原産のアブラヤシElaeis guineensisの実から油脂(パーム油)をとり、樹液を自然発酵させて酒をつくるほか、葉や葉軸を住居の屋根をつくるのに利用する。また東南アジア原産の何種類かのバナナMusa sp.のうち、とくに甘味の少ないプランテン・バナナを煮て餅状に搗いたものが主食として好まれている。このほかサバンナ地帯に自生するものとしては、油脂をとるカリテButyrospermum paradoxum subsp. parkii、実を煮て発酵させ、みそに似た調味料をつくるパルキアParkia biglobosa、実を浸した液を調味料にするタマリンドTamarindus indica、地域により分布の違う何種類かのヤシがある。ヤシは、海岸のココヤシCocos nucifera、サバンナのラフィアヤシRaphia pedunculataやオウギヤシBorassus aethiopum、ニジェール川大湾曲部のドゥムヤシHyphaene thebaica、サハラのオアシスのナツメヤシPhoenix dactyliferaなどで、食料、酒の原料、建材などとして利用されてきた。さらに西アフリカ森林地帯原産のコーラノキCola nitida, C. acuminataの実は、噛(か)む嗜好(しこう)品として広く愛好され、産出のないサバンナ地帯へ向かっての交易品として重要である。
 サハラ以南のアフリカでは、白人植民者が入植する前には、多くの地方で私的にも共同体的にも土地所有がなく(これは移動性の大きい粗放な焼畑農耕、集落自体の定着性の低さなどともかかわりがあるだろう)、労働力に応じた土地の用益権(それは長く保持されれば実質的な所有に近い性格を帯びるが、賃貸・売却ができない)が問われた。そのような条件では農耕生産力は、動員しうる労働力によっておもに決まるといってもよい。[川田順造]
牧畜
牧畜としてはラクダ、ウシなど大家畜を中心とする遊牧と、農耕民社会におけるヒツジ、ヤギ、ロバ、一部でウマ、ブタ、家禽(かきん)としてニワトリ、アヒル、ホロホロチョウなどの飼育があげられる。
 ヒトコブラクダCamelus dromedariusの遊牧民には、サハラ砂漠のトゥアレグ、エチオピア北東部からソマリア、ケニアの一部にかけてのホーン地方のベジャ、アファール、ソマリ、レンディレなどの諸集団がある。サハラ砂漠のアラブ化したベルベル(北アフリカからサハラにかけての非アラブのアフロ・アジア語族に属する先住民をさす総称、通称モール人)は、オアシス農耕とともに、ラクダ、ウマ、ヒツジ、ヤギなどの牧畜も行い、とくにラクダを用いてサハラ砂漠の長距離交易に中心的な役割を果たしてきた。トゥアレグ社会ではラクダは第一に戦士の騎乗用だったが、他の社会ではおもに荷駄獣として用いられ、乳も利用されてきた。
 ウシは、インド系の肩にこぶのあるゼブウシBos indicusと地中海系のウシB. taurusとの混血と思われるものが、西アフリカのフルベや、東アフリカのナイル系諸集団(南スーダンのヌエル、ケニアのマサイなど)に飼育されている。フルベは、おそらくウシを伴って乾燥化以前のサハラないし北アフリカ経由でアフリカ西端に達し、その後サハラ南縁のサバンナ地帯を東進してチャド湖のあたりまで達したと考えられている。東アフリカのバントゥー系の多くの社会でもウシは重要で、南アフリカのサンと身体的特徴や言語の面でも近いコイ(「ホッテントット」とよばれてきた人々)も牧畜を行ってきた。そのほか西アフリカのサバンナ南部でも、小形で短角のウシが穀物農耕民の一部(ブルキナ・ファソのロビ、カセナなどの社会)で、花嫁代償用の資産として飼われている。どの社会でもウシは貴重な財産であり、乳は生乳、凝乳、バターなどの形で食料として利用されるが、儀礼上の特別の機会でなければ、と畜して食べなかった社会が多い(ただし、東アフリカの牛牧民社会のように多少ともウシを神聖視する観念は、西アフリカのフルベ社会にはまったくなかった)。また東アフリカのナイル系諸集団に、ウシの頸(けい)部の静脈に矢を射こんでとった生き血を、牛乳に混ぜたりして飲む習慣がある。
