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テルトゥリアヌス Tertullianus, Quintus Septimius Florens

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

テルトゥリアヌス
Tertullianus, Quintus Septimius Florens

[生]155頃.カルタゴ
[没]220頃.カルタゴ
キリスト教著作家,法律家。最初プラトンやストア哲学を学び,のちキリスト教に改宗した。ユスチノスの影響により護教家として多数の著作を著わし,異教と異教の学問,とくにギリシア哲学,グノーシス派を攻撃した。キリスト教思想に対する彼の大きな貢献の一つは,ラテン語による神学上の用語および哲学上の用語の創作であり,ペルソナという概念は彼によって初めて専門的に用いられた。「不合理ゆえにわれ信ず (クレド・クイア・アブスルドゥム ) 」という言葉は有名。晩年にモンタヌス派の運動に参加し教会の信仰より離れた。著作は『護教書』 Apologeticum (197頃) ,『ヘルモゲネスを駁す』 Adversus Hermogenem (200/6) ,『霊魂の証明について』 De testimonio animae (197/200) ,『マルキオンを駁す』 Adversus Marcionem (207/8) ほか。

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デジタル大辞泉の解説

テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus)

[160ころ~222ころ]ローマ時代のキリスト教神学者。カルタゴ生まれ。「三位一体」をはじめ、多くのラテン的キリスト教用語を定めた。著「キリストの肉について」など多数。

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世界大百科事典 第2版の解説

テルトゥリアヌス【Quintus Septimius Florens Tertullianus】

160ころ‐220以後
西方教会の最初の教父,護教家。北アフリカのカルタゴに生まれ,弁論術と法律学を学んだのち,ローマに渡って法律家として働いていたが,195年ころ回心し,帰国して教会のために一生を捧げた。ただし司祭であったか教師であったか,明らかでない。残存する著作の多くはマルキオン,プラクセアスPraxeas,モンタヌスらの異端との論争で(一時モンタヌスの霊的運動に参加したことがある),反グノーシス教父のひとりに数えられる。

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大辞林 第三版の解説

テルトゥリアヌス【Quintus Septimius Florens Tertullianus】

160?~220?) カルタゴの教父・神学者。キリスト教教理の形成と北アフリカのキリスト教に重大な影響を与えた。信仰的純化を図りモンタヌス派に加わった。哲学に批判的で「不合理なるが故にわれ信ず」と述べたといわれるが、これは後代の要約。多くの著作が残存。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

テルトゥリアヌス
てるとぅりあぬす
Quintus Septimius Florens Tertullianus
(160ころ―222以後)

2~3世紀のキリスト教護教家。北アフリカのカルタゴで異教徒のローマ軍百人隊長の家庭に生まれる。若き日に相当高度の学問的な訓練を受け、とくに法律学、修辞学に造詣(ぞうけい)が深かった。ローマで弁護士として名声を博したが、30歳のころ、殉教者たちの確固とした態度に打たれてか、キリスト者となって故郷に帰り、教会のなかで活発な文筆活動に没頭した。しかし47歳のころ教会から離れ、妥協を極度に嫌う峻厳(しゅんげん)な性格からモンターヌス派に共感を示したが、やがて自分の党派テルトゥリアヌス主義の指導者になった。少なくとも222年以後高齢で没した。彼は最初のラテン教父、護教家として、『キリストの肉について』など多くの著作を通して活躍した。燃えるような信仰心、透徹せる理解力、きわめて魅力のある弁舌は、彼の護教家としての活動に精彩を添え、三位(さんみ)一体論や原罪論に根拠を与えた。また「キリストの復活は不合理であるがゆえに信じられる」など、逆説的な命題に知解を求める心情を託した。[中沢宣夫]

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世界大百科事典内のテルトゥリアヌスの言及

【キリスト教】より

…1世紀の終りにローマのクレメンスは,監督・長老職を教会における権威として立てたが,これはパウロ的伝統の延長とみなされる。また3世紀のテルトゥリアヌスは,赦罪に関する倫理的法の体系を立てたほか,ローマにおけるペテロ伝承に従ってローマ教皇の首位権を主張し,のちにカルタゴの司教キプリアヌスがこれを固定化した。教皇カリストゥス1世Callistus I(在位217‐222)がローマとビザンティンの政治的対立を和らげようとしたのに対し,キプリアヌスはローマ教会の優位にもとづく教会の一致こそ第一のものだとして,普遍的教会(エクレシア・カトリケekklēsia katholikē)の理念を示した。…

【キリスト教文学】より

…キリスト教文学が最初の1~2世紀間もっぱらギリシア語によっていたのは,このような事情にもよるものである。しかしラテン語使用の端を開いた雄弁家テルトゥリアヌスより以前に,ラテン語訳聖書《ウルガタ》の原型,いわゆる《イタラ》は始められていたらしい。3世紀に激成された帝国の不安は4世紀にはいちじるしく進行して地方の分立が目だち,教義上の文献もラテン語によるのが通例となった。…

【神学】より

…東方教会(そのうち最も重要なのは東方正教会)の神学の基礎と伝統はここにある。ラテン語による神学は西方神学(またはラテン神学)と呼ばれ,2世紀末のテルトゥリアヌスにはじまり,5世紀初のアウグスティヌスにおいて大成を見たものである。中世の西方神学はこの伝統に立ち,ローマ・カトリック教会の神学を形成した。…

【罪】より

…しかし同書8章によれば,霊による救いのゆえに罪は死んだといわれ,そこで罪は象徴化されて〈むさぼり〉と規定されている。 2世紀以後の教会では,罪の赦しをサクラメントに結びつけて教会内に固定する傾向が強く,赦罪の方法と順序を法的に規定したテルトゥリアヌスの考えが長く尾を引いた(贖宥)。神学においては,罪の赦しは無償か有償か,全面的か部分的か,代理的か自力的かが論じられた。…

【ラテン文学】より

…ミヌキウス・フェリクスMinucius Felixの対話編《オクタウィウス》は,現存する最古のラテン語によるキリスト教の文献であるが,すでに古典の教養との妥協が図られている。キリスト教未公認時代最大のキリスト教ラテン作家はテルトゥリアヌスであったが,後世に与えた影響はキプリアヌスの方が大きかった。313年のキリスト教公認を境に,4世紀から5世紀にかけて,《マタイによる福音書》を叙事詩にしたユウェンクスJuvencus,雄弁家ラクタンティウス,賛美歌作者で人文主義に反対した神秘主義者アンブロシウス,古代最大のキリスト教ラテン詩人プルデンティウスとその後継者ノラのパウリヌスなどが活躍したが,古代最大の2人のキリスト教作家も続いて現れた。…

※「テルトゥリアヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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