ゼノン(英語表記)Zēnōn

デジタル大辞泉 「ゼノン」の意味・読み・例文・類語

ゼノン【Zēnōn】[エレア学派の哲学者]

[前490ころ~前430ころ]古代ギリシャのエレア学派の哲学者。パルメニデスの弟子。アリストテレスにより、弁証法の祖とよばれた。ゼノンの逆説で有名。エレアのゼノン。

ゼノン【Zēnōn】[ストア学派の哲学者]

[前335ころ~前263ころ]古代ギリシャの哲学者。ストア学派の祖。道徳を唯一の善とし、それに基づく自足を理想とする実践哲学を主張。キプロスのゼノン。

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精選版 日本国語大辞典 「ゼノン」の意味・読み・例文・類語

ゼノン

  1. [ 一 ] ( Zēnōn ) 古代ギリシアの哲学者。エレアのゼノンともいわれる。パルメニデスの弟子。弁証法の祖。「アキレスとカメ」「飛矢静止論」など逆説的論証で有名。(前四九五頃‐前四三〇頃
  2. [ 二 ] ( Zēnōn ) 古代ギリシアの哲学者。キュプロスのゼノンともいわれる。ストア派哲学の祖。徳こそ唯一の真の善、自然に従って生きるところに幸福がある、と説いた。(前三三五頃‐前二六三頃

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改訂新版 世界大百科事典 「ゼノン」の意味・わかりやすい解説

ゼノン(エレアの)
Zēnōn
生没年:前490ころ-前440ころ

古代ギリシアの哲学者。南イタリアのギリシア植民市エレアに生まれる。エレア学派の創設者パルメニデスの高弟で,師の主張を彼独自の論法によって擁護した。すなわち彼は,相手の主張を一度受け入れ,その上でその前提からいかなる矛盾した帰結が生ずるかを証明してみせることによって,間接的に相手の主張を論駁(ろんばく)した。この論法によって,アリストテレスは彼をディアレクティケ(弁証法,問答法)の発見者としている。ゼノンのこの論法は今日,〈多〉にたいする反駁二つ,〈動〉にたいする反駁四つが伝えられている。ゼノンの論法は,たとえば,〈真実在は一である〉とするパルメニデスの説にたいして〈存在は多である〉と主張する相手に,つぎのような仕方で論駁する例において典型的に示される。もし多であるなら,それらはどれほど多くても,あるだけ,ちょうどそれだけあって,それより多くも少なくもないから,その数は全体として一定“有限”である。他方しかし,それら多なる存在と存在との間には別の存在があるはずであり(もし何もないなら,それらは二つではなく一つのものだということになる),同じことはいくらでも先へ考えていくことができるから,その数は“無限”となる。したがって,もし存在が多であるなら,その数は有限にしてかつ無限であるという矛盾した帰結が生ずる。ゆえにこの前提は誤っている。この種の論法はこのほかにも,〈動〉にたいする論駁として,俊足のアキレウスは亀を追い越すことはできないとする〈アキレウス〉,飛ぶ矢は静止しているとする〈矢〉の論などがあるが,これらは〈ゼノンのパラドックス〉として知られている。厳密な意味での哲学的論議はパルメニデスの哲学的詩文において初めて現れたといえるが,ゼノンをもってギリシアの論証的散文の創設者とみることができよう。彼の論駁は,以後の哲学思想,とりわけピタゴラス学派の思想にたいして大きな影響を与えた。
執筆者:


ゼノン
Zēnōn
生没年:435から440-491

ローマ帝国皇帝,ビザンティン帝国皇帝。在位474-475,476-491年。426年生れともいわれる。前名タラシコディッサTarasikodissa。イサウリア族族長でレオ1世の要請でアスパルに代表されるゲルマン勢力に対抗するために宮廷に招かれる。皇女アリアドネと結婚しゼノンを名のる(466)。レオ1世の没後(474),7歳の息子がレオ2世として登位するが,彼が同年没したため正帝となる。475年先帝の義弟バシリスクスに帝位を奪われるが,翌年復帰し,同年西の正帝ロムルス・アウグストゥルスが没したあと,ローマ帝国唯一の皇帝となる。東方国境でのペルシア軍の侵入,トラキアへのフン族の南下もあったが,488年バルカンのゴート王テオドリックの攻撃目標をイタリアに転換させ,民族移動の嵐を逃れた。482年宗教的には異端とされるキリスト単性論者の政治的離反を防ぐため,おそらくアカキオスの示唆によってキリスト両性論との妥協を目指す〈ヘノティコンHenotikon(統一令)〉を出すが,ローマ教皇からも反対され,ローマ,ビザンティン両教会は〈アカキオスの分離〉(484-519)と呼ばれる断交状態に入った。
執筆者:


ゼノン(キプロスの)
Zēnōn
生没年:前335-前263

キプロス島キティオン出身のギリシア哲学者。ストア学派の祖。若くしてアテナイに学び,キュニコス学派メガラ学派アカデメイア学派を経て,独自の哲学を確立し,アゴラの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)にて学園を開く。ストアの名はこれに由来する。宇宙を支配している神的英知に自分の意志を合致させることこそ,真の幸福を得る要諦であると説く。その実践哲学は古代末期およびルネサンスの哲学に多大の影響を与えた。断片以外に著作は残っていない。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゼノン」の意味・わかりやすい解説

ゼノン(エレアのゼノン)
ぜのん
Zēnōn ho Eleatēs
(前490/485ころ―前430ころ)

古代ギリシアのエレア学派の哲学者。最初ピタゴラス学派に属したとも、政治活動に従事したとも伝えられる。エレア学派の祖パルメニデスの弟子にして親しい友人であった。パルメニデスを弁護する作品を書いたが、プラトンはその『パルメニデス』のなかで、それが若気の至りであったとゼノンに告白させている。また『パイドロス』のなかで、ゼノンについて、同じものが似ており似ていない、一であり多である、静止しており運動している、と聞く者に思わせる技術の持ち主と紹介している。そこからアリストテレスは、ゼノンを、前提から矛盾した結論を引き出す弁証論の発見者とよんだと伝えられている。不変不動の一つなる「有るもの」を思索した師パルメニデスを弁護するために、弁証論を駆使した「ゼノンの逆説」を提出した。多くのものが存在することを否定する論とアリストテレスが報告している運動否定論(「多否定論」「二分法」「アキレスと亀(かめ)」「飛矢」「競技場」)である。その精緻(せいち)な論理によって無限、連続、空間、時間、一多の問題を再検討するよう強いた影響は大きかった。現代でもベルクソンをはじめ多くの人々がその「逆説」を分析解釈する努力を傾けている。しかしゼノンでは、論理は独走し、哲学は師の思索を弁護することにすり替わっていた。既述のようにプラトンはゼノンの若さを強調し、その論がパルメニデスと異なって「見えるもの」の位相に限局されていることを『パルメニデス』のなかで適確に指摘している。

[山本 巍 2015年1月20日]


ゼノン(キプロスのゼノン)
ぜのん
Zēnōn ho Kyprios
(前335ころ―前263ころ)

古代ギリシアの哲学者。ストア学派の開祖。キプロス島キティオンの生まれ。フェニキア人の血筋と推定される。30歳ごろアテネに上り、さまざまの学派に属する師に学んだのち、独自の学派を開いて、アゴラの「彩色柱廊」(ヘー・ポイキレー・ストアー)とよばれる公共の会堂で哲学を説いた。その哲学は節欲と堅忍を教えるものであり、人が自分の力で生き、他の何人(なんぴと)にも、何事にも奪われない幸福を獲(え)る力を与える哲学であった。「自然と一致した生」がその目標である。伝統の諸哲学説を混じて説いたために折衷のそしりがあるが、その説の根本には、東方の要素があると信じられ、この独自性のゆえに生粋(きっすい)のギリシア人以外の弟子たちを多く集め、新しいヘレニズムの時代を代表する哲学となった。死去の模様は次のように伝えられている。外出して転んだとき、地を打っていった、「いま行くよ、どうして私を呼ぶのだ」と。そして自分で息を詰めて死んだという。著作は散逸して残らない。

[加藤信朗 2015年1月20日]


ゼノン(ビザンティン皇帝)
ぜのん
Zenon ギリシア語
Zeno ラテン語
(426―491)

ビザンティン皇帝(在位474~491)。イサウリア貴族の出身で名をタラシコディッサTarasicodissaといった。軍人として活躍し、レオ1世の娘と結婚、改名した。レオ1世の死後帝位につき、一時反乱で退位させられたが、すぐ復位し、ゴート王テオドリックと交渉して、これにイタリアのオドアケルを討たせることに成功した。このころカトリックと異端のキリスト単性論者との間の論争が深刻化していたが、ゼノンは両者の調停を企図し、「一致令」(ヘノティコン)を発して単性説に譲歩した。しかし、ローマ教会はこれを認めず、起草者のコンスタンティノープル総主教アカキオスを非難し、ここに東西教会は484年から519年まで断絶関係に陥った(アカキオスの離教)。

