古代ギリシアの哲学者。南イタリアのギリシア植民市エレアに生まれる。エレア学派の創設者パルメニデスの高弟で,師の主張を彼独自の論法によって擁護した。すなわち彼は,相手の主張を一度受け入れ,その上でその前提からいかなる矛盾した帰結が生ずるかを証明してみせることによって,間接的に相手の主張を論駁(ろんばく)した。この論法によって,アリストテレスは彼をディアレクティケ(弁証法,問答法)の発見者としている。ゼノンのこの論法は今日,〈多〉にたいする反駁二つ,〈動〉にたいする反駁四つが伝えられている。ゼノンの論法は,たとえば,〈真実在は一である〉とするパルメニデスの説にたいして〈存在は多である〉と主張する相手に,つぎのような仕方で論駁する例において典型的に示される。もし多であるなら,それらはどれほど多くても,あるだけ,ちょうどそれだけあって,それより多くも少なくもないから,その数は全体として一定“有限”である。他方しかし,それら多なる存在と存在との間には別の存在があるはずであり(もし何もないなら,それらは二つではなく一つのものだということになる),同じことはいくらでも先へ考えていくことができるから,その数は“無限”となる。したがって,もし存在が多であるなら,その数は有限にしてかつ無限であるという矛盾した帰結が生ずる。ゆえにこの前提は誤っている。この種の論法はこのほかにも,〈動〉にたいする論駁として,俊足のアキレウスは亀を追い越すことはできないとする〈アキレウス〉,飛ぶ矢は静止しているとする〈矢〉の論などがあるが,これらは〈ゼノンのパラドックス〉として知られている。厳密な意味での哲学的論議はパルメニデスの哲学的詩文において初めて現れたといえるが,ゼノンをもってギリシアの論証的散文の創設者とみることができよう。彼の論駁は,以後の哲学思想,とりわけピタゴラス学派の思想にたいして大きな影響を与えた。
執筆者:廣川 洋一
ローマ帝国皇帝,ビザンティン帝国皇帝。在位474-475,476-491年。426年生れともいわれる。前名タラシコディッサTarasikodissa。イサウリア族族長でレオ1世の要請でアスパルに代表されるゲルマン勢力に対抗するために宮廷に招かれる。皇女アリアドネと結婚しゼノンを名のる(466)。レオ1世の没後(474),7歳の息子がレオ2世として登位するが,彼が同年没したため正帝となる。475年先帝の義弟バシリスクスに帝位を奪われるが,翌年復帰し,同年西の正帝ロムルス・アウグストゥルスが没したあと,ローマ帝国唯一の皇帝となる。東方国境でのペルシア軍の侵入,トラキアへのフン族の南下もあったが,488年バルカンのゴート王テオドリックの攻撃目標をイタリアに転換させ,民族移動の嵐を逃れた。482年宗教的には異端とされるキリスト単性論者の政治的離反を防ぐため,おそらくアカキオスの示唆によってキリスト両性論との妥協を目指す〈ヘノティコンHenotikon(統一令)〉を出すが,ローマ教皇からも反対され,ローマ,ビザンティン両教会は〈アカキオスの分離〉(484-519)と呼ばれる断交状態に入った。
執筆者:和田 廣
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古代ギリシアのエレア学派の哲学者。最初ピタゴラス学派に属したとも、政治活動に従事したとも伝えられる。エレア学派の祖パルメニデスの弟子にして親しい友人であった。パルメニデスを弁護する作品を書いたが、プラトンはその『パルメニデス』のなかで、それが若気の至りであったとゼノンに告白させている。また『パイドロス』のなかで、ゼノンについて、同じものが似ており似ていない、一であり多である、静止しており運動している、と聞く者に思わせる技術の持ち主と紹介している。そこからアリストテレスは、ゼノンを、前提から矛盾した結論を引き出す弁証論の発見者とよんだと伝えられている。不変不動の一つなる「有るもの」を思索した師パルメニデスを弁護するために、弁証論を駆使した「ゼノンの逆説」を提出した。多くのものが存在することを否定する論とアリストテレスが報告している運動否定論(「多否定論」「二分法」「アキレスと亀(かめ)」「飛矢」「競技場」)である。その精緻(せいち)な論理によって無限、連続、空間、時間、一多の問題を再検討するよう強いた影響は大きかった。現代でもベルクソンをはじめ多くの人々がその「逆説」を分析解釈する努力を傾けている。しかしゼノンでは、論理は独走し、哲学は師の思索を弁護することにすり替わっていた。既述のようにプラトンはゼノンの若さを強調し、その論がパルメニデスと異なって「見えるもの」の位相に限局されていることを『パルメニデス』のなかで適確に指摘している。
[山本 巍 2015年1月20日]
古代ギリシアの哲学者。ストア学派の開祖。キプロス島キティオンの生まれ。フェニキア人の血筋と推定される。30歳ごろアテネに上り、さまざまの学派に属する師に学んだのち、独自の学派を開いて、アゴラの「彩色柱廊」(ヘー・ポイキレー・ストアー)とよばれる公共の会堂で哲学を説いた。その哲学は節欲と堅忍を教えるものであり、人が自分の力で生き、他の何人(なんぴと)にも、何事にも奪われない幸福を獲(え)る力を与える哲学であった。「自然と一致した生」がその目標である。伝統の諸哲学説を混じて説いたために折衷のそしりがあるが、その説の根本には、東方の要素があると信じられ、この独自性のゆえに生粋(きっすい)のギリシア人以外の弟子たちを多く集め、新しいヘレニズムの時代を代表する哲学となった。死去の模様は次のように伝えられている。外出して転んだとき、地を打っていった、「いま行くよ、どうして私を呼ぶのだ」と。そして自分で息を詰めて死んだという。著作は散逸して残らない。
