ドイツの北東部、面積にしてほぼ3割の地域に、1949年から1990年まで存在した共和国。第二次世界大戦後のドイツのソ連占領地区をもとに1949年10月7日に樹立された。正式名称はドイツ民主共和国Deutsche Demokratische Republik、略称DDR、英語名はGerman Democratic Republic、略称GDR。東ドイツともよばれた。
首都は東ベルリンに置かれ、国土はベルリンのほかに、14の県(ベツィルク)に分かれていた。面積は10万8300平方キロメートル、人口は建国当時約1900万人であったが、その後、西ドイツへの人口流出が激しく、1960年末には1719万人に減っていた。この人口流出を阻止するために、1961年8月にベルリンの「壁」が構築されたのであり、それにより人口流出はいちおう治まったが、人口構成が高齢化していたため、その後も人口は増えず、1988年6月末の人口は1667万人であった。
ソ連占領地区をもとにして成立したため、ソ連との友好・協力関係が重視され、ワルシャワ条約機構、COMECON(コメコン)(経済相互援助会議)に加盟し、社会主義圏に属していた。政治体制としては、一院制の議会をもち、その人民議会の権力機関である国家評議会の議長が事実上の元首となっていた。国家評議会の構成員の多くはドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会書記局に属し、SEDの指導のもと、社会主義路線が進められていた。
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の「一国民二国家」の方針に対し、「二国民二国家」を主張、1973年には西ドイツとともに国連への同時加盟を果たし、二国家のドイツという状況が固定されるように思われた。1980年代後半に入ってから、世界全般に東西緊張緩和の流れが生じ、とりわけ東欧において民主化・自由化の波が高まった。さらに1989年に入ると、1976年以来SED議長を努めていたホーネッカーが、国内民主化の要求に対応できず、解任された。同年11月には民主化要求の大集会が開かれ、政府は出国の自由化、国境の開放を決定、ベルリンの壁が消滅した。1990年3月に初の自由選挙が行われ、ドイツ統一派が勝利を収め、ついで1990年8月31日に統一条約に調印、同年10月3日、両ドイツが統一され、ドイツ民主共和国はその幕を閉じた。
旧東ドイツの地域は、工業発展の遅れた地域であったが、建国後、積極的な工業化政策が進められ、東ヨーロッパの旧社会主義諸国のうちでは工業のもっとも進んだ国であった。ただし、原材料・エネルギー資源はソ連に大きく依存していた。農業ではジャガイモの生産量が世界上位に位置し、経営形態としては、国営および生産共同組合がほとんどを占めていた。
以下は、社会主義国家東ドイツが存在した歴史的意義から、おもにその政治、経済、社会を中心に、冷戦時代の1980年代の状況について述べることにする。
[浮田典良]
ドイツ民主共和国憲法は、1949年10月7日に発効した。単一のドイツ共和国を目ざし、政治体制としては議会制民主主義と連邦制、人民主権、基本的人権の保障をうたうこの憲法は、その後の発展のなかで部分的に改変され、1968年には新憲法にとってかわられた。1968年憲法は、マルクス・レーニン主義政党であるドイツ社会主義統一党(以下SEDと略称)、すなわち「労働者階級の前衛党」の指導的役割を明確に規定し、その指導のもとに都市と農村の勤労者が政治権力を行使する国家がドイツ民主共和国(以下DDRと略称)であるとした。しかしこの憲法は、DDRは「ドイツ国民の社会主義国家」であるとうたって、なおドイツ国民の一体性を認め、将来ドイツが再統一される可能性にも言及していた。ところが1970年代になって、DDRが広く西側世界からも国家として承認されるようになると(後述の「外交」の項を参照)、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)政府の唱える「一国民二国家」説、すなわちドイツ国民としては一体であるが、そのなかに二つの国家が並存しているとの見方に対抗して、DDRの政府は、いまや国民としても「資本主義的国民」と「社会主義的国民」に分裂したのだとの「二国民二国家」説を主張するに至った。この立場を反映させて、1974年、憲法が改正され、「ドイツ国民の……」という表現が削除されるとともに、ドイツ再統一の理念も完全に否定されてしまった。これは、建国以来20年以上も国家として西側世界から無視されてきたDDRが、1973年ドイツ連邦共和国とともに国連への同時加盟を果たし、ひとり立ちしたことの自信の表れであった。しかし、1989年の民主化の急進展と、ベルリンの壁撤去以後、ドイツ再統一問題が急浮上してくる。
[下村由一]
国家の最高の権力機関は人民議会(議員総数500名)で、5年ごとに改選される。議会は法律の制定だけではなくその実施にも責任をもつ。すなわち立法権、行政権、司法権の分立という原則は否定され、むしろ三権の結合が権力の「民主集中制」の実現として重視される。したがって人民議会は権力行使の機関である国家評議会、閣僚評議会、国防評議会、最高裁判所、検察庁を統轄する。国家評議会は、DDRの対外的代表、条約の批准、下級の人民代表機関の指導、国防上の基本方針の決定と実施などにあたり、その議長(1976年10月~1989年10月までエーリヒ・ホーネッカー、1989年12月以降はマンフレート・ゲアラッハが代行)はDDRの事実上の元首である。国家評議会の構成員の多くは同時にSED中央委員会書記局に属し、国家とSEDの指導部は人的にも密接に結合している。閣僚評議会は各省庁を統轄する機関で、事実上、政府に相当する。45名の構成員の多くはSED党員で、毎週1回協議する。その議長は首相であり、数名の議長代理、二十数名の閣僚とともに人民議会に対して責任を負う。なお、1990年3月に行われた民主化に基づく人民議会の自由選挙では、キリスト教民主同盟を中心とする保守系のドイツ連合が大勝した。
地方行政においても、1952年に県(ベツィルク)、郡(クライス)という行政単位が導入され、連邦制、地方自治の原則は否定され、中央集権制がとられていた。
[下村由一]
指導政党であるドイツ社会主義統一党(SED)は党員数約220万を数えた。党の最高機関の党大会は5年ごとに開かれ、これに次ぐ党の指導機関である中央委員会は、基本方針を討議決定する政治局と、その実施を指導する書記局をもつ。1971年党第一書記(後に書記長と改称)となったホーネッカーは書記長として政治局を主宰し書記局を統轄した(1989年10月解任)。ほかにキリスト教民主同盟(約12万)、自由民主党(約8万)、民主農民党(約10万)、国民民主党(約9万)の4政党があった。いずれの政党もそれぞれ人民議会に代表を送り、国家評議会、閣僚評議会にも加わっているが、「民主ドイツ国民戦線」によるいわゆるブロック政策の枠内で、SEDの指導権を承認しつつ、国民各層(キリスト教徒、都市中間層、農民、もとナチス支持者、国防軍軍人)に対し働きかける役割を分担していた。選挙では国民戦線の統一候補者リストに対する賛否が問われた。
これら政党のほかに、自由ドイツ労働総同盟(組織人員約900万)、自由ドイツ青年団(約230万)、ドイツ民主婦人同盟(約140万)、文化同盟(約24万)のいわゆる大衆団体も民主ドイツ国民戦線の構成団体として人民議会に代表を送り、それぞれ独自の議員団をもっていた。1989年以降の民主化に対応して、SEDは指導的役割を党規約から削除し、1990年党名を民主社会党(PDS)と変更した。
[下村由一]
