パスカル(読み)ぱすかる(英語表記)Blaise Pascal

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

パスカル(Blaise Pascal)
ぱすかる
Blaise Pascal
(1623―1662)

フランスの数学者、物理学者、哲学者。[伊藤勝彦]

生涯

オーベルニュのクレルモン(今日のクレルモン・フェラン)で生まれる。3歳で母を亡くし、優れた自然研究者であった父エチエンヌtienne Pascal(1588―1651)の合理的教育を受けた。1631年、父は3人の子を連れてパリに移住する。パスカルは幼少のころから異常な天分を発揮し、12歳でユークリッド幾何学の定理32までを独力で考えだし、16歳のとき『円錐(えんすい)曲線試論』を書き、世を驚嘆させた。1640年にルーアンに移住する。徴税官としての父の仕事を助けるため、計算器を考案、試作する。1646年、父の捻挫(ねんざ)を治療したデシャン兄弟を介して、ポール・ロアイヤル修道院の指導者サン・シランSaint-Cyran(1581―1643)の弟子ギュベールを知り、その影響で一家をあげてジャンセニスム(ヤンセン主義)の信仰に入る(最初の回心)。同年、トリチェリの真空の実験の追試に成功して以来、この問題に取り組み、翌1647年、『真空についての新実験』を発表。「自然は真空を嫌悪する」という、アリストテレスの権威に基づくスコラ的通念を実験的に打破するに至る。1648年、義兄フロラン・ペリエFlorent Perrier(1605―1672)に依頼してやらせたピュイ・ド・ドーム山頂での実験に成功し、これによって空気の重さが水銀柱の停止の唯一の原因であることを実証した。さらにこの考えを広げて流体静力学の全体に及ぼし、「パスカルの原理」を発見する。
 1651年、父エチエンヌの死後まもなく、妹ジャクリーヌJacqueline Pascal(1625―1661)が兄の反対にもかかわらず、ポール・ロアイヤル修道院に入る。パスカルはこのころから社交界に出入りしはじめ、ロアネーズ公Artus Gouffier, duc de Roannez(1627―1696)、シュバリエ・ド・メレChevalier de Mr(1607―1684)らと親交を結ぶ。いわゆる「世俗時代」の始まりである。1654年、勝負事の名人メレの発案で、賭(か)け金の分配の問題に取り組み、数学の世界に確率論という新分野を生み出す。この年の9月ごろから俗世間に対する大きな嫌悪を感じるようになり、禁欲的態度に戻り、たびたび修道院の妹を訪れ、心境を訴える。1654年11月23日の夜、恩寵(おんちょう)の火を経験する(決定的回心)。このときの記録「メモリアル」を羊皮紙に書き写し、死ぬまで胴衣の裏に縫い込んでもち続けた。翌1655年1月、ポール・ロアイヤル・デ・シャンでの隠棲(いんせい)生活に入る。ド・サシIsaac-Louis Le Maistre de Sacy(1613―1684)と対話し、『エピクテトスとモンテーニュとについてド・サシ氏との対話』が生まれる。
 このころから、ポール・ロアイヤル派(ジャンセニスト)とイエズス会(ジェズイット)との対立が激化しはじめ、パスカルもジェズイットとの神学論争に巻き込まれていく。アントワーヌ・アルノーの勧めで、彼は『田舎(いなか)の友への手紙(プロバンシアル)』と題する匿名文書を次々に発表し、ジェズイットの弛緩(しかん)した道徳を徹底的に攻撃した。1656年1月から翌1657年3月までに18の書簡が矢つぎばやに公表され、大いに人心を動かした。1656年3月24日、パリのポール・ロアイヤルにおいて「聖荊(せいけい)の奇跡」がおきる。これは、パスカルの姪(めい)マルグリットMarguerite Perrierの涙腺(るいせん)炎がキリストの荊(いばら)の一部分と信じられていた聖荊に触れてたちまち快癒したという奇跡で、このできごとは迫害のさなかにあったポール・ロアイヤルの人たちを喜ばせ、力づけた。パスカルは自分の近親者のうえにこの奇跡がおきたことに感動し、あふれる感謝の思いから「キリスト教弁証論」を書くことを決意する。
 1658年には、サイクロイドの問題を解決し、積分法の基礎を発見するに至る。1661年、ポール・ロアイヤルへの弾圧が一段と厳しくなる。10月4日に妹ジャクリーヌが没する。10月31日、信仰問題と事実問題との区別なく、無条件にジャンセニウスを異端と認める信仰宣誓文に署名することを命ずる布告が出される。このとき、パスカルとその友ドマは署名に反対し、アルノーと争う。しかし、パスカルの考えは入れられず、こののち彼は論争から身を引く。1662年6月に入って生来の病気が急激に悪化し、苦しい療養生活の合間に貧者への愛のわざに励んでいたが、1662年8月19日、39歳の生涯を終えた。[伊藤勝彦]