[松本宣郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ゼノン」の意味・わかりやすい解説

ゼノン[エレア]
Zēnōn; Zeno of Elea

[生]前495頃
[没]前430頃
南イタリア,エレア出身の古代ギリシアの哲学者。パルメニデスの弟子でパルメニデスの独創的な存在論を継承,唯一,単純,不変の存在を説く学説を直接的に立証するかわりに,「多も運動も存在しない,なぜならこれら諸概念は矛盾した結果に導くから」という仕方で弁証し,一者の概念を最も純粋に徹底させた。この独自の方法のゆえにゼノンはアリストテレスによって弁証法の創始者と呼ばれており,プラトンにも大きな影響を与えた。ゼノンの徹底した思索はクセノファネスが開きパルメニデスが体系化したエレア派の原理の仕上げであったが,同時に同派の原理の内在的矛盾を最も鋭く露呈したといえる(→ゼノンのパラドックス)。晩年故郷の市を僭主制から解放するための政治的闘争に参加,企てが露見し拷問のうちに死んだ。

ゼノン[ストア]
Zēnōn; Zeno the Stoic

[生]前334頃.キプロス,キティオン
[没]前262/前261. アテネ
ギリシアの哲学者,ストア派の祖。キプロスのゼノン,キティオンのゼノンともいわれる。若いときアテネを訪れクセノフォンの『ソクラテスの思い出』プラトンの『ソクラテスの弁明』を読む機会を得てソクラテスの人格に深く影響された。キュニコス派のクラテス,メガラ派のスティルポン,アカデメイアのクセノクラテス,ポレモンに師事したのちストア・ポイキレ (彩られた柱堂) に学校を開く (前 300頃) 。その節欲が諺として語られるほど彼の態度は厳格であり,質素で忍耐強い生活は有名であった。彼は哲学を論理学,自然学,倫理学の三つに分け,認識の真理性の基準を示す概念としてカタレプシス的表象,シュンカタテシスなどの新概念をつくった。倫理学が中心であり,人生の目標とすべき幸福は宇宙を支配する神の理性 (ロゴス) に従うことであり,もって不動心の境地にいたることであると説いた。論理学,自然学,倫理学,修辞学について多くの論文を書いたが現在は引用による断片が知られるのみである。

ゼノン[シドン]
Zēnōn; Zeno of Sidon

[生]前150頃
[没]前79/前78
ギリシアのエピクロス派の哲学者。アテネのアポロドロスの弟子。キケロは彼の聴講者の一人。

ゼノン[タルソス]
Zēnōn; Zeno of Tarsus

ギリシアのストア派の哲学者。クリュシッポス (前 281~208) の後継者。

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百科事典マイペディア 「ゼノン」の意味・わかりやすい解説

ゼノン(エレアの)【ゼノン】

古代ギリシア,エレア学派の哲学者。同学派の開祖パルメニデスの弟子。運動否定論と〈ゼノンのパラドックス〉で有名。一種の帰謬(きびゅう)法によるその逆説的論法により,アリストテレスによって弁証論(ディアレクティケ)の祖と呼ばれた。
→関連項目エレア学派ゴルギアスパラドックスレウキッポス

ゼノン(キプロスの)【ゼノン】

古代ギリシアの哲学者。キプロス島の生れ。アテナイへ出てキュニコス派,メガラ派,アカデメイア学派哲学を学び,のち彩色柱廊(ストア・ポイキレ)に学園を開いて,ストア学派を創始。世界を宰領する神的叡知に従って生きることを最高の徳とし,ために禁欲と克己を説く。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ゼノン」の解説

ゼノン
Zenon

前335~前263

キプロス生まれの哲学者。前300年頃からアテネの講堂ストア・ポイキレで哲学を講じ(ここから彼を祖とする一派をストア学派と呼ぶ),徳こそ唯一の真の善と説いた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ゼノン」の解説

ゼノン(エレア)
Zenon

前490ごろ〜前430ごろ
古代ギリシアのエレア派の哲学者
パルメニデスの弟子。有名な「アキレスと亀」のたとえで論理の矛盾を指摘し,師の「有るものは一なり」との説を弁護した。厳密な論理的思考法を強調し,弁証法の祖とされる。プラトン・アリストテレスに影響を与えた。

