インドネシア中南部、大スンダ列島の一島で同国の主島をなす。ほぼ東西に細長い島で、東西約1000キロメートル、南北の最大幅は約200キロメートルである。面積13万2186平方キロメートル、人口約1億2875万5100(2001年推計。面積、人口ともマドゥラ島を含む)。
[上野福男]
ジャワ島は、構造的にはアルプス造山帯に属し、新生代第三紀に誕生したものである。島の中央部を東西に脊梁(せきりょう)山脈が走り、同山脈には約120の火山があり、そのうち約20が活火山である。火山は大部分が2000メートル以上の高峰で、東部には最高峰のスメル火山(3676メートル)がそびえる。山脈中にはバンドン高原、カルー高原、ディエン高原、マラン高原などの高原やいくつかの盆地が散在する。山脈の南北に並行して広がる石灰岩台地は全島の38%を占め、北部は中部・東部ジャワにまたがる海岸地域、南部は西部ジャワの南東端部、ジョクジャカルタ東部、東部ジャワの中央海岸地域などである。沖積平野は主として中央山地の北側に展開し、チタルム川、チマヌク川、ルシ川、ソロ川、ブランタス川など、いくつかの河川によって形成されている。なかでもソロ川はジャワ島最大の河川で、その流域はブランタス川流域とともに同島の穀倉地帯となっている。またソロ川は、その上流域でジャワ原人の遺骨が発見されたことから世界的に有名である。海岸は北岸が単調なデルタ海岸からなるのに対し、南岸は山地が海に迫り、切り立った海岸が多い。
気候は雨期と乾期が明瞭(めいりょう)に分かれる熱帯サバナ気候で、1000キロメートルに及ぶ島の東西ではその差異が顕著である。東モンスーンの影響を受ける中部および東部では乾燥し、スラバヤの8~9月の降水量は10ミリメートルにすぎない。西モンスーンの影響下にある西部は比較的多湿である。気温の特色は海風の影響で暑さが緩和されること、日較差が少ないこと、山地地形のため垂直的変化に富むことなどである。
[上野福男]
インドとは紀元前後から交渉があり、ヤバドビーパ(穀物の島)とよばれた。2世紀なかばのアレクサンドリアの地理・天文学者プトレマイオスはヤバデューと訛(なま)り、5世紀の法顕(ほっけん)は耶婆提と表記した。インド文化は初め西部に、ついで中部に入り、5世紀ごろ西部にタルマ・ナガラ、また8世紀には中部ジャワにシバ派の王朝が栄えた。8世紀なかば以後になると、大乗仏教を信奉するシャイレーンドラ朝が現れて、ボロブドゥールをはじめ多くの祠堂(しどう)を建立したが、9世紀なかばには王統はスマトラに移りシュリービジャヤ王国を再興した。ジャワではヒンドゥー教が勢力を盛り返し、11世紀にはクディリ朝のアイルランガが出て東ジャワの覇者となり、死後その国土は二分されたが、まもなく統一された。
13世紀前半、シンゴサリ王国が出現して、東部はクルタナガラ(在位1268~1292)の時代に最盛期を迎えた。この王は狂熱の仏教信者で政治をなおざりにしたため、ジャヤカトワンによって滅ぼされた。このとき、中国、元軍の来攻があり、ジャヤカトワンは討たれたが、クルタナガラの女婿(じょせい)ラデン・ウィジャヤは元軍を撃退し、マジャパヒト王国を建てた。14世紀後半ハヤム・ウルクのときが最盛期で、西ジャワを除く現在のインドネシア共和国のほぼ全域と、マレー半島の一部を領有したといわれる。王国はその後継承の争いがあって急速に衰え、東部海岸にはイスラム勢力が台頭した。16世紀後半、イスラム教国マタラムが興り中東部を支配、西部もバンテン王国に統一され、ヒンドゥー勢力は東端に余命を保つのみとなった。
17世紀初めオランダ東インド会社は、バタビア(ジャカルタ)に基地を設け、マタラム、バンテン両国の内紛に乗じて圧迫を加え、18世紀末までには全島をその影響下に置いた。東インド会社の解散後は、オランダ政府が行政を受け継ぎ、19世紀初めナポレオン戦争中の一時、イギリスが占領支配(1811~1816)したほかは、第二次世界大戦まで引き続き統治した。大戦中は日本軍が占領、1945年8月、ジャワを中心にインドネシア共和国が独立した。
[中村孝志]