 やはり西アジアから北アフリカ、サハラ経由でもたらされたウマEquus caballusは、西アフリカのサバンナの社会で王侯・戦士の騎乗用に重視され、迅速に移動し敵を威圧するうえに有効な軍事手段として国家形成や支配の拡大に重要な役割を果たした。ウシもウマも、サハラ以南のアフリカ社会で、荷駄獣や農耕の役畜としてほとんど用いられなかったことは、これらの社会の技術・経済上の性格を考えるうえに重要である。その一方で荷駄獣としての役割は、北アフリカも含めたアフリカの広い社会で、ロバEquus asinus africanus, E. a. somalicusに集中して与えられている。肉や毛皮のためにはヒツジやヤギが多く用いられてきた。これらの小家畜やニワトリ、西アフリカ原産のホロホロチョウNumida meleagrisなどの家禽は、祖先祭祀(さいし)や雨乞(あまご)いなどの際の犠牲(生き血を墓石や聖所に注ぐ)としてもよく用いられる。[川田順造]
交易
採集狩猟民、漁労民、牧畜民などは、多くの地方で隣接する農耕民との間に物々交換を行って共生関係を保ってきたし、農耕民相互にも、定期的に開かれる市(いち)によって、産物の交換は絶えずなされてきた。しかしこうした地方的な性格の小規模な交換でなく、専業の商人集団が長距離を移動して商品を運搬する交易も、いくつかの地域で行われてきた。そのもっとも大規模なものは、アラブの北アフリカ進出後、8世紀ごろに始まり、14~16世紀を最盛期として栄えた、北アフリカとサハラ南縁の黒人社会との交易であろう。北アフリカからは、ウマ、装身具、華美な衣装、銅などがもたらされ、南からは奴隷や金が運ばれていった。こうした交易の保護を基盤として、サハラの南縁には、ガーナ、マリ、ソンガイなどの、広域を支配するいわゆる黒人帝国が形成されたが、これらの支配体制の興亡や北アフリカの状況との関連で、サハラの主要な交易路も、初期の、西端のモロッコとガーナ帝国(現モーリタニア南東部)を結ぶものから、16世紀以後オスマン帝国の支配下にあったリビア、チュニジアとチャド湖周辺のボルヌー、カネム王国とを結ぶものへと、西から東へ移動した。とくにアフリカを越えた範囲にも及ぶ影響をもたらしたのは、サハラの岩塩とサハラ以南アフリカの金(セネガル川やニジェール川の上流の山地で大量にとれた砂金)との交易であった。塩の得にくい西アフリカの人々にとって、岩塩は、ふんだんにある金と等量で交換されたとも伝えられるほど貴重なものであった。一方、サハラ以南アフリカから大量に北アフリカにもたらされる金が「黄金の国マリ」のうわさを地中海世界に伝え、イスラム・アラブの仲介を経ずに海路この黄金の国に到達したいという願望が、15世紀のポルトガルのエンリケ航海王子をスポンサーとする西アフリカへの探検航海となり、やがてバスコ・ダ・ガマの喜望峰を迂回(うかい)してのインド到達へと発展していった。サハラを越えての交易に携わったのは前述のモール人であり、運搬手段としてはラクダが使われた。
 このサハラ縦断交易のサハラ以南アフリカ側の部分を受け持って活躍し、さらに東や南にサバンナから森林地帯にまで広がって長距離交易を掌握していたのが、ワンガラ、ジュラ、ヤルシなど、地方によってさまざまな名でよばれてきたマンデ系の商業集団である。イスラム化されており、しばしば機(はた)織りなどの技芸も伴って、血縁の紐帯(ちゅうたい)に基づく交易網を西アフリカ内陸に巡らした。ロバに荷を積み、護衛もつけたキャラバンを組んで、綿布や岩塩、奴隷、森林地帯に産出するコーラの実などを商った。マンデ系商人ほど活動範囲が広くはなかったが、ナイジェリアのハウサ、ヨルバも異なる地域を結ぶ商業活動で知られる集団である。これらの商業の拠点、結節点として数々の都市も生まれた。ニジェール川大湾曲部のトンブクトゥ、ジェンネ、ハウサ地方のカノ、ソコト、ヨルバ地方のイバダン、アベオクタなどである。東アフリカの海岸では、アラブ商人が船で渡来し、12世紀から、ポルトガル船がくるようになる16世紀までを最盛期として、環インド洋交易が行われた。アフリカからは金や象牙(ぞうげ)や奴隷が、インドや東南アジアからは飾り玉や装身具や香辛料がもたらされた。交易の拠点であるモンバサ(ケニア)、キルワ、ザンジバル(タンザニア)などの港町が栄えた。アラブ人との長期にわたる直接の交流の結果、東アフリカ海岸地方に、バントゥー文化とアラブ文化の結合したスワヒリ(アラビア語で、「岸、縁」の意)文化が形成された。[川田順造]