ゼノン(キプロス)
Zenon

前336〜前264
古代ギリシアの哲学者,ストア哲学の開祖
ソクラテスやアカデメイア派・キュニコス派の影響を受けて独自の哲学体系を立て,アテネのストア−ポイキレ(壁画付きの柱廊)で哲学を講じたので,ストア派と呼ばれた。

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世界大百科事典(旧版)内のゼノンの言及

【東ゴート王国】より

…スカンジナビアを発祥地とされるゴート人は,東ゲルマン人の一派で,3世紀に東西二つの集団に分かれた。バルカン半島や小アジアなどの,自らの領域内での東ゴート族の略奪・侵入行動に悩んだビザンティン皇帝ゼノンは,テオドリック大王の率いるこの部族に,オドアケル支配下のイタリアへの遠征を勧めた。テオドリック大王の軍隊は489年から5年の歳月をかけて,493年にイタリアの平定に成功した。…

【ビザンティン帝国】より

…ニカエア(325),コンスタンティノープル(381)の両公会議ではアリウス派問題,エフェソス公会議(431)ではネストリウス派問題,カルケドン公会議(451)では単性論派問題が,いずれも〈政治的オーソドクシー〉原則(皇帝教皇主義)で処理され,同様の政治的結果を随伴した。ことに単性論問題では,非妥協的なカルケドン派のローマと,単性論を奉ずるエジプト,シリア,アルメニアなどの東方諸属州との板ばさみになってゼノン(在位474‐475,476‐491)は統一令(482)を発布したが対立を収拾できず,ローマとの教会関係断絶は519年まで続いた。 ユスティニアヌス1世(在位527‐565)は,ゲルマン民族によって奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を行った(533‐555)が,他方540年以降ササン朝ペルシアと交戦状態に入らねばならなかった。…

【エレア学派】より

…前6世紀の後半,南イタリアのエレアElea市に興った哲学の一派。パルメニデスを祖とし,ゼノン,メリッソスと続いた。感覚される事実を虚妄とし,思惟される事実こそ真実と宣言したパルメニデスは,日常経験からは疑いえぬ明白な事実である生成,変化,運動,多を全面的に否定し,弟子たちもこの説を側面から擁護した。…

【同一性】より


[存在論と弁証法]
 アリストテレスが,矛盾律の定義にあたって,時間的条件とまた空間を含めた広い意味での場所(トポス)の条件を付け加えたことは,反面からいえば,いわば変化と差異ないし差別相によってみたされたわれわれの住む世界においては,こうした条件をぬきにした端的な同一性や同一律は成り立たないことを考慮してのことにほかならなかったとも考えられる。事実すでにソクラテス以前の古代ギリシア哲学者たちにおいて,パルメニデスは,〈あるものはあり,ないものはない〉という同一性の論理の立場を徹底して貫き,弟子のゼノンはこれを受けて,現実世界の生成変化や多様性の一切を論理的にありえぬものとみなす有名な一連の〈ゼノンのパラドックス〉を提示し,一方,ヘラクレイトスは,一切を流れてやまぬものとみなす見解を示していた。彼らにあって,同一性や生成変化ないし差異をどう考えるかということは,たんなる思考の規則や,あるいはわれわれの住む世界内の個々の事象についての探究である以前に,なによりもこの宇宙の根源そのものにかかわる存在論的問題の次元が考えられていたのである。…

【パラドックス】より

…このように,あることを立てるとちょうどその否定が結果するという形のパラドックスを二律背反という。運動に関するパラドックスの代表的なものにエレアのゼノンのパラドックスがある。これは運動が一般に不可能だとするもので,ゼノンはこれを四つの形で述べた。…

【弁証法】より

…弁証法とは,元来は対話術(ギリシア語でdialektikē technē)を表すことばであり,仮設的命題から出発しつつ,その仮設からの帰結にもとづいて,当の仮設的命題自身の当否を吟味する論理的手法を意味する。パラドックスで有名なエレアのゼノンがこの手法の元祖といわれる。ソクラテスの問答的対話術を承けたプラトンにおいては,公理的前提から出発する幾何学などの悟性知の論理と区別して,弁証法こそが哲学的な真知学の方法とされる。…

【ストア学派】より

…ギリシア・ローマ哲学史上,前3世紀から後2世紀にかけて強大な影響力をふるった一学派。その創始者はキプロスのゼノンである。彼はアカデメイアに学び,後にアゴラ(広場)に面した彩色柱廊(ストア・ポイキレStoa Poikilē)を本拠に学園を開いたのでこの名がある。…

※「ゼノン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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