1838年から50年代にかけて,普通選挙を要求してイギリスで展開された労働者階級の大衆的政治運動。チャーチスト(憲章主義者)の名称は,〈人民憲章People's Charter〉を要求綱領としたことによる。
産業革命の終期に当たる1830年代初頭のイギリスでは,富裕な産業資本家層の対極に貧しい労働者階級が形成され,彼らは階級として結束し,労働組合や協同組合をつくり,普通選挙を要求して独自に運動を起こすまでに成長していた。しかし,普通選挙要求は32年の選挙法改正によって否定され,50万人を結集した全国労働組合大連合も,雇主,地方当局,警察の三者が一体となった抑圧にあい,34年に挫折した。さらに同年8月には,低賃金労働者への院外救助を廃した新救貧法が制定された。これらの経験と憤りをてこに,36-37年の不況と不作を背景として,労働者,民衆は漸次チャーチスト運動に結集していく。36年6月にW.ラベット,H.ヘザリントンら熟練労働者によりロンドン労働者協会が結成され,普通選挙を要求して請願運動を起こす。ほぼ同時にイングランド北部の工業地域では,トーリー急進派のR.オーストラー,J.R.スティーブンズ,F.オコーナーらを指導者とした労働者の大衆的な新救貧法反対運動が起こり,バーミンガムでも,銀行家T.アトウッドらが指導する熟練職工と雇主が一体となった政治同盟が再結成され,普通選挙要求をかかげた。ロンドン労働者協会が38年5月に公表した人民憲章が,これらの運動を結集する結節点となり,各地の代表が参集した同年8月のバーミンガム大集会において,議会への国民請願によってその実現を目ざす方針が決まり,チャーチスト運動が始まった。新救貧法反対運動の機関紙としてオコーナーが1837年11月に創刊していた週刊《ノーザン・スター》も,チャーチストの機関紙となった。人民憲章は,(1)成人男子の普通選挙,(2)議員の財産資格の撤廃,(3)議員の毎年改選,(4)平等選挙区,(5)議員への給与支給,(6)無記名投票,の6項目からなるが,チャーチストにとって人民憲章の実現は手段であり,それによって労働者,民衆の社会的幸福を実現することが目的であった。
運動は次の4段階をたどって展開した。第1段階(1836-40年初頭) 第1次国民請願運動を柱にしたチャーチズムの最初の高揚期で,《チャーター》など多数の機関紙が新たに創刊され,各地の集会と請願署名が進み,39年2~9月に代表者大会(コンベンション)を開くとともに,6月に128万人の署名を添えた請願書を議会に提出した。要求貫徹の同時集会も各地で行ったが,7月に235対46の大差で否決された。コンベンションでは,それに反発して8月12日からの〈神聖な月〉(1ヵ月間の国民休日またはストライキ)の決行を一度は決めたが,支持組織は弱体であり,J.B.オブライエンらの提案で決定はくつがえされ,多くの逮捕者を出して運動は敗北した。この過程で,要求実現には暴力も辞さずとするオコーナー,G.J.ハーニーら〈暴力派〉と,教育・啓蒙に主眼をおき合法的手段を説くラベットら〈理性派〉の論戦も目だった。また11月には追いつめられた一部のチャーチストがニューポートで蜂起したが,これも鎮圧された。
第2段階(1840-42) 組織の弱さが敗北を招いた点を反省して,40年7月に全国組織を目ざす全国憲章協会National Charter Associationがマンチェスターで結成され,中産階級は脱落して運動は労働者的性格をより鮮明にして復活した。協会員は42年初期には4万人を超え,5月その組織力を背景に331万人の署名をもつ第2次請願書を議会に提出したが,ホイッグ党T.B.マコーレーやJ.ラッセルの反対にあい,287対49で再び否決された。指導部は冒険戦術を避けたが,7~8月にランカシャー,チェシャーの木綿工業地域を中心に賃金カットに反発する広範なストライキが起こり,人民憲章獲得までスト続行という強硬な決議さえなされた。8月末にストライキは挫折し,多数の逮捕者を出して運動も鎮静した。一方,42年4月に生まれた中産階級主導の完全選挙権同盟は,チャーチストの切りくずしをねらったが,同年末には解体した。