裁判は、原則として郡(クライス)ごとの裁判所での審理を第一審とし、県(ベツィルク)裁判所が上級裁判所となる。最高裁判所は、軍裁判所を含むすべての裁判所を統轄するが、合憲性、適法性の最終的判断は国家評議会にゆだねられる。判事、陪審は各級議会または市民により選出される。このほか、軽微な違法行為、雇用関係における争いなどは、企業内の紛争委員会または市町村の仲裁委員会において、市民の直接参加により審理された。
[下村由一]
プロレタリア国際主義を標榜(ひょうぼう)して、ソ連との友好・協力を外交政策の「礎石」とする。COMECON(コメコン)とワルシャワ条約機構を通じて「社会主義国家共同体」に統合されていた。軍事面、工業原料面でソ連に依存するところが大であり、ドイツ連邦共和国との対抗ということもあって、独自の外交政策を展開することは困難であるが、ボン政府との関係、中部ヨーロッパにおける核軍縮の問題などでは、ときにモスクワを牽制(けんせい)する動きもみられた。第三世界に対しては民族解放運動との連帯、政治的・経済的独立への支援という立場を強調した。1970年代初頭までは国交樹立を目ざしての積極的な外交を第三世界、非同盟諸国に対して展開したが、その後は全体として独自の動きはあまり活発ではなかった。むしろ外交の力点は日本を含む資本主義諸国との関係改善に向けられていた。その基本方針は、第二次世界大戦後に生じたヨーロッパの現状、とりわけドイツ分割の固定化を前提とした平和共存の維持である。その意味で、1972年両ドイツ国家間における代表交換を軸とした「東西両ドイツ基本条約」、およびヨーロッパの現在の国境保全をうたった1975年ヨーロッパ安全保障協力会議(ヘルシンキ会議)の最終文書が、対西側世界のDDR外交の基礎とみなされている。戦後長らく紛争の種であった西ベルリンをめぐる対立も、1972年調印のベルリン四大国協定でいちおうの決着をみた。ドイツ連邦共和国の強硬な反対で、ボンとは大使の交換という形をとるに至っていなかったが、DDRは連邦共和国をあくまで外国とみなそうとしていた。日本とは1972年(昭和47)に国交が樹立されて以来、とくに文化、経済の面での交流があった。
[下村由一]
1962年に徴兵制が導入され、通例18歳から19歳の青年が国民人民軍で18か月間兵役に服した。国民人民軍は、陸海空3軍のほか国境警備部隊4万8000をあわせて総兵力約21万5000で、国防省が統轄するが、非常時には、内務省の統轄する人民警察機動部隊(兵員輸送車、重火器をもつ常時駐屯部隊で兵力1万8000)とSED中央委員会に直属する労働者戦闘班(35万のSED党員により編成される)を含むすべての武装部隊が、国防評議会の指揮下に置かれた。また国民人民軍はワルシャワ条約機構統合司令部に下属しており、統合司令部はモスクワにあった。
SED中央委員会政治局には国防委員会があり、その指導のもとに国民人民軍内の政治委員とSED党員を通じて兵士・将校の政治教育、啓蒙(けいもう)宣伝活動が行われ、これにより労働者・農民権力と社会主義に対する忠誠の強化が絶えず図られていた。
[下村由一]
第二次世界大戦前は旧ドイツの経済構造のなかで一体的に機能していた東ドイツ経済は、1945年の敗戦に至って分割され、独自の経済運営を余儀なくされた。しかも主戦場となった東ドイツは西ドイツ以上に荒廃が激しく、ソ連の占領治下にきわめて疲弊した経済環境のなかで再出発をしなければならなかった。交通網も、旧ドイツの東西を結ぶ動脈として建設されていたものであったため、終戦当時、南北方向の組合せを必要とするに至って、既存の交通網はほとんど有用でなかった。経済再建に要する原料資源は、従来主として農業地域であったために乏しく劣悪で、被害を受けた既存設備の解体撤去の過酷さに加え、戦時賠償による経済的負担の過重さのため、東ドイツの工業経済はその必要な前提条件をほとんど欠いていた。
1948年2月「ドイツ経済委員会」DWKが創設された。これはソ連占領地帯全域の経済計画化の基礎的発展を図るための調整機関で、半か年計画、二か年計画を立案し、「社会主義的計画経済」に対する基礎を据えるものであった。1949年ドイツ民主共和国の成立を画期として、中央集権的な経済建設を計画化するシステムを通して、「共和国の生産諸力の急速な発展の保証」(破壊された産業諸能力の復旧と潜在工業力の再興)が推進された。以後、第一次五か年計画(1951~1955)、第二次五か年計画(1956~1960)、第一次七か年計画(1959~1965)、第三次五か年計画(1966~1970)……を経て経済再建が進められた。その間、1961年に「ベルリンの壁」を構築して労働力の西側流出を防ぎ、1963年から企業の自主性を尊重した経済改革を実施、さらに1972年の東西両ドイツ基本条約で西ドイツとの関係が正常化されたことにより西ドイツの経済的支援が得られ、東欧一の豊かな社会を謳歌(おうか)する経済再建に成功した。建国30年の1979年には社会主義経済の歴史的経験の充実と、人民民主主義的経済・産業の「注目すべき成果」を誇示するに至り、1981~1985年には第六次五か年計画、1986年以降第七次五か年計画が進められた。
[北村次一]
褐炭は推定埋蔵量約250億トン、もっとも重要な鉱物資源で、ライプツィヒ、ハレ、コットブス地方において露天掘りされていた(1984年、産出量2億9630万トン、世界総生産の3分の1、第1位)。統一後の現在(2000年)、ドイツの石炭埋蔵量は約670億トンと世界でも上位であるが、生産量の大半を低品位の褐炭が占める。カリ塩はウェラ川流域、南ハルツ、ザーレ川およびウンシュトルト川流域、北ハルツの4鉱区で採掘される埋蔵資源の一つで、西ドイツのそれとともにドイツ化学の基盤をなし、世界的意義をもっていた。
しかし高品位の石炭(カール・マルクス・シュタット県のツウィッカウとエルスニッツで採炭)、鉄鉱、非鉄金属は埋蔵量が少なく、西ドイツの資源政策・エネルギー問題に比して深刻な課題を抱えていた。たとえば採炭量は8万4000トン(1978)、4万8000トン(1979)で、西ドイツの1000分の1以下にすぎない。全エネルギー需要量の3分の2を褐炭に依存せざるをえず、エネルギー節約と効率的利用は全経済分野での緊要な課題であった。その他の埋蔵資源として、石灰石、チョーク、石膏(せっこう)、粘土、陶土、スレート、石英、蛍石(ほたるいし)、重晶石があった。
ヨーロッパ諸国のなかで東ドイツは水資源の利用度が高位にあり、潜在的水量は年間185億立方メートル、利用量70億立方メートル、利用率37.8%であった。安定的水量を90億立方メートル、実効利用量を77億立方メートルとして算定すれば86%となる。約13億立方メートルのダムにより、11.6億立方メートルが水利・洪水保全に役だっていた。
[北村次一]
東ドイツの農業制度の主要目標は社会主義的生産関係の必然的な創成である。それは経済と社会を中央集権的に計画化し、運営と管理の秩序ある組織化を行うものであるが、政治的指導によって、農業経営における意思決定の範囲を限定し、経営的配置や経営間市場取引を制約することになる。したがって農業経営は、単に経済的単位としてのみならず、社会主義的計画に機能する社会的単位として理解される。したがって私的所有形態の農業経営はほとんどみられず、少数の生産物に特化(専門化)された生産単位、つまり「協同」を制度化した農業生産協同組合(LPG Landwirtschaftliche Produktionsgenossenschaft)が、農業の主要な担い手であった。ほかに人民所有地があるが、その割合は少なく、LPGの整理・統合により大規模化、機械化が図られ、近時、さらに栽培の合理化と、食品工業部門との提携を目標とした広域的な協同結合が志向されていた。
東ドイツの農業用地(耕地、牧草地)は国土面積の58%に相当し、西ドイツよりも高い比率にあった。ジャガイモ生産は世界の上位にあり、1ヘクタール当りの収量からいえばアメリカに次ぐ。穀物栽培は大麦、小麦、ライ麦、エンバクであるが、生産量はいずれも西ドイツより少なかった。ほかにテンサイ、採油植物、飼料作物を産するが、トウモロコシの場合、作付面積・収穫量ともに西ドイツの1%以下であった。
