ドイツの軍人、政治家。軍人の子として生まれる。1913年参謀本部でグレーナーの知遇を得た。第一次世界大戦中、最高軍司令部で政治的、経済的経験を積み、ドイツ革命では参謀次長グレーナーに協力し、軍のエーベルト(社会民主党)との同盟を共和国の基礎として支持した。1920年以後、国防省で内政上、経済上の安定に努めるが、それはここに外政上の再建の前提を認めたからである。1928年グレーナーが国防相になると、1929年自ら新設の国防省官房長となり権威主義的国家への道を追求し始めた。1930年ミュラー大連合政府が倒れると、ブリューニングを政権につけ、憲法第48条の大統領の緊急独裁権力でこれを支えた。だが対ナチス政策でブリューニングと分裂すると、パーペンを首相にし、自ら国防相となったが、1932年11月選挙ののち、パーペンを追って自ら首相兼国防相となり、社会民主党系や中央党系の労働組合、ナチス党のG・シュトラッサー派を結集し、ナチス党を分裂させると同時に社会政策上の利益連合を実現しようとした。だがこのような構想が実現するはずもなく、ユンカーや工業資本家の反発を招き、大統領の信任をも失って、1933年1月末パーペンの陰謀に倒れた。1934年6月末のヒトラーによるレーム粛清(レーム事件)の際、夫人とともに殺害された。
[吉田輝夫]
ドイツの言語学者。ダーウィンの影響を受け、自然科学的な方法を言語学に導入した。自然の生体と同じように、言語も成長と衰退の道をたどる一つの有機体とみなし、またこのような言語の発達変遷をヘーゲル流に解釈して、言語の成長と発達は先史時代に、堕落と消滅は歴史時代に属すると考えた。人類言語の発達を、孤立語、膠着(こうちゃく)語、屈折語という継起的な三つの段階に区分したのも彼である。また、その主著『印欧語比較文法要説』(1861~1862)のなかで示された、インド・ヨーロッパ諸言語の系統的関係を表す樹木の枝分れ図は「系統樹説」として知られる。ほかに『言語比較研究』(1848~1850)、『ダーウィン学説と言語学』(1863)などがある。
[松本克己 2018年6月19日]
ドイツの言語学者。チュービンゲン大学,ボン大学に学び,ヘーゲルの哲学に強い影響をうけた。1850年よりプラハ大学で比較言語学を教え,リトアニアに旅し,バルト語研究に進む。プラハで反オーストリア的人物の疑いをうけたため,数年後にイェーナ大学に移り,ここで長く比較言語学とドイツ文献学の教授を務めた。言語学は,言語を話す民族の歴史的な運命と直接関係することなく,言語そのものを対象にする学問で,それは自然史の一部をなし,その研究は自然科学の方法によるべきである,と彼は考えていた。ワイマールで刊行された大著《印欧語比較文法要説Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen》(1861-62,4版1876)において,彼はF.ボップにはじまる印欧語(インド・ヨーロッパ語族)研究を集大成すると同時に,比較によってそれぞれの形の原型を求め,理論的にインド・ヨーロッパ語の共通基語(祖語)Urspracheを再建するという新しい試みを展開した。そしてその共通基語からインド・ヨーロッパ諸語がどのように分化したかを,木の幹が枝分れしていくように,1本の系統樹Stammbaumに描いた。この説明は弟子シュミットJohannes Schmidt(1843-1901)の〈波紋説Wellentheorie〉によって論破されたが,語派相互の関係を考えるきっかけをあたえ,その研究は次にくるK.ブルクマンら〈青年文法学派〉の発展の基礎を築いた。
執筆者:風間 喜代三
ドイツ,ワイマール共和制の最後の首相。第1次大戦末期,陸軍参謀次長グレーナーに参謀将校として仕え,1918年のドイツ革命では,革命派を鎮圧する義勇軍の組織化に努力。ワイマール共和制のもとでは,国防軍を代表する立場から政界の裏面工作に従事,グレーナー国防相を支えたが,32年4月,ナチス突撃隊解散令に反対してグレーナーを退陣させ,パーペン内閣国防相を経て首相に就任。ヒトラー内閣登場によって引退したが,ヒトラーの恨みを買って,レーム事件の際にナチスに暗殺された。
執筆者:山口 定
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1882~1934
ドイツの軍人,政治家。1918~19年グレーナーのもとで政治将校として頭角を現し,ついでゼークトに密接に協力,26年以降国防省の政治面を担当し,再軍備政策の実現に努めた。ヒンデンブルクに近く,ブリューニング内閣の成立と崩壊に関与し,32年パーペン内閣の国防相,ついで首相となった。軍部独裁を企てたが失敗し,33年1月辞職。レーム粛清の際殺された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…さらにはスラブ圏のわくを超え,西ヨーロッパにおいても学問分野として認められた。1849年にウィーン大学にスラブ文献学の講座が設けられ,スロベニア人で《スラブ語比較文法》で知られるミクロシッチFranz Miklošič(1813‐91)がその講座を担当し,同じころ開設されたプラハのカレル大学の講座を担当したドイツ人でインド・ヨーロッパ語学者A.シュライヒャーとともに,多数のすぐれたスラブ学者を養成した。87年よりウィーン大学の講座を担当したクロアチア人のヤギチVatroslav Jagić(1838‐1923)は,ドイツやロシアでも教壇に立ち,各国の研究者の連係をはかった。…
…32年7月の国会選挙で第一党の地位を確保したが,ヒトラーは,パーペン内閣への入閣を拒否。32年12月シュライヒャー首相によるG.シュトラッサー入閣の画策の失敗後,33年1月30日大統領ヒンデンブルクにより首相に任命される。 1933年3月5日の国会選挙でナチスは647議席のうち288議席を獲得し,同年3月23日の授権法により議会政治を排除,5月以降,政党,労働組合の解散を強行し,ナチスによる一党支配を確立した。…
※「シュライヒャー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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