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バリニャーノ Valignano, Alessandro

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

バリニャーノ
Valignano, Alessandro

[生]1537頃.キエティ
[没]1606.1.20. マカオ
イタリアのイエズス会宣教師。貴族の出身で,同会の東洋巡察師として 1573年ゴアに赴任,次いでマカオに行き,中国の布教に努めた。天正7 (1579) 年日本巡察師として島原半島口之津に上陸,九州,近畿の各地で布教し,G.オルガンチノらとともに織田信長に謁見して布教を許され,安土にコレジヨ,セミナリオを創設した。九州の3大名,大友,有馬,大村氏にすすめて天正遣欧使節をローマに送り,みずからも同行して同 10年長崎を去ったが,ゴアに残って同地の管区長としてインドの布教に尽力した。同 18年豊臣秀吉のバテレン追放令下の日本へ再び来航,翌年秀吉に謁して禁令解除を懇請したが,聞き入れられず,ひそかに各地で布教に従事した。しかし殉教者が少くなく,バリニャーノも危険を感じたので,2年後にゴアに戻った。慶長3 (98) 年さらに巡察師として日本に来航して同8年まで滞在,のちマカオマテオ・リッチの中国本土の布教状況を視察,4回目の日本訪問の機をうかがっていたが,病死した。「東洋の天使」と呼ばれた。

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百科事典マイペディアの解説

バリニャーノ

イタリアのイエズス会宣教師。1579年日本巡察使として来日,大友,有馬,大村らの大名を教化し,また織田信長の知遇を受け,日本におけるキリスト教布教を指導した。天正遣欧使節をローマに派遣したり,印刷機をもたらしてキリシタン版の出版を行ったことでも知られる。
→関連項目エボラカブラルキリシタン学校コレジヨ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

バリニャーノ Valignano, Alessandro

1539-1606 イタリアの宣教師。
1539年2月9日生まれ。イエズス会司祭。巡察師として天正(てんしょう)7年(1579),同18年,慶長3年と3度来日。この間,日本人聖職者養成の学校の設立,天正遣欧少年使節の派遣,活版印刷によるキリシタン版の出版などをおこなう。日本の文化,習俗を尊重するように布教方針をあらためた。1606年1月20日マカオで病没。66歳。著作に「日本巡察記」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

バリニャーノ【Alessandro Valignano】

1539‐1606
イエズス会東インド巡察師。イタリアのキエティ生れ。1557年パドバ大学で法学博士となり,66年イエズス会入会,ローマ学院で哲学と神学を学び,70年司祭となる。73年東インド巡察師に任命され翌年リスボン出港,78年マカオ着,中国布教政策を全面的に改める。79年(天正7)来日,81年五畿内を巡察し織田信長の歓待を受ける。この第1次日本巡察中に第1回協議会を開催,82年裁決を下しザビエル以来山積した司牧問題を処理した。

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大辞林 第三版の解説

バリニャーノ【Alessandro Valignano】

1539~1606) イタリア人宣教師。イエズス会東インド巡察使。ザビエルの遺志をついで、信長のもとでキリシタン布教体制を確立し天正遣欧使節を実現させた。また、活字印刷機によるキリシタン版の出版を興した。ワリニャーノ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

バリニャーノ
ばりにゃーの
Alexandro Valignano
(1539―1606)

イタリア出身のイエズス会司祭で、三たび巡察師として来日し、布教事業に指導的役割を果たした。ナポリ王国のキエーティ市の貴族として生まれ、イエズス会員となったが、総長はその非凡の能力を認め、自らの名代ともいうべき巡察師に任命して東インドに派遣した。インドやマカオで仕事を終えてのち、1579年(天正7)に初めて日本に赴き、織田信長からも歓迎され、天正(てんしょう)遣欧少年使節行を立案し実施。1590年には帰国する少年使節を伴い、インド副王の使節として来日。この際、一行にヨーロッパから活字印刷機を携えさせ、日本で最初の活版印刷が始められた(1591年キリシタン版の刊行)。1598年(慶長3)から1603年(慶長8)まで3度目の滞日。1606年1月20日、マカオで病没した。カトリック教会史上の偉人の一人。[松田毅一]

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世界大百科事典内のバリニャーノの言及

【イエズス会日本年報】より

…1579年(天正7)来日したイエズス会インド管区巡察師A.バリニャーノは従来の日本通信(《耶蘇会士日本通信》)の制度を改め1年に一つの公式の年報報告をローマに送る日本年報の制度を確立し,同年最初の年報が彼の指導によって作られた。これは個人の書簡と異なって印刷されることを前提にし,その内容はまず日本の政治状況,キリスト教界の現況およびイエズス会の動向,次に同会の布教機関(カーザとレジデンシア)がある土地,下(しも)・豊後・都地方についての布教報告からなるが,この各地の報告にはヨーロッパのキリスト教徒の教化に裨益(ひえき)する事例が多く採られた。…

【学校】より

… その後,鎌倉,室町と戦乱の続く時代に学校は衰退し,わずかに前掲の足利学校や神奈川の金沢(かねさわ)文庫が隆盛を迎えたほかは,キリシタン学校が注目に値する。F.ザビエルが鹿児島に到着したのが1549年(天文18)であり,77年(天正5)には豊後領内の府内(現在の大分市)に最初の学林(コレジヨ)設立計画をたて,その3年後に実現し,肥前の島原半島では新管長A.バリニャーノによって79年,学林と修業所(セミナリヨ)が設立されている。さらにこれら九州地方だけでなく,翌80年には近江の安土城下にセミナリヨが建てられ,本能寺の変までのわずか1年余りであったが,多くの人材を養成した。…

【キリシタン】より

…信長の政治的地位の上昇・確立に伴い教会勢力も増大し,77年3階建ての教会(南蛮堂,南蛮寺)が落成した。
[バリニャーノの改革]
 巡察師バリニャーノはマカオ市との間に生糸貿易参加に関する契約を結んで日本布教の財源確保に努めたのち,79年来日した。彼は日本イエズス会を準管区に昇格させ,これを下(しも)・豊後・都の3布教区に分けて,クエリョを準管区長に任じた。…

【天正遣欧使節】より

…イエズス会巡察師バリニャーノの発起により豊後の大友義鎮(宗麟),肥前の有馬晴信,大村純忠の3キリシタン大名がローマ教皇に遣わした4少年からなる使節。バリニャーノはインド,ローマへの帰還に当たり,急きょ日本人キリシタンのローマ派遣を計画した。…

【日本史】より

…だが実際の記述は94年2月まである。フロイスは1583年秋に執筆を命じられると直ちに着手し,84年に第1巻,86年に第2巻,93年には第3巻を完成し,推敲の段階にあったが,日本巡察師バリニャーノは原稿を検閲した結果,冗長にすぎるとして短縮を要望し,ヨーロッパに送付しなかった。そのため本書は近年まで未刊のままであった。…

【ルッジェーリ】より

…29歳で入会し,1578年にゴア,翌年澳門(マカオ)へ赴く。東洋総巡察使のアレッサンドロ・バリニャーノから中国語修得を命ぜられ,82年(万暦10)には広州に入ることに成功した。時計などの珍奇な品で両広総督陳瑞の歓心を買い,同年,広東省肇慶(ちようけい)にフランチェスコ・パジオ神父を伴って定住することを許された。…

※「バリニャーノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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