牧畜では、ウシ・ブタを中心にそれぞれ西ドイツの3分の1ないし2分の1程度の飼育を行っていた。異なるのはヒツジがはるかに多く、西ドイツにはないヤギが2万2500頭おり、ウマがきわめて少数なことである。ミツバチ41万群も特記される。東ドイツの農産物自給度は1968~1970年に86ないし83%であったのが、1978年には76%、1979年には70%と低下している。1975年以来、不作が継続したためであるが、1980年は著しく豊作で、農業生産2.5%増という成果を得ている。以後、1984、1985年とも穀物生産の記録を更新している。
水産活動は、河川湖沼域では漁労手段の協同管理と共同利用のため、生産協同組合就労漁業者(PWF)によって行われた。しかし海域・沿岸漁業では協同組合の制度はなかった。淡水漁獲にはコイ、ウナギ、パイク、サケ・マス、ペルカ(スズキ)などがあった。バルト海漁業では30万トンの水揚げがあり、西ドイツとほぼ同量で、低減しつつあった。
[北村次一]
東ドイツでもっとも重要な褐炭地帯であるニーダーラウジッツでは、年間1億6000万トンを採掘していた。この数字を20世紀初頭の同地帯の年産量790万トンと比べると、約20倍という飛躍的な上昇を示している。コットブスのシュワルツェ・ポンプ褐炭コンビナートおよびラウフハマーの褐炭コークス製造工場は、製造設備の規模と成果によって世界的な話題を供しており、同国鉱山業の主柱となっていた。
工業における1日当りの原料・エネルギー消費をみると、以下のとおりである。すなわち、褐炭70万トン、圧延鋼2万1000トン、セメント3万1000トン、挽(ひ)き材1万立方メートル、石油5万2000トン、天然ガス3200万立方メートル、これに電力エネルギー2億6500万キロワット時、モーター油600万リットル(1978)。これが「人民経済」の1日の生産活動の素顔である。これらの原料資源の消費に基づき、多くのコンビナート経営においてそれぞれ独自の合理化手段を創出しながら、その生産性を向上させていた。コンビナートは、「物質的生産の基礎的な経済単位」として形成され、1970年に36か所(工業生産の33%)、1975年に45か所(43%)、1980年に133か所(99%)に発展し、政府の中央管理による工業の推進に大きな役割を果たしていた。また工業企業は社会主義化の過程で人民所有企業(VEB Volkseigener Betrieb)に切り換えられたが、その指導的機関である人民所有企業連合(VVB)がコンビナートとともに生産の効率化を推進していた。
東ドイツの工業地域はベルリンと国土の南部に中心があり、ベルリン地域、カール・マルクス・シュタット(現ケムニッツ)‐ツウィッカウ地域、ドレスデン地域、ハレ‐ライプツィヒ地域が4大工業地帯となっていた。製鉄は第二次世界大戦前からザーレ川上流のウンターウェレンボルンで行われてきたが、戦後これに加えてオーデル河畔のアイゼンヒュッテンシュタットとザーレ河畔のカルベに製鉄所が建設された。原料の供給をソ連、ポーランド、チェコスロバキアなどに仰いでおり、粗鋼の生産量は757万3000トン(西ドイツの19%、1984)で、さほど多くなかった。機械工業は化学工業用機械設備、航空技術設備、冷凍技術設備その他の工作用重機械などの生産に特色があり、その最大の中心地はライプツィヒである。カメラ、望遠鏡、時計などの光学・精密機械工業も伝統があり、有名なイエナのカール・ツァイス社は1846年の創業であるが、戦後VEBの代表的企業となっていた。ほかにベルリン、ドレスデンの電気機械、アイゼナハやツウィッカウの自動車、ロストックの造船などが知られた。
薬品、肥料、プラスチックなどの化学工業も盛んで、シュウェットには石油化学コンビナートがあり、ロイナの化学コンビナートは世界屈指の規模である。伝統産業ではマイセンの陶器が有名である。近年は先端技術の開発・導入にも積極的で、半導体、マイクロチップ、産業用ロボットなどの生産量は増加していた。これにより省エネルギーと合理化、生産の集約化を図り、資源・労働力不足にも対処しようとしていた。
[北村次一]
1960年代には比較的均衡のとれていた輸出入が、1970年代に入って輸入超過を続け、輸出拡大が大きな目標となった。この傾向は1980年代に入って改善をみせ、1984年には輸入229億4000万ドル、輸出248億3600万ドルで18億9600万ドルの黒字となった。ソ連・東欧圏諸国をメンバーとするCOMECON(コメコン)の加盟国で、COMECON諸国と密接な経済関係を保っていた。したがって輸出入とも相手国はCOMECON加盟諸国が主で、輸出入の約3分の2を占める。そのうちソ連が輸出入総額の約38%(1983)で、最大の相手国である。資本主義国では西ドイツが最大である(8%)。輸入商品は原料品では原油、既製品では繊維類が重要であり、輸出商品は農業用機械、トラクター、フライス盤が注目される。「ドイツ民主共和国マルク」は純粋の国内通貨で、外国為替(かわせ)として国際取引においては取り扱われていなかった。国立の中央銀行によって商事・非商事取引に伴う米ドルとの交換比率が決められており、また西ドイツ・マルクとは原則として等価であった。国庫のもっとも重要な源泉は消費税、および「人民所有経済」において徴収される生産・勤務税、取引税などである。
[北村次一]
鉄道の延長は1万4226キロメートル、うち電化率は15%(1983)と西ドイツより低いが、電化が推進されていた。内陸水路は2302キロメートル(1980)で、水路網が発達し、その貨物輸送量も多い。国道は延長1万3092キロメートルで、うちアウトバーン(高速道路)が12%である。航空路は国営のインターフルークが就航しており、ヨーロッパ各国はもちろん、中東・アジアなどにも、あわせて60路線が運行されていた。石油パイプラインは西ドイツとほぼ同長の施設をもっていたが、輸送原油量は2分の1、有効トンキロは3分の1にすぎない。
[北村次一]
東ドイツ国土開発の問題性は、1980年代の経済戦略として、COMECON体制の国際的分業のなかで、独自の技術的特質に基づく社会的ファンド(基金)を有効に稼動させることにあった。自然資源(とくに水利経済)の再生産、新しい「協同」関係の拡充、社会的生産と社会的消費のバランス、工業生産のオートメーション化のような工業化政策の推進に伴う問題などが、環境保全のうえでの課題となっていた。
[北村次一]
ドイツ民主共和国憲法は、労働を市民の権利であり同時に義務であるとも規定する。「労働過程への自発的・意識的参加」を通じて人民の物質的・文化的生産水準の向上を図るというだけでなく、究極的には社会主義的人格と社会主義的生活の全面的な発展を進める原動力となるのが労働であるというのが、基本的な立場である。生産手段が人民の所有である以上、労働拒否は勤労者の自殺行為とみなされ、ストライキ権は認められていない。産業別原則による12の個別単産の統一組織である自由ドイツ労働組合同盟がただ一つの労働組合である。労働組合は「ともに働き、ともに計画し、ともに統治せよ!」との原則を実現するための最重要の組織として、労働者、勤労者の労働・生活条件の向上を図るだけでなく、計画作成とその実施、労働生産性の高度化、科学・技術革新の推進などについても責任を負っていた。
[下村由一]
労働組合によるものと国家によるものとがあるが内容は同じで、無料の医療、疾病手当、妊娠・出産手当、母性保護、障害および老齢年金、医薬品の無料投与、無料の療養など幅広く手厚い給付が行われていた。年金の額などではドイツ連邦共和国に比べてなお劣る面もあるが、1970年代初頭以来この点でも改善が進みつつあった。失業保険は、完全雇用が実現しており、また合理化その他による余剰人員は賃金を保障されたうえで再雇用のための職業訓練が行われるので、実際上必要がない。
