パンチェン・ラマ(読み)ぱんちぇんらま(英語表記)Panchen Lama

翻訳|Panchen Lama

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パンチェン・ラマ」の意味・わかりやすい解説

パンチェン・ラマ
ぱんちぇんらま
Panchen Lama
Pachen bla ma

班禅喇嘛チベットで宗教的権威として尊崇される高僧。パンチェンはサンスクリット語paita(学者)とチベット語chen po(偉大なる)の合成略語。ラマはチベット語で無上師、高僧を意味する。チベットのツァン(蔵)地方(西チベット)のタシルンポ寺の法主であるのでタシ・ラマともよぶ。阿弥陀仏(あみだぶつ)の化身(けしん)と信じられ、世々この世に転生(てんしょう)を重ねて法灯(ほうとう)を伝える生き仏(転生活仏(かつぶつ))の系譜として、観音菩薩(かんのんぼさつ)の転生活仏とされるダライ・ラマの系譜に匹敵する信仰をチベット民衆の間で集めてきた。ただし政治的には聖俗両権力をあわせもったダライ・ラマに次ぐ副法主の立場にある。その起源は、チベット仏教の改革派ゲルクパ派dge lugs pa(ゲルク派)の開祖ツォンカパの二大高弟の一人ケードゥプMkhas grub(1385―1438)の法系を継承する系譜の第4代ロサンチョエキゲルツェンBlo bzang chos kyi rgyal mtshan(1569―1662)に対して、チベット全土の権限を掌握した第5代ダライ・ラマが自らの選定者・授戒の師匠に謝意を込めて贈った尊称に始まり、以後ロサンチョエキゲルツェンの転生の活仏がタシルンポ寺の法主の座を継承してパンチェン・ラマの称を名のることとなった。

 またさかのぼってケードゥプ以下3代までにもパンチェンの称が追贈されて冠せられるようになった。清(しん)朝の康煕(こうき)帝からは班禅額爾徳尼(ぱんちぇんえるでに)(蒙古(もうこ)語のPa chen Erdeni)の称号が贈られた。以後、代々継承され、第7代(ケードゥプから数えれば第10代)チョエキゲルツェンChos kyi rgyal mtshan(1938―1989)に至っている。歴代パンチェンは中国と密接な関係を保ち、またこのようなことから、ときにはパンチェンはダライ中央政権の反対勢力とみなされて両者の間に反目が生じたこともある。第6代パンチェンはチベットを離れて中国、モンゴル巡錫(じゅんしゃく)のすえ青海の玉樹で客死した。青海出身の第7代パンチェンのチョエキゲルツェンは、ダライ・ラマの1959年のインド亡命後もながく北京にとどまり、全国人民代表大会常務委員として中国側に協力したが、文化大革命期において批判され9年余の投獄・幽閉生活を経て、のちに名誉回復して18年ぶりにシガツェに戻った。1989年1月先代パンチェン合葬霊塔の落慶法要を親修した直後に急逝した。転生者については、ダライ・ラマと中国との間で認定をめぐって対立している現状である。

川崎信定 2017年4月18日]

『ジャンベン・ギャツォ著、池上正治訳『パンチェン・ラマ伝』(1991・平河出版社)』『D・スネルグローヴ、H・リチャードソン著、奥山直司訳『チベット文化史』(1998/2011・新装版・春秋社)』『石濱裕美子著『チベット仏教世界の歴史的研究』(2001・東方書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「パンチェン・ラマ」の意味・わかりやすい解説

パンチェン・ラマ
Paṇ chen bla ma

中国,チベット自治区ツァン地方にある仏教ゲルー派大僧院タシルンポの転生者住職の通称。ダライ・ラマ5世が,タシルンポ寺に長く住持した師僧ロサン・チューキ・ゲンツェンの没後,この大僧院を通じて,かつての宗派抗争の拠点であったツァン地方を,ゲルー派の掌中に収めておくため,選ばれた転生者に支配させることにした。一般には阿弥陀仏の化身の転生者と信じられ,ダライ・ラマに次ぐ地位を与えられている。しかし,パンチェン・ラマの周囲にその後反ダライ・ラマ,反中央政府の気風がおのずからでき上がり,すでにパンチェン・ラマ2世は清朝に協力して多くの政治的特権を獲得した。後代の6世はダライ・ラマ13世のインド亡命中に清と協力したので白眼視され,報復を怖れて1925年北京に亡命したが,和解のならないまま37年に没した。7世は,ラサと国民党の双方で選出されたが,中国共産党は後者を承認して,51年ともに入国したのでその地位が定まった。チベットでは初代パンチェン・ラマを第4世と呼んでいる。
チベット問題
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百科事典マイペディア 「パンチェン・ラマ」の意味・わかりやすい解説

