翻訳|paradigm
もともとはギリシア語のparadeigmaに由来し,〈範例〉を意味した語。近代英語の用法では,とくにラテン語などの名詞や動詞の語型変化を記憶する際の〈代表例〉--例えば定形動詞の変化として“愛する”のamoを用いて,amo,amas,ama,……という人称変化や時制変化,モード変化を記憶する--の意味で用いられることが多かった。しかし1962年,T.S.クーンの《科学革命の構造》が発刊され,そのなかで,クーンはこの言葉に新しい特定の意味を与えて使い,この用法が非常な普及を見せたため,それ以降〈パラダイム〉は,欧米でも日本でも(ときに〈範型〉〈範例〉と訳されるが,通常はこの片仮名書きが多用されている),クーンの意味によることになった。
クーンの〈パラダイム〉は,科学の歴史や構造を説明するために持ち込まれた概念で,ある科学領域の専門的科学者の共同体scientific communityを支配し,その成員たちの間に共有される,(1)ものの見方,(2)問題の立て方,(3)問題の解き方,の総体であると定義できよう。クーンの議論に従えば,ある時代ある社会の科学者の共同体(それが明確に形成されない場合もあり,その場合は,パラダイムも明確な形では存在しないことになる)は,一つのパラダイムに基づいて,自然探究の営みを行う。そこでは,認識論的にも,自然のなかに何を見いだし,そこからどのような問題をひき出すか,という点がそのパラダイムによって暗黙のうちに,あるいは明確な形で規定され,その問題をどのように解き,結果をどのように受けいれさせるかについても,社会制度的にパラダイムによって規定されている。したがって,パラダイムは,認識論的側面と社会学的側面の双方を兼備した概念といえる。
クーンは,この一つのパラダイム支配下に行われる科学的活動を〈通常科学normal science〉と呼び,それを〈パズル解き〉(つまり原図--それがパラダイムに相当する--のあるはめ絵パズルを解いていくこと)に比する。パラダイムに危機が訪れ,やがて,新しいパラダイムが生まれて再び〈通常科学〉の営みが始まるまでの間の活動を,クーンは〈異常科学extraordinary science〉と呼ぶ。科学の歴史は,こうして,一貫した蓄積,進歩,発達の歴史というよりは,非連続的ないくつものパラダイムの交代の歴史としてとらえられ,そうしたパラダイムの交代現象をクーンは〈科学革命scientific revolutions〉と呼んだ。
クーンのパラダイム概念は《科学革命の構造》の初版で提案されたが,上のような定義からくる曖昧さ--例えば科学者の共同体の規模をどの程度にとるかによっては,パラダイムは具体的な一つの狭い理論でもありうるし,あるいは,その時代の〈時代精神〉とでも呼ぶしかない広範なものでもありうることになる--を批判されたため,同書第2版では,パラダイムを〈学問母型disciplinary matrix〉に置き換えて,概念の整理を図ろうとした。しかし70年代に入って,おりしも異文化的方法論ethnomethodologyが隆盛となり,単に民族文化の比較においてのみならず,従来は連続的な発達・発展と考えられてきた個人や社会の歴史についても,非連続的な異文化の並列--例えば個人についていえば,発達心理学を排して,子どもと大人とをお互い異文化に属するものとして扱おうとする--と考える発想を後ろ盾として,パラダイムは,さまざまな領域でさまざまに利用され,ひとり歩きを始めている。その意味では,パラダイム論にはレビ・ストロース以降の構造主義的な発想とも呼応するものがあり,クーンの手を離れて,概念的にも実際上も豊かな可能性を開きつつある反面,俗用場面も拡大されているといえよう。
執筆者:村上 陽一郎
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アメリカの科学史家クーンが著書『科学革命の構造』The Structure of Scientific Revolutions(1962)で特殊な用い方をした単語およびその概念。ことばとしては、辞書によれば範例とか模範という訳があり、また文法の語形変化の例として用いられるが、クーン以来、学界・思想界で彼の用い方が広く使われて今日に至っており、日本では訳語をあてず、パラダイムのまま通用している。
クーンによれば「パラダイム」とは「広く人人に受け入れられている業績で、一定の期間、科学者に、自然に対する問い方と答え方のモデルを与えるもの」とされる。例としてはプトレマイオスの『アルマゲスト』、コペルニクスの『天球の回転について』、ニュートンの『プリンキピア』などがあげられる。あるパラダイムをモデルとして普通の科学者が行っている仕事が通常科学normal scienceであり、通常科学の発展が行き詰まると変則性が現れて危機が生じ、科学者は他のパラダイムに乗り換えて科学革命が起こる。ニュートン力学からアインシュタイン相対論へのパラダイム変換はそのような科学革命の例である。科学研究の成果は累積的に一定方向に進歩するという伝統的な科学観を崩し、科学の進歩は、あるパラダイムに基づいて一定期間行われる活動によって、科学革命がおこり路線が変わるものであることを示した。そこから一般にパラダイムは思考の枠組みというように拡大して用いられ、既成慣行のものにとってかわる新しいオルターナティブalternativeを求める際によく使われる。
[中山 茂]
『クーン著、中山茂訳『科学革命の構造』(1971・みすず書房)』▽『中山茂編『パラダイム再考』(1984・ミネルヴァ書房)』
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