[下村由一]
1970年代初頭以来、ドイツ民主共和国政府は住宅問題の解決をその社会政策の重点課題として掲げ、これに精力的に取り組んでいた。計画では1976年から1990年までの間に280万ないし300万戸の住宅を新築または改築し、これにより住宅問題を解決しようというのである。多少の立ち後れはあるものの、いちおう順調に建設は進み、1981年には人口1000人当りの住宅戸数は、1961年の327戸から393戸に増加し、1人当りの居住面積も17平方メートルから23平方メートルに増えた。ドイツ連邦共和国に比べれば、なお居住条件は悪いが、他方、家賃は非常に安く、1981年における月収2000ドイツ・マルクの家計の1平方メートル当りの家賃は、ベルリン(東)で1マルクから1.25マルク、他の地域では0.8ないし0.9マルクであった。
[下村由一]
1965年以降6歳から16歳までの義務教育が行われていた。これを担当する「10年級・一般教養・多面技術高等学校」は、初級(4年)、中級(3年)、上級(3年)に分かれる。初級ではドイツ語と数学に大半の授業時間があてられ、中級以降ではロシア語と理工系の教科に重点が置かれていた。全面的な人間形成が目標とされ、その実現の手段として、マルクスの主張に基づき、生産的労働と教育との密接な結合がうたわれた。とくに上級の学年では職業選択と結び付いた技術教育が大きな比重を占めていた。10学年修了後、進む道はほぼ三つに分かれる。(1)2年の職業訓練を受け就職、(2)3~4年の専門学校へ進学、(3)2年の大学進学課程を経て大学へ進学、である。専門学校は理工系、医学、教育を中心に233校あり、また大学は総合大学6校を含め計53校あった(1986)。大学生は、約10万の学生のほか、夜間・通信教育課程に約3万を数えた。大学への進学率は高くない。
初級から大学を通じて教育費はいっさい無料というように、教育の機会均等の原則が重視されると同時に、他方また早期英才教育も徹底して行われていた。
[下村由一]
男女同権は社会主義の基本理念の一つであり、またこの国では労働力不足という事情も手伝って、女性の職場への進出は著しい。雇用者数の49%以上が女性であり、就業可能年齢の女性の83%弱が働いていた。しかも工業、商業、運輸・サービス業などあらゆる部門で指導的な地位にますます多くの女性がみられた。女性の経済的な自立がこのように進むと、それはまた離婚の増加の一つの重要な原因にもなってくるようである。離婚率は年々増え続け、1980年代には人口1万に対して30弱にまで達し、ドイツ連邦共和国のそれをはるかに上回っていた。とくに若年層の離婚率の高さと、また同時に再婚率の高さが特徴的である。
この結果、家庭を「社会的要請と基本的な個人的利害の調和」を図るための「基本共同体」として重視する政府と党の努力とは裏腹に、家庭の崩壊と子供へのそのしわ寄せがさまざまな問題を生むことにもなった。託児所、保育園の充実・完備により、女性の社会的進出を促す努力と、夫婦・親子の愛のたいせつさを説き社会秩序の基礎としての家庭の維持を図ろうとする立場とは、容易には一致点をみいだせないといえよう。
[下村由一]
犯罪の発生率は、社会生活の安定、生活水準の上昇とともに全体としては低下しつつあったとはいえ、1970年代末から1980年代にかけてわずかながら増加の傾向をみせている。とくに盗み、しかも「社会主義的所有」の盗みよりも「個人的所有」の盗みが一時よりも増加し始めていた。消費生活の一定の豊かさゆえの新傾向であろう。交通犯罪とくに飲酒運転、無免許運転などは減少している。青少年犯罪とくに暴力、傷害事件、とりわけ酒に酔っての事件は多く、かならずしも減少してはいない。16歳から18歳にかけての年齢層で犯罪発生率が最高であり、犯罪の低年齢下が深刻な問題となっていることを物語っている。殺人などの凶悪犯罪は少ないようではあるものの、政治犯罪に関する公式統計はいっさい公表されておらず、また全体として犯罪に関する公式統計は数字に粉飾があるようで、かならずしも全面的には信頼できない。
[下村由一]
ドイツ民主共和国政府とドイツ社会主義統一党(SED)は、社会の全面的な社会主義的改造の重要な一環として「社会主義的文化革命」をあげた。その際、1970年代以降、とくに「社会主義的国民文化」の形成のために、ドイツの「文化的遺産」の継承、とりわけ勤労者によるその受容に力点が置かれている。これは、連邦共和国の「帝国主義的文化」に対する民主共和国文化の独自性の強調であり、「退廃文化」の拒否でもある。こうして音楽、造形美術、演劇、文学などあらゆる分野で、「民主的・人道主義的伝統」が国家の多額の財政援助のもとで広く培われていた。ライプツィヒのゲバントハウス管弦楽団はそのよい例であるし、ゲーテ、シラーをはじめとする古典作品も多く読まれていた。同時に「社会主義リアリズム」が現代の作品については要求され、それはSEDや労働組合の主導する勤労者の制作活動の奨励と連動していた。このような国家と党の積極的な働きかけは、勤労者大衆の一般的な文化水準の一定の引き上げをもたらしてはいたものの、同時に規制に対する作家・芸術家の反発をも招いていた。連邦共和国では作品を刊行できても民主共和国ではそれを許されない作家などがいたし、日本の小説ではプロレタリア文学のほか夏目漱石(そうせき)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、志賀直哉(なおや)などの翻訳はあっても、谷崎潤一郎、川端康成、安部公房(こうぼう)などは知られていない。
[下村由一]
旧東ドイツはその成立以来、長らく日本と外交関係がなかったが、1972年12月の東西両ドイツ基本条約の締結後、日本と東ドイツの国交に関する協議が進められ、1973年(昭和48)5月15日両国の国交が樹立された。1981年5月にはホーネッカー議長が来日し、1987年1月には中曽根康弘首相が日本の首相として初めて東ドイツを訪問した。1985年における日本から東ドイツへの輸出は1億3713万ドル、東ドイツから日本への輸入は4397万ドルにすぎない。日本からの輸出品は機械類と化学薬品が大部分を占め、日本への輸入品もおもに機械類と化学薬品であった。春秋にライプツィヒで開かれる国際見本市には、日本の企業も出品して貿易拡大に努めていた。
[浮田典良]
『上林貞治郎編『ドイツ社会主義の発展過程』(1969・ミネルヴァ書房)』▽『金錘碩著『東ドイツ経済の構造』(1973・ミネルヴァ書房)』▽『齋藤光格著『東ドイツ』(木内信藏編『世界地理8 ヨーロッパⅢ』1977・朝倉書店)』▽『L・バース著、浮田典良訳『東ドイツ――その国土と人々』(『全訳世界の地理教科書シリーズ9』1978・帝国書院)』▽『外務省欧亜局東欧課編『ドイツ民主共和国・ポーランド人民共和国』(世界各国便覧叢書〔ソ連・東欧編〕・1984・日本国際問題研究所)』▽『『JETRO貿易市場シリーズ246 東独』(1984・日本貿易振興会)』▽『小川和男編著『海外ビジネスガイド ソ連・東欧』(1986・日本貿易振興会)』▽『H・ヴェーバー著、斎藤哲、星乃治彦訳『ドイツ民主共和国史』(1991・日本経済評論社)』▽『住谷一彦他編『ドイツ統一と東欧変革』(1992・ミネルヴァ書房)』▽『小林浩二著『統合ドイツの光と影』(1993・二宮書店)』▽『大西健夫、U・リンス編『ドイツの統合』(1999・早稲田大学出版部)』▽『小林浩二他編著『東欧革命後の中央ヨーロッパ』(2000・二宮書店)』▽『平野洋著『伝説となった国・東ドイツ』(2002・現代書館)』