産業の中心は農業で、肥沃(ひよく)な沖積平野や傾斜地では稲作が盛んに行われている。とくに傾斜地の階段耕作の景観が顕著で、ジャワ島の農村の風物となっている。稲作は19世紀以後、オランダの灌漑(かんがい)技術の導入が推進力となって、西部ジャワの沖積平野を中心に発展した。1970年代以降、灌漑事業のほか区画整理、農業機械の普及、品種および肥料の改良によって米の生産量は著しく増加した。サトウキビ、天然ゴム、コーヒー、紅茶、タバコなどのプランテーションも発達しており、インドネシア経済を支える重要な役割を担っている。森林資源は熱帯気候を反映して豊富に存在し、とくにチーク材に代表される硬質材が生産される。政府は林道の開設、製材所の建設、植林などの森林開発事業に精力的に取り組んできた。しかし、近年乱伐による森林の荒廃が問題化している。
鉱産資源は乏しいが、国の大部分の工業生産施設はジャワ島に集中している。石油精製、鉄鋼、機械、造船、化学、ゴム、織物、ガラスなど各種工業がジャカルタをはじめとする諸都市に発展している。しかし、その規模は小さく国内向けの生産にとどまっている。伝統工芸にはろう染め、編み細工、籠(かご)細工、木彫り細工、ガラス細工、絞り染め、製陶などがある。漁業はジャワ海のマグロ漁業が中心だが、漁獲法、漁船などの近代化が遅れ、漁獲量は需要を満たすに至らない。水田ではコイの養殖も行われる。
インドネシアでもっとも開発の進んだジャワ島の人口は、同国の総人口の約60%を占め、人口密度も1平方キロメートル当り974人に上り世界有数の人口密集地域となっている。とくに中部ジャワ、なかでも南岸平野がもっとも人口の稠密(ちゅうみつ)な地域である。人口密度はその地域の耕地率に反映し、中部ジャワ南岸平野では耕地率は75~80%に及び、ジャワ島の平均耕地率60%を大きく上回る。これに対して東西両端部の人口希薄地域は、耕地率は40%にすぎない。また、ジャワ島の都市分布の密度はインドネシアでもっとも高く、同国の人口100万以上の都市の多くが、また人口10万以上の都市の約半分が同島にある。
[上野福男]
ジャワ島西部にはスンダ人、東部およびマドゥラ島にはマドゥラ人が住んでいるが、一般にジャワといえば、ジャワ人の住んでいる中・東部地域をさす。宗教登録上はイスラム教徒がほとんどであるが、実際には土着の信仰が基盤になっており、超能力や精霊、呪術(じゅじゅつ)や占いに対する信仰が強い。死者の供養や婚礼、割礼(かつれい)や旅行への出発などの機会には、近隣の戸主を招いて祈祷(きとう)を行い、食事を供する儀礼(スラマタン)が催される。
儀礼においても日常においても酒類を飲むことはなく、砂糖で甘味をつけた茶を飲むのが普通である。食事は香辛料をきかせた野菜や肉の煮込み類を飯の上にかけたものが一般的で、大豆を発酵させてつくったテンペやタフ(豆腐)が安価なタンパク源となっている。
敬語の発達に代表されるように、ジャワ社会は上下の身分階層および貧富の差が激しく、ジャワ人の大多数が住む農村においても土地所有に極端な差がみられるが、ジャワ人には運命をそのまま受け入れる現状肯定的な考え方が強く、急激な社会変化を求める者は少ない。
演劇、舞踊、文学、音楽などについては、かつての都スラカルタ(ソロ)やジョクジャカルタ(ジョクジャ)が、中心とされている。いずれも土着の要素、インドやイスラムの影響が入り混じったものが多い。演劇では、ワヤン(人形影絵劇)が伝統芸能を代表し、音楽では打楽器を多用するガムランが有名である。
[宮崎恒二]
ヒンドゥー教文化が繁栄したジャワ島には数多くの史跡が散在する。中部ジャワのボロブドゥールやプランバナンの壮大な遺跡はあまりにも有名で、世界各国から多くの観光客が訪れる。またバンドン高原などの高原避暑地も重要な観光地となっている。おもな都市には、首都ジャカルタをはじめ、砂糖の輸出港として発展したスラバヤ、オランダ人が避暑地として建設したバンドン、中部ジャワ北岸にある港湾都市スマラン、伝統工芸のバティック(ジャワ更紗(さらさ))で知られ旧スルタン王国の王宮のあるジョクジャカルタ、植物園で有名なボゴールなどがある。
[上野福男]
『M・ハルジョウィロゴ著、染谷臣道・宮崎恒二訳『ジャワ人の思考様式』(1992・めこん)』▽『風間純子著『めこん選書3 ジャワの音風景』(1994・めこん)』
