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ロシア出身の女性舞踊家。農民出の兵士と洗濯婦の家庭に生まれた。1899年ペテルブルグ帝室劇場の舞踊学校に学び,マリインスキー劇場でデビュー。完璧な技巧と新鮮な感覚によって古典の名作に新たな魅力を加える一方,学友M.フォーキンの新作に協力。とくにサン・サーンス作曲の《白鳥》(1907年フォーキン振付。のちに《瀕死の白鳥》と改題)は新しいバレエのシンボルとなった。1909年〈バレエ・リュッス〉のパリ公演は彼女に世界的名声をもたらした。翌年自分の一座を組織し,ロンドンを本拠に名作の抜粋と新作の小品をもって各地を巡演,その足跡は22年の日本を含めて44ヵ国に及び,いたるところにバレエ団と学校を続出させるほどの大きな影響を与えた。13年祖国を去りイギリスに居を移した。その芸術は20世紀初頭のロシアの文学,音楽,絵画に共通する〈不安の時代における美しいものへの慕情〉を秘め,魂に深く訴える力をもっていたといわれる。
執筆者:野崎 韶夫
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ロシア出身のバレリーナ。サンクト・ペテルブルグに生まれ、同地の帝室舞踊学校に学ぶ。マリンスキー劇場に入り、1906年にはプリマ・バレリーナとなる。07年にフォーキン振付けの『瀕死(ひんし)の白鳥』を踊り名声を得た。09年ディアギレフのロシア・バレエ団に参加したが、11年以降自身のバレエ団を創設し、イギリスを本拠に世界各地を巡演。日本にも22年(大正11)に来演し、6世尾上(おのえ)菊五郎と舞踊の交歓会を開いている。ダンサーとして抜群の魅力を備え、とくに手の表現の柔らかさは観客の目を見張らせた。現在も出演映画『不死の白鳥』(1924)に、その魅力の片鱗(へんりん)をみることができる。
[市川 雅]
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