ヨーロッパ中北部の共和国。1949年10月7日建国され,73年9月国連に加盟して主権国家として国際的に認知された。90年10月3日ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入された。日本とは1973年5月以来外交関係があり,東ドイツないし頭文字をとってDDR(デーデーエル)と略記された。ここでは,旧東ドイツ国家の政治,経済,社会のあり方について述べ,旧西ドイツやあるいはオーストリアをも含めて歴史的に〈ドイツ〉と呼ばれてきた地域の地理,歴史,社会,文化については,〈ドイツ〉の項目を,また,統一後の経過については,〈ドイツ連邦共和国〉の項目を参照されたい。
西は西ドイツ,南は西ドイツおよびチェコスロバキア,そして東はポーランドと国境を接し,北でバルト海に面する。歴史的には中部ドイツと呼ばれる地域に位置する。北半分の低地と南の高地とに分かれており,人口は南部に集中している。人口は自然減と流出によって減少してきたが(1946年約1850万,78年約1680万),80年代半ばからは漸増に転じた。非労働人口(15歳以下および女性60歳以上,男性65歳以上)の労働人口に対する割合は1960年後半から70年代前半にかけて70%以上ときわめて高かったが,その後急速に減少した。住民は圧倒的にドイツ人が多く,スラブ系のソルブ人は0.7%にすぎない。人口の宗派別統計は64年を最後に,現在では公式の調査は行われていない。教会の推定では現在教会に入っているキリスト教徒は約910万で,うち790万がルター派,残りはカトリックである(1977)。ユダヤ教徒は1000人を割ったものとされている。
1945年5月ドイツの敗北によってナチス独裁体制が崩壊したのち,ソ連占領地区では,ドイツ社会民主党と,新たに生まれたキリスト教民主同盟,ドイツ自由民主党の諸党が,ドイツ共産党の主導下に同年7月反ファッショ・民主ブロックを結成し,当面,ファシズム,軍国主義および帝国主義を根絶するための反ファッショ・民主主義的変革をめざした。同年7~8月に開かれた米英ソ3大国首脳によるポツダム会談は,ドイツの非軍国主義化,非ナチ化および民主化を骨子とする連合国の対ドイツ政策の大綱を決定した(ポツダム宣言)。この決定をよりどころとして,ソ連占領軍当局の積極的な支援のもと反ファッショ・民主ブロックの諸党は,同年秋,大地主や戦争犯罪人,ナチ積極分子の土地所有を解体し,土地を貧農・農業労働者に分配する土地改革を実施した。この措置は,プロイセン軍国主義の基盤であるユンカー支配を打破するうえで決定的な意味をもつものとして評価された。
46年4月,共産党と社会民主党の合同によってドイツ社会主義統一党Sozialistische Einheitspartei Deutschlands(以下SEDと略記)が創立された。その影響力を十分に拡大することのできない共産党を強めるためとされるこの合同は,ソ連占領地区におけるその後の発展を規定する重要な要因となった。さきの土地改革と合わせて,46年夏以降すすめられた大企業の人民所有への移管は,米英仏西側3国占領地区とは著しく異なった社会経済的発展をソ連占領地区にもたらすことになった。
47年3月のトルーマン・ドクトリンにおいて宣言され,アメリカのマーシャル・プラン実施により開始された米ソの冷戦は,48年2月チェコスロバキアでの政変によりいっそう激化し,さらに同年6月ドイツの西側占領地区における通貨改革に対してソ連が強行したベルリン封鎖によって,その頂点に達した。ポツダム会議での合意に反して,ドイツに対する連合国の共同管理はその実を失い,ドイツのソ連占領地区と西側占領地区との間の分裂は深まり,49年9月のドイツ連邦共和国の成立によってそれは決定的なものとなった。そして同年10月ソ連占領地区にドイツ民主共和国が成立した。
東ドイツ国家は,SED,キリスト教民主同盟,自由民主党のほか,ドイツ国民民主党(1948結成),ドイツ民主農民党(1948結成)の5党ならびに自由ドイツ労働組合同盟Freier Deutscher Gewerkschaftsbund(FDGB),自由ドイツ青年同盟Freie Deutsche Jugend(FDJ)のほか,婦人団体などの大衆組織の代表によって形成される人民議会Volkskammerを最高の権力機関とし,三権分立を認めない,いわゆる民主集中制の国家体制をもった。複数政党の存在にもかかわらず,選挙は政党,大衆組織を包括する民主ドイツ国民戦線の候補への信任投票にとどまる。SEDは党としては議会内で絶対多数を擁しないものの,労働組合,青年同盟その他の組織の代表が事実上SED党員により占められていることにより,その主導権は確保された。こうして東ドイツ国家は,労働者・農民の権力であり,プロレタリア独裁の機能を行使するものとされた。
1950年以降東ドイツでは,社会主義の基礎建設の名のもとに,重工業生産の優先的発展が強行された。これは,鉄・石炭などの重要資源を欠き,見るべき重工業をもたず,しかもソ連への多額の賠償支払いを余儀なくされた東ドイツが,奇跡と呼ばれた戦後経済復興に成功した西ドイツに対抗するために,避けがたい過程であった。重工業の発展と同時に,食糧危機打開のために,農業生産協同組合(LPG)による農業の集団化も強力に推進された。60年までに,工業・農業両部門において人民所有企業(VEB),協同組合その他のいわゆる社会主義的所有のもとにある企業の生産が私企業のそれを上回り,これは社会主義的生産関係の勝利とされた。
しかしこの間に,言論・政治活動の自由の制限,消費財の欠乏,政府と党における官僚主義の横行などが,東ドイツ政府とSEDおよびソ連占領軍に対する市民の不満をたかめ,53年にはベルリンその他の都市でストライキや暴動が起こった。その結果,重工業優先政策のある程度の是正は行われたものの,西ドイツとの生活水準の較差は広がるばかりで,知識人,技師,医者,農民さらには勤労者も大量に東ドイツから西ドイツへ逃れた。このため,61年8月東ドイツ政府はついに,それまで往来の自由であったベルリンの東西間の境界を遮断した。ここに生まれたいわゆるベルリンの壁は,西側の反ソ・反東独の宣伝をさらに激しいものとし,東西間の緊張はますます高まった。これより先1955年の西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)への加盟と,これに対抗する東ドイツのワルシャワ条約機構への加入によって遠のいていたドツ再統一は,ここにいたってほぼ絶望的なものとなった。
西ドイツは東ドイツをソ連傀儡政権とみなし,東ドイツ国家の存在をあくまで否認しようとし,全ドイツにおける自由選挙を統一の前提と主張した。これに対し東ドイツ政府とSEDは,東ドイツの承認,国家連合による再統一という方式をゆずろうとしなかった。もっとも,60年の東ドイツ初代大統領ピークの死後,国家評議会議長として元首の地位につき,党と政府の実権を一身に集めたウルブリヒトは,基本的にはソ連のヨーロッパ政策の枠組みを守ってはいたが,なおドイツ再統一の将来における実現を完全には放棄してはいなかったといわれる。
63年東ドイツ政府とSEDはソ連に対する賠償支払いの完了,ソ連におけるフルシチョフによる非スターリン化の推進などの新たな国内的・国際的条件のもとで,いわゆる物質的刺激をてことする新経済政策の実施に踏み切った。一般に,社会主義における利潤概念の導入と呼ばれるこの措置により,企業の自律性が強められ,これまで機械的・画一的であった勤労者への給付も弾力的になった。同時に生産・労働組織も資本主義のもとでのそれを見習って改善がはかられ,資本主義諸国における先端技術の積極的な導入もすすめられた。その際とくに日本における経済的・技術的発展にも重大な関心が寄せられ,エレクトロニクス,サイバネティックスなどの高度の活用に成功した例として注目された。