工芸
そのほかの重要な生業活動として工芸をあげなければならない。北アフリカで発達した毛織物、革細工、金属細工、装身具、陶器などと対照的に、木、土、藁(わら)を素材とした木彫品、無釉(むゆう)の土器、技法も形状も多様な籠(かご)が工芸品の大きな部分を占めている。金属では精巧な銅や銀の細工が豊富な北アフリカに対して、サハラ以南のアフリカの至る所、鉄の鉱石(酸化鉄)が地表で容易に採取できたためもあって、鉄の実用品(鍬(くわ)の刃、槍、鏃(やじり)、小刀など)が古くから広くつくられてきた。これに対し、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の一部など限られた土地でしか産出せず、原料を北アフリカからの輸入に頼らなければならなかった銅を中心とする、より加工の容易な金属の細工(青銅、真鍮(しんちゅう)の腕輪、足輪などの装身具や、ナイジェリアのベニン王国のもので有名な王の記念像、ガーナ、コートジボワール南部のアカン系社会で精巧なものがつくられた金を量る分銅など)は、遅れて、しかも一部にしか行われなかった。鉄は鍛造だけで鋳造の技術がなかったが、青銅、真鍮は、おそらく北アフリカからもたらされたと思われる失蝋(しつろう)法で加工された。
 布は、綿布が、西アフリカ内陸部での幅の狭い水平機(すいへいばた)で、またナイジェリア南部などでの幅の広い竪機(たてばた)で織られたほか、中部アフリカではラフィアヤシの繊維の織物や、多くの森林地帯では樹皮布もつくられた。これらの工芸の多くは特殊な工人集団によって営まれ、とくに鉄の加工を行ってきた鍛冶(かじ)師は工人集団の内婚(女性が土器つくりである例が多い)を行う社会もあり、さまざまの禁忌をもち、社会的特権や特殊な能力を認められていることが多い。[川田順造]

日本との関係


第二次世界大戦前
アフリカと日本とは、長い間、地理的にはもちろん、政治的にも経済的にも文化的にも遠い距離にあったし、その傾向は今日でもまだ基本的には変わっていない。すなわち、日本の側からすれば、アフリカは、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、中東、ラテンアメリカなどと比較すれば、はるかに関係の薄い地域なのである。第二次世界大戦以前の時期には、アフリカの大部分がヨーロッパ列強の植民地であったことから、日本との関係は、政府レベルにおいても民間レベルにおいても、きわめて薄かったのは当然であった。たとえば日本の領事館がアフリカに開設されたのは1918年(大正7)のケープ・タウンが最初であったし、それ以後もエジプト、エチオピア、イギリス領ケニア、フランス領モロッコなどに総領事館あるいは領事館が開設されたにすぎず、それも第二次世界大戦中あるいはそれ以前にことごとく閉鎖された。経済関係にしても、日本側からの進出は微々たるものであって、第二次世界大戦前についてみれば、イギリス領ケニアのナイロビ、モンバサ、イギリス領ナイジェリアのラゴス、フランス領モロッコのカサブランカ、エジプトのアレクサンドリアなどの数か所に貿易関係の出先機関が置かれていただけであった。また日本人のアフリカに対する関心も薄く、せいぜいのところ、一部の知識人が、ヨーロッパ列強のアフリカ植民地経営を素材にして、その侵略的行動様式に対して警戒心を抱くよう説いたり、また一方で、そこから植民地経営上の教訓を引き出そうとしたりした程度であった。他方、アフリカ知識人の対日関心はどうかといえば、これも一般的にはけっして高くはなかった。それでもたとえば、ナイジェリアのナショナリストであったラディポ・ソランケLadipo Solankeの著述(1927)のなかに、明治維新以後の日本の急速な発展・近代化を範とすべきである、という趣旨の主張がみられることは興味深い。[小田英郎]
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後のアフリカと日本との関係は、実質的には、1950年代末期から1960年代初期にかけての「アフリカの独立の時代」に始まる。それ以降1990年代末期から今日に至るまでの間に、外交関係、経済関係は年を追って拡大してきたが、日本の対外関係全体のなかでみれば、対アフリカ関係の比重は依然として小さい。日本は西サハラのサハラ・アラブ民主共和国を除くアフリカ53か国と国交を結んでいるが、そのうち現地に大使館(実館)を開設しているのは22か国(2000年2月時点で、コンゴ民主共和国とリベリアは一時閉鎖)にすぎない。またアフリカ諸国のうちで、日本に大使館(実館)を開設しているのは30か国にとどまっている(2000年2月)。