パンチェン・ラマ

チベットの政治・宗教の最高権力者。ラマ教(チベット仏教)黄帽派の首長。ツォンカパの高弟ケールブの系統の転生ラマ。阿弥陀仏の化身とされ,ダライ・ラマに次ぐ地位を与えられている。シガツェ近郊のタシルンポ寺に住む。10世〔1938-1989〕はチベット自治区の人民代表委員を務めた。その没後,後継の11世をめぐってダライ・ラマ14世が1995年認定した〈転生霊童〉に対して中国政府は別の少年を立て,1996年その得度式を行った。
→関連項目活仏シガツェチベット問題

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パンチェン・ラマ」の意味・わかりやすい解説

パンチェン・ラマ
Paṇchen bla ma; Panchen Lama

チベット仏教における二大活仏の一つ。阿弥陀仏の化身が転生したものと信じられている。ダライ・ラマ5世がその師パンチェン・ロサン・チューキゲンツェン (1567~1662) の転生者を指定し,中央チベット西部のタシルンポ寺の座主とした。これがロサン・イェシェ (63~1737) である。第3世ペンデン・イェシェ (38~80) は,ダライ・ラマ8世の幼時に英印政庁の争いに介入して,英印政庁と接近し,G.ボーグルを迎え,のち清に招かれて北京で客死した。第4世テンペ・ニンマ (81~1854) は時の摂政を退け,みずから 11世ダライ・ラマの摂政 (44~45) をつとめた。第5世はテンペ・ワンチュク (54~81/3) 。第6世チューキニマ (83~1937) はダライ・ラマ 13世のモンゴル亡命中に英印政庁と接触して,1904年にカルカッタを訪れ,ダライ・ラマのインド亡命中の 11年には駐蔵大臣に接近したため,ダライ・ラマ政府との関係を悪化させ,23年チベットから脱出し,25年以来中国国民党の保護下にとどまった。ダライ・ラマ没後,国民党の兵に護送されて帰国の途に着いたが,ケクド (ジェクンド) で没した。その転生者に青海省循化県出身の3歳の少年ロサン・チンレ・ルンルプ (38~89) が選ばれ,11歳で正式に 10世パンチェン・ラマとなった。 59年のチベット動乱の際,国内にとどまり中国共産党を支持,国内建設に協力,親北京派とみなされていたが,文革中は拘禁された。

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現代外国人名録2016 「パンチェン・ラマ」の解説

パンチェン・ラマ(11世)
パンチェンラマ
Panchen Lama ⅩⅠ

職業・肩書
宗教指導者 チベット仏教(ラマ教)指導者,人民政治協商会議(全国政協)委員,中国仏教教会副会長

出生地
チベット

旧名・旧姓
ギェンツェン・ノルブ

経歴
1989年チベット仏教(ラマ教)でダライ・ラマに次ぐ高位指導者とみなされるパンチェン・ラマ10世が亡くなると、’95年中国政府により11世として認定され、即位した。2010年20歳の若さで中国仏教教会副会長、人民政治協商会議(全国政協)委員などに抜擢される。一方、1995年にダライ・ラマ14世によりゲンドゥン・チューキ・ニマ少年(当時6歳)がパンチェン・ラマの転生者として認定されたが、間もなく中国政府により連れ去られ、行方不明となった。このため、中国政府公認と、ダライ・ラマ14世が認定した2人のパンチェン・ラマ11世がいることになっている。中国政府はニマ少年は一般市民として生活していると発表している。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パンチェン・ラマ」の解説

パンチェンラマ
Paṇ chen bla ma

チベット仏教の最大宗派ゲルク派においてダライラマに次ぐ地位を占める化身(けしん)僧。20世紀の初頭よりダライラマと対立し,ダライラマ亡命の後も中国支配下のチベットにとどまった。1989年にパンチェンラマ10世が没したあと,中国とダライラマが別々の少年を11世として承認したため,現在は二人のパンチェンラマが存在している。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「パンチェン・ラマ」の解説

パンチェン=ラマ
Panchen Lama

チベットでダライ=ラマにつぐ政治・宗教上の最高権力者。大学僧の意
阿弥陀仏 (あみだぶつ) の化身 (けしん) にして転生者とされる。ラサ西方のシガツェに近いタシルンポ寺に住む。チベット独立の象徴であるダライ=ラマにつぐ地位を与えられたところから,清朝,中華民国,中華人民共和国の中央政府に利用されてきた。ダライ=ラマ14世がインドに亡命した後も第10代パンチェン=ラマはチベットにとどまり,自治区代表委員となっている。

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世界大百科事典(旧版)内のパンチェン・ラマの言及

【タシルンポ寺】より

…中国チベット,ツァン地方シガツェにあり,ゲルー派四大寺の一つ。ツォンカパの弟子で,後代ダライ・ラマ1世とされたゲンドゥン・トゥプパにより1447年に建立され,政権を樹立したダライ・ラマ5世によりパンチェン・ラマ1世の没(1662)後,その転生者が住持するように定められた。三つの仏教哲学研修学堂と一つの密教実践道場があり,20世紀初めころは僧徒3500を擁したといわれる。…

※「パンチェン・ラマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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