第3段階(1843-48年秋) 前半は沈滞期で,不振となった《ノーザン・スター》も44年に発行所をリーズからロンドンに移したが,45年以後,土地計画運動,アイルランド解放運動,インターナショナリズムが刺激となって運動は復活した。二月革命の興奮も加わった48年4月には,197万人の署名をもつ(最高指導者オコーナーは560万人と豪語したが,点検の結果この数が確認された)第3次請願を行った。ロンドンの請願集会の日には民間人による特別警察15万人が警備に動員され,デモは不発に終わり,にせの署名が目だつ請願も撤回を余儀なくされた。5~6月には左派による蜂起計画もあったが,E.ジョーンズら指導者は逮捕され,9月以後鎮静した。
第4段階(1848年秋-58年) 運動を支えた社会的不安の時代は去り,少数派の運動となるが,ジョーンズら左派の力で階級闘争的・社会主義的性格がより濃厚となり,51年4月には新綱領を決めた。しかし大衆運動の復活はならず,《ノーザン・スター》も52年11月に廃刊となり,ジョーンズも58年にはチャーチズムを放棄し,運動は消滅した。運動が目的を達成しえなかった理由には,組織の弱体,指導理論や戦術の未成熟,有力指導者間の対立などチャーチスト側の未成熟があるが,中産階級を体制に取り込んだ支配階級の壁の厚さのほうがより決定的であった。しかし,労働者階級による最初の大衆的な政治闘争として史上で際だった位置を占めており,後の民主主義運動は,人民憲章の獲得を手段とみなす立場など,その指導理論と大衆運動の経験から多くの教訓と鼓舞を引き出している。
執筆者:古賀 秀男
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…1824‐25年の団結禁止法撤廃は自由主義経済思想の勝利だったが,27年には〈ソーシャリスト(社会主義者)〉という言葉がオーエン主義の機関紙に登場し,協同とコミュニティと組合が当時の労働運動を特徴づけた。第1次選挙法改正(1832)の階級的性格が露呈され,政治的民主主義の確立をめざすチャーチズム(チャーチスト運動)がこれにつづくが,ビクトリア中期の繁栄のなかで,飢餓と貧困に結びついたこの運動の政治的基盤が消え,自助の時代が到来する。51年結成の合同機械工組合は豊かな資金と統制力とをもつ〈新型〉組合で,この種の組合の〈労働貴族〉の圧力のもとに67年の第2次選挙法改正が実現する。…
…同協会の指導者W.ラベットが起草し,急進派議員J.ローバックと元議員F.プレースがそれに補正を加えて法案形式で完成,同協会員と急進派議員各6名からなる合同委員会の議を経て5月8日発表された。この憲章は,8月6日のバーミンガム大集会以後,大衆運動の要求綱領となり,その名にちなんだチャーチスト(憲章主義者)運動が始まった。その内容は次の6項目からなる。…
… 1867年の改正は,都市選挙区において都市の上層労働者に選挙権を拡大したことをその骨子とする。都市の工業労働者は,すでに1832年の選挙法改正に際しても,成年男子普通選挙権の要求を掲げて運動を展開したが成功せず,またその後30年代末から50年代にかけてチャーチスト運動を展開し,成年男子普通選挙権,秘密投票制などを要求して闘ったが,この運動も実らなかった。だが,50,60年代の著しい経済発展のなかで労働者の地位は向上し,彼らへの選挙権拡大がしだいに時代の要請となった。…
…政治的にはフランス革命の理念の展開を抑えるウィーン体制が存在していたが,革命の理念はそれを超えてさまざまな展開を示し体制をその基盤から揺り動かした。スペインの〈リエゴの進軍〉(1820),ギリシア解放戦争(1821),フランス七月革命(1830),ポーランドの蜂起(1830),リヨン労働者の蜂起(1830,34),イギリスのチャーチスト運動の高揚(1839,42,48),シュレジエン織工一揆(1844)と続く運動はしだいにフランス革命の理念さえも超えた意味内容を持ったものになっていった。すなわち産業革命にともなう工業の発展は新たな階級としてのプロレタリアートを創出し,革命運動に新たな対立構造を付け加え,それとともに革命の社会的側面が強調されることとなった。…
…ラッダイト運動はその好例であり,R.オーエンに指導された全国労働組合大連合(1834)も単に労働時間の短縮だけでなく,新しい秩序を目ざす運動であった。チャーチスト運動は労働者階級による最初の大規模な政治的運動であった。議会への請願が否決され,敗北に終わったが,北部工業諸都市でのゼネストは騒擾(そうじよう)状態になり,軍隊の派遣により鎮圧された。…
※「チャーチスト運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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