 政府レベルの日本の対アフリカ姿勢は、全体として消極的なところから始まったが、ときに積極性をうかがわせるような変化もみせるようになってきている。たとえば、1973年10月の第四次中東戦争を契機とするオイル・ショックとその後の時期がそうであって、翌1974年6月には「南アフリカ共和国とのスポーツ・文化の交流を停止する」措置を発表し、同年10~11月には当時の外相木村俊夫がガーナ、ナイジェリア、ザイール(現コンゴ民主共和国)、タンザニア、エジプトの5か国を訪問して、植民地主義反対・人種差別主義反対の立場の明確化、民族解放運動への精神的支援の強調、当時高まりつつあった経済的アフリカナイゼーションへの理解、経済・技術協力の拡大などを前面に押し出している。日本の外相の初のアフリカ諸国公式訪問である。また1974年以降日本のサハラ以南アフリカ向け(二国間)政府開発援助(ODA)も、絶対額はもちろん、比率も1973年が2.6%、1974年が4.1%、1975年が6.9%、さらに1979年が9.7%と急上昇していった。オイル・ショックによる資源問題全体の急浮上が、資源大陸アフリカに対する日本の政策に大きな転機をもたらしたのである。しかし、日本にとっての原料(とくに天然資源)供給地としてのアフリカの重要性は、天然資源の需要関係が以前ほど厳しくなくなってくるとふたたび薄れ、それがアフリカ政策の活力を弱めた感がある。その後、1978年末~1979年のイラン革命で再度オイル・ショックがくると、1979年7月の外相園田直のアフリカ5か国(ナイジェリア、コートジボワール、セネガル、タンザニア、ケニア)訪問に象徴される、対アフリカ外交の積極化の時代が始まる。日本の対サハラ以南アフリカ二国間ODAは、1980年に初めて2億ドルの大台にのると、1980年代前半は2億1000万ドルから2億6800万ドルの間を上下したが、1986年には前年比65.9%増の4億1846万ドルに跳ね上がり、1989年には過去最高の10億3964万ドルに達した。急激な円高傾向もあったが、1985年と1988年の実績を比較すればドル建てで3.5倍増になる。また1980年代を通して、援助額に占める贈与額の比率も急上昇するなど、いわゆる援助の質も向上した。さらに二国間ODA総額に占めるアフリカの比率は、北アフリカを除いたサハラ以南アフリカだけでも10%を上回る年が多くなり、主要先進国のなかでも有力なアフリカ援助国となっている。とくにポスト冷戦期に入った1990年代は、先進諸国の援助疲れが目だち、旧ソ連・東欧諸国への援助が重視され始め、国際社会におけるアフリカの優先順位が低下するなかで、日本の対アフリカ援助への期待が増大していった。そうしたなかで、日本の対サハラ以南アフリカ二国間ODAは上昇を続け、1995年には13億3300万ドル(東欧向けを除く総額の12.8%)でアメリカ、ドイツを抜いて、フランスに次ぐ第2位に躍進した。1996年には1990年代に入って初めて前年比マイナスになったが、10億6727万ドル(総額の13%)でフランス、ドイツに次いで第3位となっている。このほか1990年代のアフリカ諸国がこぞって取り組んでいる民主化や構造調整計画を通じての市場経済化に対しても、研修員の受け入れ、セミナーの開催、融資などを通じて、日本政府は積極的な支援を行っている。また、日本政府は、1993年10月、1998年10月と二度にわたるアフリカ開発会議(TICAD)を東京で国連などと共催し、アフリカ開発のあり方、それへの国際的支援戦略などについての、援助国、国際機関、アフリカ諸国の意見交換の場を提供している。日本とアフリカの関係がかつてないほど深まる兆しが、確かにうかがえる。しかし民間レベルでは、日本とアフリカの関係はまだまだ希薄である。たとえば、貿易関係でみた場合、1997年の日本の対サハラ以南アフリカ輸出額は38億4423万ドル(総輸出額の1.1%)、同じく輸入額は41億6697万ドル(総輸入額の1.4%)にすぎない。また同年の日本の対サハラ以南アフリカ直接投資は407億円(対外直接投資総額の0.6%)にとどまっている。国家元首級、閣僚級を含めてアフリカから訪日する要人は少ないわけではなく、また日本からも以前よりは閣僚級、次官級、あるいは首相在任時の橋本龍太郎(在任1996~1998)など有力政治家がアフリカ諸国を訪問するケースが増えるなど、政府レベルの人的交流は進んでいるが、全体的にはまだまだ不十分である。[小田英郎]