この経済改革は成功し,60年代後半東ドイツの国民経済は急速に成長し,国民の生活・労働条件も西ドイツには及ばぬまでも大幅に改善された。ベルリンの壁によって傷ついた国際的威信は徐々に回復され,国内でも政府に対する国民の信頼感は高まった。ウルブリヒトはこのような状況をふまえて,これを〈発達した社会主義社会の体制〉と名づけた。そしてその表現として新たに制定されたのが,建国に際して採択された反ファッショ・民主主義的変革のための1949年憲法にかわる,68年社会主義憲法である。これと同時に,教育制度の整備,新たな国民的文化・芸術の創造がすすめられ,市民の東ドイツ国家との一体感の強化がはかられた。
このような国力の充実と体制の安定は,西側諸国も認めざるをえなくなり,西ドイツも東ドイツ不承認の政策に固執し続けると,かえって国際的孤立を招くようになった。ヨーロッパにおける米ソ間の緊張緩和(デタント)の傾向もあって,72年にいたって東ドイツと西ドイツとのあいだに両国の関係の基本に関する条約,いわゆるドイツ基本条約が結ばれ,両国は事実上,相互に独立国家として承認し合うことになった。これは,長らく傀儡政権とみなされ,あるいは不完全な分裂国家としてしか扱われなかった東ドイツにとって画期的なできごとであり,これによって西側諸国による東ドイツ承認の道が開かれた。また西ドイツにとっても,ここでようやく長年の懸案であった国連への加入が,73年に東ドイツとの同時加入というかたちで実現することになった。東ドイツは日本を含む西側諸国と次々に国交を樹立し,東ドイツに対してこれまで行われていた経済封鎖も緩和されるにいたった。
1971年ウルブリヒトに代わってSED中央委員会第一書記となったホーネッカーErich Honecker(1912-94)は,発達した社会主義社会の建設推進という基本課題は継承しながら,ドイツ再統一の夢をなお完全には捨て去ることのなかったウルブリヒトの路線を否定し,東ドイツ独自の社会主義的国民の成立という考え方を強く打ち出すようになった。すなわち,建国当時の49年憲法では〈ドイツは不可分の民主共和国〉であるとうたって,ドイツの国家としての一体性を強調し,68年憲法でも〈ドイツ国民の社会主義国家〉という規定によりなおドイツ国民としての一体性が意識されていた。これに対し,74年に改正された憲法では〈労働者と農民の社会主義国家〉とされた。西ドイツ政府が,東ドイツは別の国家ではあるが,歴史的にドイツ国民が存在する以上完全な外国ではありえないと〈一国民二国家〉を主張するのに反発して,東ドイツ政府とSEDは,共産党宣言の一節やスターリンの規定までももち出して,東ドイツにおいては独自の〈国民〉がすでに形成されていると〈二国民二国家〉を強調した。さらに東ドイツ固有の国民意識を養うために,全ドイツ的な伝統よりはむしろ東ドイツ地域における歴史的・文化的遺産の掘り起こしを重視した。しかしこの東ドイツ国民意識の独自性の強調は,もっぱら西ドイツへの対抗のなかで行われ,ソ連に対してはこれとの連帯という国際主義,いわゆる社会主義的国家共同体の一員としての意識が前面におし出された。
こうして東ドイツは,第2次大戦後に生じたドイツ問題は完全に解決されたとみなし,東ドイツにとってはドイツ再統一という課題はもはや存在せず,この枠のなかで,西ドイツとは平和共存の関係を維持することを基本としたのである。
しかしまた同時に,ホーネッカー政権は西ドイツとの経済関係においては,借款供与や貿易の面で,東ドイツは外国ではないとの西ドイツの立場を最大限活用した。東ドイツ政府とSEDにとって,最大の課題は〈経済政策と社会政策の統一〉にあった。すなわち経済成長の成果がただちに国民生活の物質的,社会的,文化的諸条件の改善に具体的に反映されるよう努めることである。ところが,東ドイツ駐屯のワルシャワ条約軍,実質的にはソ連軍の駐屯費用の分担,自国軍隊の維持,さまざまなかたちでのソ連による利益の吸上げという重圧のもとで,資本主義世界での技術革新の速いテンポに追いついていくためには,多大の資金が必要である。東ドイツはその多くを西ドイツを筆頭に西側資本主義諸国に仰いだ。そこに一定の相互依存の関係が生じたことは否めない。
また医療・老齢などの社会保障,出産・家事における婦人の負担軽減のための保護政策,学校教育の無償化,児童福祉,文化・スポーツの普及などの社会政策の面で見るべき成果をあげ,住宅建設,都市再開発でもその業績は顕著なものがあったが,物質的刺激の政策をいっそう推し進めたホーネッカー体制のもとで,一部特権層の出現とそれにともなう腐敗の傾向は見のがすことができない。
なお統一後の経過については〈ドイツ連邦共和国〉の項目を参照されたい。
社会主義諸国のなかで,マルクス・レーニン主義党のほかに四つもの政党の存立を認めている例はほかになかった。これは,ファシズムに反対し民主共和国の実現をめざす広範な人々を結集しようとの配慮に発するものとされた。事実,キリスト教民主同盟はファシズムの根絶を願うキリスト者を,自由民主党は私企業の所有者,経営者,小売商人,手工業者および知識人のなかで,反ファッショ・民主主義的変革に協力しようとする人々を,また国民民主党はやはり同じような中間層のほか,もとナチ党員あるいは国防軍軍人であったが,戦争犯罪を犯してはおらず,その過去を清算しようとする人々を組織していた。民主農民党も同様であった。これらの政党は,1945-46年当時にはそれぞれその独自性を発揮して活発な政治活動をした。しかしSEDの成立以後,また〈社会主義的諸関係の勝利〉の時期(1950-51)以降は,自主性を失い,その社会的基盤も奪われ,これらの党の実質的な存在理由はほとんど失われたと言ってよい。事実上は,マルクス・レーニン主義党であり,共産党宣言以来のドイツ労働運動の革命的伝統の継承者をもって自任するSEDが政治活動を独占したのである。もっとも,この党も革命的前衛党というよりは政治的・経済的エリート層がその影響力を確保し行使するための利益集団と化した感があった。これにともなって反ファッショ人民戦線の継承者とされる民主ドイツ国民戦線もまた,たとえば都市美化運動などに市民を動員するための組織になった。
かつてのベルリンのソ連占領区を民主ベルリンと呼んで西ベルリンと区別し,これを首都とし,人民議会,国家評議会,閣僚評議会のほか各省を置いた。しかし東西ベルリン全体は,形のうえでは米英仏ソ4ヵ国共同管理のもとに置かれ,その限りでは変則の事態が続いた。地方行政の面では,大ベルリンのほかコトブス,ドレスデン,エルフルト,フランクフルト,ゲーラ,ハレ,カール・マルクス・シュタット,ライプチヒ,マクデブルク,ノイブランデンブルク,ポツダム,ロストク,シュウェリーン,ズールの県に分かれ,民主集中制の原則に基づき強力な中央集権制がとられた。各県さらに郡,市町村にそれぞれ議会があったが,これは権力執行機関であり,上級の機関に従属した。これらの機関はまた,狭義の行政機関であるだけでなく,人民所有企業の指導にも責任をもち,経済計画の立案・実施にも関与した。しかし,60年代以降の経済改革の過程で企業の縦断的あるいは横断的な統合と中央の人民所有企業連合への編入がすすみ,地方行政機関は国民経済の運営からはしだいに排除されていった。
マルクス・レーニン主義の理論に基づき,司法もまた統一的な国家権力の一部とされた。しかし,憲法上,市民には裁判を受ける権利が保障され,裁判の公開も規定された。最高裁判所,県および郡の裁判所のほか,社会主義的司法の特徴を示すものとして,〈社会的裁判所〉があった。これは国家権力によらないで,企業,協同組合などの生産の現場あるいは居住地区で選出された勤労者代表からなる紛争調停委員会が,軽い違法行為を犯した者に対し教育的措置によりその意識の改善をはかろうとする制度である。
