改訂新版 世界大百科事典 「ドラビダ」の意味・わかりやすい解説
ドラビダ
Draviḍa
おもに南インドで話される諸言語を総括する語族の名称,またそれらの諸言語を話す民族の名称として用いられる。また,場合によっては人種の名称に用いられることもある。ドラビダ民族は,インド・アーリヤ民族と並ぶインドの二大主要民族である。南インド4州(タミル・ナードゥ,カルナータカ,アーンドラ・プラデーシュ,ケーララ)を中心に居住し,タミル語,カンナダ語,テルグ語,マラヤーラム語などのドラビダ語族の言語を話し,その人口はインド総人口の約25%を占めている。この民族の起源,インドへの移動時期・経路,また他民族との親縁関係については不明な点が多い。今日の南インドには,形質人類学上,地中海型の特質をもつものが多いことなどから,地中海地方に人種的な淵源を求める説もある。ソ連,チェコスロバキアなどの言語学者の研究によれば,前3500年ころにイラン高原からインド西北部に移動したドラビダ民族は,やがて3派に分岐し,そのうちの1派が南インドに移住したと考えられる。もっとも,フューラー・ハイメンドルフChristoph von Fürer-Haimendorfのように,巨石文化が北インドにはほとんど存在せず,主として南インドに残されていることから,地中海地方から直接南インドへ海路によって渡来したのではないかとする説もある。
考古学,言語学の最近の研究成果によって,インダス文字がドラビダ系言語であることはほぼ確定し,また,インダス文明の担い手もドラビダ民族ではないかと推論されている。インド・アーリヤ民族最古の文献といわれる《リグ・ベーダ》にはドラビダ諸語からの借用が多くみられ,前8世紀以前にインド・アーリヤ文化に対するドラビダ文化の影響があったと考えられる。
ドラビダ民族の多い南インドがインド・アーリヤ文化の影響を受けるのは6~7世紀であり,この時期のパッラバ朝ではグプタ朝に形成されたヒンドゥー的秩序がみられた。さらに,10世紀,チョーラ朝の時代に入ると,正統ヒンドゥー教の普及,ブラーフマニズム(バラモン教)に基づく国家理念の形成,バラモンの宗教・社会上の権威の承認と国家による保護など,インド・アーリヤ的秩序が南インドでも確立した。もっとも,碑文にはサンスクリットやプラークリット語のみならず,タミル語も広く用いられ,土着文化のレベルでは,ムルガン,マリアンマンなど南インド独自の守護神もまつられ,宗教儀礼や宗教建築様式などにも,北インドとは異なったドラビダ系の文化が維持されていた。
インド・アーリヤ系の正統ヒンドゥー教に対して,南インド独自の帰依信仰も生まれ,やがて後にはバクティ思想へと継承された。この信仰はバラモンのみならず,職人カーストや低カーストの者などさまざまなタミル聖人による辻説法によってインド各地に広められた。彼らの中から6~7世紀のナーヤナール,アールワール,11世紀のラーマーヌジャなどの卓越した指導者が現れた。
南インドの社会構造の特質として--それがドラビダ民族固有の特質かどうかは断定しえないが--歴史的にバラモンやクシャトリヤのカーストが比較的少なく,逆にシュードラなどのカーストが多いことがあげられよう。その結果,ターパルRomila Thaparによれば,チョーラ時代にはカースト間の身分・階層差は小さく,またバラモンを頂点とするカースト秩序も必ずしも厳守されなかったようである。もっとも,その後南インドでもヒンドゥー教の浸透とともにカースト規制は強化され,身分制も固定化していった。1890-1920年にインド民族運動が高まる中で,南インドではインド・アーリヤ民族の優位性やバラモンの社会的・経済的特権を否定し,タミル民族の主権,南インドの非バラモン・カースト集団の権益擁護,ドラビダ文化の復興を主張するドラビダ民族主義の運動が展開されたのも,この民族の歴史的背景に由来していると考えられる。
ドラビダ民族は,古来インド亜大陸のみならず海外に雄飛することが多かった。すでにパッラバ朝の時代にはスリウィジャヤ王国,チャンパ王国など東南アジアの各地に海軍の遠征を行い,また南インドと東南アジア諸地域との海上交易を続けた。その結果,文化交流も盛んとなり,ヒンドゥー教やタミル文字あるいはドラビダ式のピラミッド状の屋根をもつ寺院建築様式も東南アジアに伝わった。チョーラ朝,ビジャヤナガル王国の時代には,海上交易はいっそう拡大し,中国南部や西アジアのイスラム地域との交流も活発化し,後者の時代には,イタリア,ポルトガル,イランなどから商人や使節も多く訪れ,彼らによって南インドの風俗,文化,政治,経済などに関する詳細な記述も残されるようになった。
執筆者:重松 伸司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報