『パンセ』の名で知られる遺稿

パスカルの死後、多くの遺稿が残されていたが、そのおもな部分は「キリスト教弁証論」のための断片的覚え書きで、本来、不信仰者を信仰に導く目的のために起草されたものであった。初版は、『宗教その他若干の主題についてのパスカル氏の思想(パンセ)』という題で1670年に出された、いわゆる「ポール・ロアイヤル版」である。しかし、これは当時の情勢から、適当と思われる部分のみを選び出して編んだ不完全な版であったので、その後、自筆原稿との照合の努力が続けられ、いくつかの新しい版本が生まれた。もっとも読まれているのは、ブランシュビック版(1897)だが、その後、第一写本優先説に基づくラフュマ版(1951)が現れ、新しい研究段階に入った。
 この書の基本的骨組みは、第一に偉大と悲惨の弁証法が語られ、第二にこれを解決するために哲学の無力が明らかにされ、第三にイエスの愛による解決の方向が指示される、という構えになっている。人間は無限と無、偉大と悲惨との間に浮動する中間者である。広大無辺な宇宙に比べるならば、ほとんど一つの点に等しい。1本の葦(あし)のように弱い存在である。だが、それは「考える葦」である。「空間によって宇宙は私を包み、一つの点として私を飲み込む。だが、思考によって私は宇宙を包む」。ここに人間の尊厳がある。人間は偉大であると同時に悲惨であり、自分の悲惨を知るゆえに偉大である。哲学者はこの二律背反(アンチノミー)をけっして解決してはいない。
 エピクテトスは自分の悲惨を知らず、自分の力で神を完全に知り、愛そうとしたから傲慢(ごうまん)に陥った。モンテーニュは人間の弱小だけをみて偉大に目を向けようとしなかったから、救いがたい懐疑と絶望の淵(ふち)に追いやられた。人間によっては解決できないこの矛盾は、神の偉大さと人間の悲惨を一身に体現したイエス・キリストによって初めて解決される。この仲介者がないならば、神とのあらゆる交わりは絶ち切られる。だから、生ける神を知ろうとするものは、孤立的精神の次元を去って、キリストとの深い内面的関係を保つ「愛」の次元へと飛躍しなければならない。「神を直観するのは心情であって理性ではない。これがすなわち信仰である」。パスカルは精神の秩序を越え出て、この心情の秩序に導かれたとき、神と自己の確実性をみいだせた。ここにパスカルの本領がある。[伊藤勝彦]

神学論争

ジェズイットとジャンセニストとの間の神学論争によって『田舎の友への手紙(プロバンシアル)』が生まれた。1656年1月23日、『プロバンシアル第一の手紙』をルイ・ド・モンタルトの匿名で発表。これに引き続き翌1657年3月24日までに全部で18の手紙を発表した。初めは恩寵問題が争点になっていたが、第五の手紙あたりからイエズス会の弛緩し、腐敗した道徳観に攻撃の的が絞られ、その「良心例学」casuistiqueの考えが徹底的に批判された。これらの手紙は事の真相を暴露した文書として驚くべき効果を収め、新しい版が出るとたちまち売り切れ、人々は争って読むというありさまだった。文学史上では、これが古典主義の文体を決定したということが定説となっている。[伊藤勝彦]
『『パスカル全集』全3巻(1959・人文書院) ▽前田陽一他訳『世界の名著29 パスカル』(1978・中央公論社) ▽田辺保訳『パスカル著作集』7巻・別巻2(1980~1984・教文館) ▽森有正著『デカルトとパスカル』(1971・筑摩書房) ▽伊藤勝彦著『人類の知的遺産34 パスカル』(1981・講談社) ▽野田又夫著『パスカル』(岩波新書) ▽伊藤勝彦著『パスカル』(講談社現代新書)』

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