1975年に締結されたソ連との友好・協力・相互援助条約を軸に,ソ連および他の社会主義諸国との兄弟的団結をその外交の基本とし,経済相互援助会議(COMECON(コメコン))およびワルシャワ条約機構の有力な加盟国となった。しかし現実にはとくに隣国のポーランド,チェコスロバキアなど東欧圏諸国との間でも,しばしば利害の不一致からくる関係の緊張が底流としては存在し,ソ連に対しても,外交上の独自性を打ち出そうとする動きがとくに西ドイツとの関係において時として見受けられた。しかし,民族解放闘争に対する支援などの点ではほぼソ連との合意に基づく行動を超えるものではなかった。西側資本主義諸国家との関係は平和共存を原則とし,同時にこれら諸国における労働運動に対しては,勤労者留学生の受入れ,代表団の招待,また必要に応じて物質的援助などを精力的に行い,音楽,演劇,絵画などを通じての文化外交にも積極的であった。日本との関係では,とくに紛争点となるような問題がないだけに,経済・文化・学術交流は順調であった。
1945年6月ドイツ人民警察が創設され,やがてこれに警察機動隊など,事実上の軍隊組織が設けられた。56年国民人民軍の創設とともに軍隊組織は人民軍に編成替えされた。人民警察は県,郡,市町村ごとにそれぞれの機関が置かれ,居住地には地区担当の警官が任命された。企業の防衛も警察の重要な任務であるが,企業および各種機関にはこのほか,SED党員の労働者・勤労者からなる武装組織,労働者戦闘班があった。このほか,1950年に内務省から独立した国家保安省があり,スパイ活動,経済攪乱行為などの防止にあたった。
国民人民軍の創設と同時に,56年国民防衛省が設けられたが,国民人民軍の部隊がワルシャワ条約機構の統合軍に編入されるとともに,国民防衛相もまたその最高司令官代理となった。こうして東ドイツ軍隊は,実質上ソ連・東欧圏軍隊の一端を担うにすぎなかった。61年以来徴兵制が実施され,18歳以上50歳までのすべての市民は兵役に服する義務を負った。一般には,兵役義務者は18ヵ月の兵役を課せられ,兵役拒否は認められず,一定の条件のもとで武器をもたない代替兵役(軍事施設の建設土木工事,修理工場,補給部隊など)がゆるされた。
国土も狭く人口も乏しく,第2次世界大戦における破壊に加えて分裂国家という障害を乗り越えて,東ドイツは社会主義圏で最も発達した工業国,世界でも上位の経済力をもつまでに成長した。とくに1960年代後半以降の新経済政策により,技術革新の成果の導入,生産過程の合理化と自動化,労働・生産組織の効率化,ソ連その他の社会主義諸国との間の統合と国際分業の促進などにより,60年代前半に著しく落ち込んだ国民所得の伸びは急速に回復され,さらに上昇した。
この間に起こった生産組織上の顕著な変化は,それまでは個々の企業が生産目標を数量で提示され,またこれに見合う原料,労働力等を割り当てられていたのに対し,計画目標は指標で示し,その達成は企業の経営努力にゆだねるという方式の導入であった。計画経済のなかに企業の自主性の大幅な承認を組み込むことにより生産効率の向上をはかる試みは,さまざまな障害に直面しながらも全体としては成功したといえる。また資本主義的経営形態の長所を取り入れるために,それまで単なる行政上の統轄機関にとどまっていた人民所有企業連合Vereinigung Volkseigner Betriebe(VVB)を製品種目ごとの〈経済的指導機関〉として再編成し,効果的な横断的結合をはかろうとした。またコンビナートの拡充とともに,企業間の縦断的結合により技術革新をより効率的に生産に反映させるため,企業間の協業連合体が新たにつくられた。協業関係はさらに国境を越えて他の社会主義諸国の企業とのあいだにも生まれた。この過程で70年代初頭までなお広範に残存していた半国家的企業(国家の資金参加している私企業)や私企業は工業部門ではほとんどすべて消滅し,人民所有企業に転化された。これら中小規模の企業はVVBあるいは協業連合体によって下請企業として直接掌握されることになったのである。こうして70年代になって工業生産は,ほとんど全面的に人民所有企業によって担われるにいたり,農業,漁業,サービス業および特殊技能の要求される部門に協同組合方式の経営が見られるのみとなった。
東ドイツ工業の立地はほぼ次のようである。ベルリンには電機・電子工業と重機械製造,東部のコトブス地域は大規模な露天掘り褐炭田を中心にエネルギー産業,南東部のドレスデン地方は電機・電子工業と機械製造,南部のカール・マルクス・シュタット(現ケムニッツ)周辺と中部のマクデブルク地方は重機械と工作機械製造,南西部のエルフルトは重機械製造,ハレ,ライプチヒ地方は化学工業,北部海岸のロストクは造船業であり,さらに南西部のチューリンゲン,南部のエルツ山地には繊維工業などが配置されている。エネルギー源はほとんどもっぱら褐炭,ソ連からの送電も含む電力,やはりソ連からの天然ガスであり,長大なパイプライン〈友好(ドルージバ)〉を通じて供給されるソ連からの石油は化学工業の原料とされている。伝統的な精密機械・工作機械製造に加えて,石油化学,電子工業の拡充・発展に力が注がれており,近年は産業ロボットの導入も急速に進んだ。
農業では,所有形態で分類すると農業生産協同組合Landwirtschaftliche Produktionsgenossenschaft(LPG)が圧倒的で,人民所有農場の割合は低い。60年代初頭以降,私的な農民経営は事実上消滅している。70年代以降,LPGの整理・統合が進められ,経営の大規模化と農作業の機械化がはかられた。その結果,平均4000haの農地をもつ経営が数多く生まれ,さらに農耕・牧畜・食品加工部門の結合により,農業の近代工業化が促進されている。穀物とサトウキビはほぼ全面的に,ジャガイモも95%は機械により収穫されている。また肉,牛乳,卵,バターの自給率は約75%で,野菜・果物の品薄は慢性的であるが,市民の食生活は基本的には確保されている。
対外貿易において,東ドイツの最大の相手国はソ連であり,またソ連にとっても東ドイツは最大の貿易相手国であった。両国は貿易によってだけでなく,金融,技術供与,分業・協業などでも密接に結ばれていた。ソ連を中心とする経済相互援助会議(COMECON)の枠内でも,緊密な経済・技術協力が行われた。他方,資本主義世界との関係では,東ドイツの最大の相手国はやはり西ドイツであり,活発な貿易のほか,東ドイツは多額の資本供与を受けていた。東ドイツは主として工業製品の輸出によって,その必要とする工業原料の輸入,プラント輸入,技術導入を拡大した。政府と党の基本方針である〈経済政策と社会政策の統一〉は,これらの努力を通じて実現がはかられ,それはとくに,大規模な住宅建設の推進となって現れた。
自由ドイツ労働組合同盟が東ドイツ唯一の統一的労働組合組織であり,その傘下に産業別単産16を擁し,事実上すべての労働者,職員,知識人を包括した。1946年2月に結成され,共産党と社会民主党との合同すなわちSEDの成立の重要な前提となり,同時にこれはソ連型の官製労組への編成替えを促進することにもなった。その最も端的な表れが,48年の経営評議会の解散と経営代表権の労働組合からの剝奪であった。組合の共同決定権その他の権利は保障されてはいるが,ストライキ権はとくに明記されなかった。にもかかわらず,労組が東ドイツ最大の大衆組織として,ときとして政府やSEDを手こずらせるような強い発言権をもったことは確かである。
東ドイツの政治・社会体制を賛美し肯定する若い世代を育てるうえで重要な役割を果たしたのが自由ドイツ青年同盟で,14歳以上の青少年を対象とするこの組織は,さらにそれ以下の年齢層の子どものための少年団(ピオニール)の指導にも責任をもっていた。青年同盟はとくに生徒・学生のあいだで高い組織率をもつが,軍隊,工場その他の生産現場の青年をも広範囲に組織した。ホーネッカーはじめ多くの指導的政治家にとって青年同盟での活躍が頭角を現す最初の場となった。
以上のほかドイツ民主婦人連盟,ドイツ・ソビエト友好協会なども有力な大衆組織であった。