[加藤信朗 2015年1月20日]
ビザンティン皇帝(在位474~491)。イサウリア貴族の出身で名をタラシコディッサTarasicodissaといった。軍人として活躍し、レオ1世の娘と結婚、改名した。レオ1世の死後帝位につき、一時反乱で退位させられたが、すぐ復位し、ゴート王テオドリックと交渉して、これにイタリアのオドアケルを討たせることに成功した。このころカトリックと異端のキリスト単性論者との間の論争が深刻化していたが、ゼノンは両者の調停を企図し、「一致令」(ヘノティコン)を発して単性説に譲歩した。しかし、ローマ教会はこれを認めず、起草者のコンスタンティノープル総主教アカキオスを非難し、ここに東西教会は484年から519年まで断絶関係に陥った(アカキオスの離教)。
[松本宣郎]
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…スカンジナビアを発祥地とされるゴート人は,東ゲルマン人の一派で,3世紀に東西二つの集団に分かれた。バルカン半島や小アジアなどの,自らの領域内での東ゴート族の略奪・侵入行動に悩んだビザンティン皇帝ゼノンは,テオドリック大王の率いるこの部族に,オドアケル支配下のイタリアへの遠征を勧めた。テオドリック大王の軍隊は489年から5年の歳月をかけて,493年にイタリアの平定に成功した。…
…ニカエア(325),コンスタンティノープル(381)の両公会議ではアリウス派問題,エフェソス公会議(431)ではネストリウス派問題,カルケドン公会議(451)では単性論派問題が,いずれも〈政治的オーソドクシー〉原則(皇帝教皇主義)で処理され,同様の政治的結果を随伴した。ことに単性論問題では,非妥協的なカルケドン派のローマと,単性論を奉ずるエジプト,シリア,アルメニアなどの東方諸属州との板ばさみになってゼノン(在位474‐475,476‐491)は統一令(482)を発布したが対立を収拾できず,ローマとの教会関係断絶は519年まで続いた。 ユスティニアヌス1世(在位527‐565)は,ゲルマン民族によって奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を行った(533‐555)が,他方540年以降ササン朝ペルシアと交戦状態に入らねばならなかった。…
…前6世紀の後半,南イタリアのエレアElea市に興った哲学の一派。パルメニデスを祖とし,ゼノン,メリッソスと続いた。感覚される事実を虚妄とし,思惟される事実こそ真実と宣言したパルメニデスは,日常経験からは疑いえぬ明白な事実である生成,変化,運動,多を全面的に否定し,弟子たちもこの説を側面から擁護した。…
…
[存在論と弁証法]
アリストテレスが,矛盾律の定義にあたって,時間的条件とまた空間を含めた広い意味での場所(トポス)の条件を付け加えたことは,反面からいえば,いわば変化と差異ないし差別相によってみたされたわれわれの住む世界においては,こうした条件をぬきにした端的な同一性や同一律は成り立たないことを考慮してのことにほかならなかったとも考えられる。事実すでにソクラテス以前の古代ギリシア哲学者たちにおいて,パルメニデスは,〈あるものはあり,ないものはない〉という同一性の論理の立場を徹底して貫き,弟子のゼノンはこれを受けて,現実世界の生成変化や多様性の一切を論理的にありえぬものとみなす有名な一連の〈ゼノンのパラドックス〉を提示し,一方,ヘラクレイトスは,一切を流れてやまぬものとみなす見解を示していた。彼らにあって,同一性や生成変化ないし差異をどう考えるかということは,たんなる思考の規則や,あるいはわれわれの住む世界内の個々の事象についての探究である以前に,なによりもこの宇宙の根源そのものにかかわる存在論的問題の次元が考えられていたのである。…
…このように,あることを立てるとちょうどその否定が結果するという形のパラドックスを二律背反という。運動に関するパラドックスの代表的なものにエレアのゼノンのパラドックスがある。これは運動が一般に不可能だとするもので,ゼノンはこれを四つの形で述べた。…
…弁証法とは,元来は対話術(ギリシア語でdialektikē technē)を表すことばであり,仮設的命題から出発しつつ,その仮設からの帰結にもとづいて,当の仮設的命題自身の当否を吟味する論理的手法を意味する。パラドックスで有名なエレアのゼノンがこの手法の元祖といわれる。ソクラテスの問答的対話術を承けたプラトンにおいては,公理的前提から出発する幾何学などの悟性知の論理と区別して,弁証法こそが哲学的な真知学の方法とされる。…
…ギリシア・ローマ哲学史上,前3世紀から後2世紀にかけて強大な影響力をふるった一学派。その創始者はキプロスのゼノンである。彼はアカデメイアに学び,後にアゴラ(広場)に面した彩色柱廊(ストア・ポイキレStoa Poikilē)を本拠に学園を開いたのでこの名がある。…
※「ゼノン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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