改訂新版 世界大百科事典 「スッポン」の意味・わかりやすい解説
スッポン (鼈)
soft-shelled turtle
スッポン科Trionychidaeに属する軟らかい甲をもつカメ類の総称。約6属25種がアフリカ,アジア南部および東部,北アメリカに分布するが,化石種はヨーロッパ各地からも発見されている。甲長は20~40cmほどで,大型種は50~80cmに達する。甲はほぼ円形で平たく,表面は厚い皮膚に覆われて鱗板を欠き,側縁部が軟らかい。大半の種では背甲と腹甲が固着せず,靱帯組織で結合している。頭頸(とうけい)部がきわめて細長く,吻(ふん)部は細長い管状となって先端に鼻孔が開口している。上下のあごは厚い肉質の唇に覆われるが,硬くて縁が鋭くかむ力が強い。長い前肢は扁平なオール状,短い後肢は櫂(かい)状で,それぞれ3個のつめがある。
性質が荒く,後方にも長い頸部をのばし甲羅ごしにかみつくので,取扱いに注意を要する。淡水性で流れの緩い河川や湖沼にすみ,一部が汽水や海水域にも見られる。ほとんどの種が産卵以外水の外に出ないが,ときには水辺で日光浴をする。砂泥質の水底に横たわって過ごすことが多く,ときどきくびをのばして管状の鼻先を水面上に突き出し,呼吸する。しかし水中生活でのガス交換は,軟らかい甲の表面,総排出腔,口腔内での皮膚呼吸による率が高い。餌は魚,カエル,エビ,貝,昆虫,ミミズなどで,獲物が接近するとすばやく頭頸部をのばしてとらえるが,腐肉や植物質を食べることもあり,まったくの草食性のものも知られている。初夏に水辺の土砂に穴を掘って産卵し,1回に10~20個,多いものは50~60個ほどを産む。
スッポン類は腹甲後部に後肢を覆う皮膚のふたをもつハコスッポン亜科Cyclanorbinaeと,ふたのないスッポン亜科Trionychinaeの2群に分けられる。ハコスッポン亜科は東南アジアからアフリカにかけて3属が分布し,甲長60~80cmに達する大型種が含まれる。インド,ミャンマーなどに分布するハコスッポンLissemys punctataは甲長25cm,腹甲後部には皮膚が硬くなった1対のふたがあって,引っこめた後肢を覆う。腹甲前部のすきまは,ちょうつがい状の腹甲前半部をもち上げて閉じる。スッポン亜科のスッポン属Trionyxには,本州,四国,九州の池沼に分布するニホンスッポンT.sinensis japonicaや,アメリカ合衆国産トゲスッポンT.spiniferus(甲長45cm)など15種ほどが含まれる。本属にはナイルスッポンT.triunguisの甲長90cm,ガンジススッポンT.gangeticusの70cmなど大型種が含まれ,別属の東南アジア・ニューギニア産のマルスッポンPelochelys bibroniも甲長60~100cmに達する。
スッポンは世界各地で食用に供され,日本では高級料理として古くから賞味される。天然産が減少した昨今では,浜名湖地方をはじめ各地で養殖が盛んであり,成熟すると甲長30cm,体重3kgほどに達する。スッポンの風変りな用途には,アフリカの一部でセネガルスッポンCyclanorbis senegalensis(甲長60cm)を井戸で飼い,残飯を処理させるものがある。
執筆者:松井 孝爾
食用
日本人は古くからスッポンを食べていたようで,静岡市登呂遺跡からの出土例が報告されている。《養老律》には天皇の食膳を調製する者が食禁(じつきん)(食合せ)を犯した場合,内膳司の次官である典膳(てんぜん)は3年の懲役に処され,かつ,八虐のうちの大不敬にあたるとされているが,その食禁の例として挙げられているのが乾肉と黍(きび)およびスッポンと莧(ひゆ)という組合せである。代表例としては奇異に思われるが,これは唐律の法文をそのまま借用したためであった。ただし,《延喜式》を見ると,いまでは雑草としてかえりみられないヒユが天皇の食膳に供されていたし,干したスッポンも同じく食膳に上っているので,あるいは両者が同時に供される危険性もありえたかも知れない。中国には上古からスッポンを食う習俗があり,唐代にはこれが盛んになった。スッポンとヒユの食合せを最悪とする観念もその間に生まれたもので,唐の陳蔵器の《本草拾遺》には,スッポンの肉を細かく切ってヒユの葉とまぜ,水のあるところに置くとそれが生きたスッポンになるとしている。すなわち,スッポンとヒユを合食すると,その肉が生きたスッポンになり,腹を食いやぶって外へ出ようとするので,人が死ぬというのであった。それはともかく,日本でスッポンが好まれるようになるのは江戸時代に入ってからのことらしい。1643年(寛永20)刊の《料理物語》はスッポンを真亀(まがめ)と書き,吸物と刺身がよいとしており,84年(貞享1)刊の井原西鶴の《諸艶大鑑》にはスッポン捕りを生業とする人物が登場する。京坂ではこのころまでにスッポン料理の店ができていたが,江戸での出現は宝暦(1751-64)ころのことで,それも路傍に小屋がけした煮売屋であったという。ちなみにスッポンを鼈(べつ),団魚,甲魚などと書くところから,京坂では〈まる〉といった。江戸では〈ふた(蓋)〉と呼んで,これをたしなむ人がしだいに多くなり,価格も高騰したようで,喜多村筠庭は《瓦礫雑考》(1818)の中で,〈今江戸のすっぽん貴きこと,京師にくらぶれば五倍に過(すぐ)べし〉といっている。ちなみに,寛政(1789-1801)ころから東海道の名物になった見付(みつけ)宿(現,静岡県磐田市)の茶店のスッポンも,それまで食べる人がいなかったものをとらえて煮売りして,味と安さで人気を博したもののようである。いまではスッポンなべのほか汁や雑炊にすることが多く,その生血を強壮剤として愛用する人もある。また,甲を干したものは鼈甲(べつこう)と呼んで古くから薬用とされ,山城,摂津から貢納されたことが《延喜式》に見えている。
執筆者:鈴木 晋一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報