キリスト教会は,東ドイツでは国家とも社会主義とも関係のない唯一の組織であった。なかでもルター派教会はその根強い歴史的伝統に基づき,なお大きな影響力をもっている。政府とSEDはルター派教会の自立性と宣教活動の自由を認め,行政上強圧的な手段でこれを圧迫し制限したりはしなかった。とくに70年代以降ホーネッカー政権は,社会主義において教会の果たすべき積極的な役割を評価し,新設の団地に教会の建設を許可し,教会独自のラジオ・テレビ番組制作を認めるなどの措置をとった。教会もまた活動を布教と慈善事業に制限することなく,平和の問題などで積極的に発言し,政府・SEDを批判することもあった。これに対し,カトリック教会は比較的弱体であり,活動を布教と慈善事業にとどめていることもあり,さして摩擦を生じることもなかった。ただこの場合にはローマ教皇庁との外交上の関係もあり,教会の立場は微妙であった。全体として教会で洗礼を受ける者,また十分の一教会税を払う信者の数は減少しつつあるとはいえ,ルター生誕500年祭にも見られるように,教会とくにルター派はなお隠然たる影響力をもっている。
1965年の法律により〈統一的・社会主義的学校教育制度〉が発足し,〈技術革命をわがものとし〉〈社会主義的民主主義の発展に寄与〉しうる,〈全面的に調和のとれた社会主義的人格〉の形成を目標として,義務教育年数が10年に引き上げられた。4~6歳の幼稚園に続く10年制の〈一般教育・多面技術高等学校〉により,単なる技術習得を超えた,生産労働に密着した人間形成と,社会主義思想を体得した自覚ある市民育成教育が行われた。もっとも義務教育といっても,子どもの能力に応じて弾力的な運用はみられた。男女の別なく工作の授業により,子どものころから生産現場に慣れ親しんだ。大学への進学にはさらに2年あるいは3年の課程を終えて大学入学資格(アビトゥーア)を得ることが条件となるが,それ以外にも職業学校からの進学も可能であった。60年代半ばまで労働者・農民の子弟のための特別課程が大学の門戸をこれらの層にも開放することをめざしたのに対し,これが廃止されると,ほぼ同じころに開始された特殊学校・特殊学級は,逆に資質のある子どもに対し徹底した英才教育をほどこした。ここではロシア語と,数学,理科に力点がおかれたのが特徴である。このほか,音楽・スポーツの英才教育もあり,これら特殊教育を頂点とする競争はかなりはげしいが,同時によくもあしくも学力のみで選抜されるわけではなく,社会的需要の計画的予測に基づく措置が子どもたちの進路・職業選択を制約していた。大学・専門学校への進学の道は狭く,ベトナムなどの諸外国からの学生受入れがこれに拍車をかけた。したがって大学進学率は高くはないが,社会人の再教育などの便宜は多様であり,とくに60年代後半以降の政府の奨励策も手伝って,全般的に向学心はひじょうに旺盛である。学校教育はすべて無償であり,大学でもほとんどの学生が学費を免除され,奨学金を受けた。
1966年の家族法により〈社会主義社会の生殖細胞〉と規定される家族は,法律上,民法とは異なった扱いを受けることになった。これは社会主義諸国に共通する立場であり,徹底した男女同権と生活共同体としての家族の維持を課題とする国家と党の姿勢がここに表れている。家庭の維持および子どもの教育についての夫婦の共同の義務と同等の権利だけでなく,妻の職業活動への従事を夫は全面的に援助しなければならない。もちろん主婦の社会的進出には,十分とはいえない託児・保育施設,家事労働の負担,企業の配慮の欠如,夫の無理解などの障害があるが,就業可能な年齢の婦人の80%以上が職業につき,しかもとくに教育,医療,司法の分野では指導的な地位で活躍している女性が多い。これは政府と党が60年代後半以降,女性の高等専門教育に力を入れ,財政面でも職業婦人の優遇に努めた結果であった。これに比して工業での指導的地位への女性の進出は遅れている。
離婚率がひじょうに高く,しかも年々増加しつつあるのは,女性の社会的地位の向上と無関係ではあるまい。そのほか,結婚できる年齢が18歳と低いこと,離婚の法的手続が簡単なこと,宗教上の制約が働かないことなどがその理由として考えられる。健全な家族関係の維持に関心をよせる政府と党にとっては頭の痛いところである。ただし再婚率もまた高い。婚姻外出産による母子に対する差別をいっさいなくしているのは当然とはいえ,これもまた家族・親子関係の混乱を助ける結果にはなっている。
1960年代以降,政府とSEDは余暇を労働生産性の向上のため,また社会主義的生活様式を発展させるための重要な要素とみなし,労働組合,青年同盟その他の大衆組織を通じて市民の余暇の過ごし方に積極的に関与しはじめた。たしかにこれは創造的な民衆文化の形成という側面からみても重要な課題であり,生産活動,市民生活に密着し,勤労者自身によって担われる文化的創造は,多方面にわたるクラブ,サークル活動によって精力的にすすめられ,成果もあげている。しかし市民のあいだに,余暇まで組織されてはかなわないという反発があることも確かで,ときにはオペラ,演劇,コンサートに行き,ダンス・パーティで楽しみ,週末はできるならばダーチェ(セカンドハウス)でゆっくりくつろぎたい,そして休暇には労働組合の提供する旅行の便宜は十分に利用するが,それ以上は御免だというところが本音であるともいえる。こうしてダーチェを持つということが,小市民的幸福と一定の社会的地位のシンボルとなり,急速に広がっている。娯楽面では〈資本主義的退廃〉の侵入は好ましくないとされたが,軽音楽,軽演劇,映画などは西側諸国のそれと大差ない。
マルクス・レーニン主義が公的に承認された世界観であり,国家と社会の指導原理とされたことは言うまでもない。学校,職場,居住地のいたるところでマルクス・レーニン主義の学習とこれに基づく政治,経済,社会の諸問題の分析が系統的にすすめられた。現在進行中のマルクス=エンゲルスの著作,手稿,書簡のすべてを網羅する全集の刊行は特筆に値する。社会主義的文化の発展・普及とならんで,思想,文学,音楽などにおけるドイツ古典文化の保存・普及も積極的にすすめられている。東ドイツ政府が古典音楽,オペラ,演劇の継承に熱心だったことはよく知られている。建築でも歴史的伝統の保存に注意が払われている。同時にまたSED,労働組合は勤労者の文学,音楽,美術,演劇などにおける創造活動に大いに力を入れ,見るべき成果をあげた。スポーツは,70年代以降急速に国威発揚の有力な手段として輝かしい成績をあげてきたが,その背景に国民の各層がいつでも気軽にスポーツを楽しめる条件が与えられていたことも見のがすことはできない。
執筆者:下村 由一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1949年,ドイツの西側に成立したドイツ連邦共和国に対抗する形で東のソ連占領区に成立し,90年まで存続した分断国家。東ドイツと略称される。建国時の憲法は,権力分立を否定し,人民議会を「共和国の最高機関」と規定しつつも,ヴァイマル憲法を模範として自由民主主義的要素を残した。しかし支配政党のドイツ社会主義統一党(SED)は,経済計画や農業集団化によって社会主義経済の建設を進める一方,連邦制を廃止し(52年),国家保安省(シュタージ)など国家機構を集権化して権力の集中を進めた。60年代にはSED書記長ウルブリヒトが,大統領職の代わりに設置された国家評議会の議長を兼ねたほか,68年の憲法は,マルクス‐レーニン主義政党であるSEDの指導的立場を明記するに至った。71年,ホーネッカーが書記長となって社会政策を拡大したが,文化の領域に至るまでSEDが体制支配を貫徹する点では変わりがなかった。硬直した体制は,ソ連,東欧社会における民主化の動きに対応できず,市民運動によって崩壊し,90年に西ドイツに編入された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新