『●総論 ▽J・マーレイ編、日野舜也監訳『図説世界文化地理大百科 アフリカ』(1985・朝倉書店) ▽伊谷純一郎・小田英郎・川田順造・田中二郎・米山俊直共同監修『改訂アフリカを知る事典』(1999・平凡社)』
『●政治・社会 ▽星昭・林晃史著『アフリカ現代史 総説・南部アフリカ』(1978・山川出版社) ▽吉田昌夫著『アフリカ現代史 東アフリカ』(1978・山川出版社) ▽小田英郎著『アフリカ現代史 中部アフリカ』(1986・山川出版社) ▽中村弘光著『アフリカ現代史 西アフリカ』(1982・山川出版社) ▽宮治一雄『アフリカ現代史 北アフリカ』(1978・山川出版社) ▽小田英郎著『アフリカ現代政治』(1989・東京大学出版会) ▽林晃史編『アフリカの歴史(アフリカの21世紀 1)』(1991・勁草書房) ▽日野舜也編『アフリカの文化と社会(アフリカの21世紀 2)』(1991・勁草書房) ▽小田英郎編『アフリカの政治と国際関係(アフリカの21世紀 3)』(1991・勁草書房) ▽川田順造著『アフリカ(地域からの世界史9)』(1993・朝日新聞社) ▽宮本正興・松田素二著『新書アフリカ史』(1997・講談社) ▽The World BankWorld Development Report,1997:The State in a Changing World(1997,The World Bank) ▽『キリスト教年鑑(1998年版)』(1998・キリスト教新聞社) ▽小田英郎編『アフリカ(国際情勢ベーシック・シリーズ(4)・第2刷)』(1999・自由国民社) ▽『ブリタニカ国際年鑑 1999』(1999・ブリタニカ国際年鑑株式会社) ▽外務省経済協力局編『我が国の政府開発援助ODA白書(1999年版・上下)』(1999・国際協力推進協会) ▽『データブックオブザワールド 1999』(1999・二宮書店) ▽『世界年鑑 2000』(2000・共同通信社)』
『●経済・産業 ▽ウォルター・ロドネー著、北沢正雄訳『世界資本主義とアフリカ』(1978・柘植書房) ▽矢内原勝著『アフリカの経済とその発展――農村・労働移動・都市』(1980・文真堂) ▽岩城剛著『アフリカの自立化と経済』(1982・日本国際問題研究所) ▽ジョン・アイリフ著、北川勝彦訳『アフリカ資本主義の形成』(1989・昭和堂) ▽林晃史編『アフリカの歴史』(1991・勁草書房) ▽The World BankAccelerated Development in sub-Saharan Africa:An Agenda for Action (1997,Washington,D.C.) ▽末原達郎編『アフリカ経済』(1998・世界思想社) ▽マイケル・B・ブラウン著、塩出美和子・佐倉洋次訳『アフリカの選択』(1999・つげ書房新社)』
『●生活 ▽川田順造編『民族探検の旅6 アフリカ』(1977・学習研究社) ▽『ミリオーネ全世界事典10・11 アフリカ1・2』(1980・学習研究社) ▽ドニーズ・ポーム著、川田順造訳『アフリカの民族と文化』(白水社・文庫クセジュ)』

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世界大百科事典内のアフリカの言及

【イフリーキーヤ】より

…ラテン語のアフリカAfricaに由来するアラビア語。この語の指す範囲は,アラブによる征服の初期には,リビアより西方の北アフリカ全体であった。…

※「アフリカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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