インドネシア共和国の中心をなす島。大スンダ列島の一つで,東西に細長く(1060km),南北の最大幅は200km。面積12万6500km2で,全インドネシアの約7%にすぎないが,人口は1億2000万(2000)をこえ,全国の6割近くを集める。人口密度も1km2当り850人をこえ,農業中心の島として世界有数の稠密さである。ヒマラヤ構造線の延長がここに現れて島を東西に貫き,同時に多数の火山を伴う。その総数は112に及び,うち35はなお活動を続け,しばしば災害を与える。最高点は東部のスメル山(3676m)。しかし火山の裾野や山間の高原盆地などは肥沃な火山性土壌に覆われ,島にとり大きな恩恵となる。北海岸には低地が連なり,チマヌク,ソロ,ブランタスなどのおもな川は北流してジャワ海に注ぐ。南海岸は一般に地形がけわしく,石灰岩山地が連なる。気候は南緯6~8°に位置するにもかかわらず,海島あるいは垂直的地形により,暑熱はかなり和らげられる。年平均気温は,低地のジャカルタで26.4℃,バンドン(700m)で22℃,トサリ(1800m)で16℃となり,住みよい国土を形成する。雨量も南西モンスーンの影響の強い西部では多いが,東に向かうにつれ少なくなる。植物も特に地形の垂直差に支配され,低地の熱帯雨林から3000m以上の山地の冷温帯的形式まで各種のものがみられる。
ジャワの住民は第二次マレー系(開化マレー)を主とするが,地域により差異がある。中部から東部にはインドネシアの中心的民族であるジャワ族が住み,数も最も多い。西部にはスンダ族,属島のマドゥラ島からジャワ東部にかけてはマドゥラ族が住む。これらはいずれも文化的・言語的に若干の差異はあるが,自給的農業を営み,特有の慣習に基づく伝統的社会を形成する点で共通している。ジャカルタのような海港都市にはインドネシア各島からの民族が集まり,また都市には一般に中国・インド系その他外来者も多い。自然環境に恵まれたジャワが古くからすぐれた居住地であったことは,原始人類(ジャワ原人)の遺物の発見などでも証明される。紀元前後からはインド人の移住を見,彼らは先住民に高い文化的刺激を与えつつこれと融合して,多くの国家を発展させた。8~10世紀には中部ジャワにヒンドゥー教系,仏教系の王国が続出し,プランバナンやボロブドゥールなどの世界的文化遺跡を残した。文化の中心はその後東ジャワに移ったが,13世紀末,元のフビライの遠征軍を敗北させた勢いでヒンドゥー王国マジャパイトの隆盛を見るに至る。これはジャワ史の黄金時代であった。こうしてインドは常に宗教・文化を通じジャワにとっての母国的存在であり,独立に際してもインドネシア(島のインド)の国号を採用させた理由でもある。マジャパイト王国は16世紀初頭,東進して来たイスラム勢力に滅ぼされ,ジャワにはイスラム王国(マタラム・イスラム)が成立したが,まもなく17世紀初めからオランダの侵入に遭遇し,以来3世紀半の長きにわたりその植民地経営の中心とされた。
ジャワは土地が肥沃なため,古くから水田経営が発展し,多くの人口を支えてきたが,近代にはオランダによるプランテーション開発が行われ,各種生産物の中心的産地となった。その際,気候の垂直的差異の利用も見のがせない。すなわち低地ではサトウキビ,コーヒー,高原ではジャガイモ,茶,キナなどが栽培された。それらの輸出による莫大な利潤はオランダをうるおし,彼らには文字どおり宝の島であったが,その反面,原住民の生活は極度に貧しいものであった。これらのプランテーションは第2次大戦後衰えてしまったが,現在の大きな問題は増大するジャワの人口を支える食糧の増産である。人口増加率は毎年2.2%と加速化しているが,すでに隅々まで開かれたジャワでは耕地拡大の余地はほとんどない。インドのように飢饉が起こらないのは,ただ代替食糧としてのトウモロコシ,キャッサバなどが米の不足を補っているからである。人口の80%がなお農村居住であり,工業も大都市に点在的であるにすぎないジャワで,政府があらゆる方法で農業の近代化を図っている理由はここにある。
執筆者:別技 篤彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…正式名称=インドネシア共和国Republic of Indonesia面積=190万4569km2人口(1996)=1億9819万人首都=ジャカルタJakarta(日本との時差=-2時間)主要言語=インドネシア語,ジャワ語,スンダ語通貨=ルピアRupiah東南アジアの大国。赤道をはさんでその南北に広がる島嶼(とうしよ)国家である。…
※「ジャワ島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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