ツォンカパ(読み)つぉんかぱ(英語表記)Tso kha pa

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ツォンカパ」の意味・わかりやすい解説

ツォンカパ
つぉんかぱ
Tso kha pa
(1357―1419)

チベット仏教最高の思想家。ゲル派(ゲルク派)の始祖。宗喀巴とも書き、正式名はロプサンタクパBlo bza grags pa。チベット北東の辺境アムドのツォンカに生まれたため、ツォンカパと通称される。幼にして出家し、16歳のとき中央チベットに出て、ディグン、サキャなどの諸学問寺に学んだ。とくに19歳ころからサキャ派のクンガペルKun dga' dpalから『現観荘厳(げんかんしょうごん)論』、その弟子のレンダワRed mda' ba(1349―1412)から『倶舎(くしゃ)論』『入中(にゅうちゅう)論』などの講義を聞き、仏教学の理解を深めた。その後も『律』『量評釈』『阿毘達磨(あびだつま)集論』などを含めて研鑽(けんさん)を積んだが、その関心はしだいに中観(ちゅうがん)の問題に集中していった。33歳ころからウマパとよばれる神秘的人物の指導を受け、彼を通じて文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に中観の疑問を尋ねたり、文殊の姿を実際に見るようになったといわれる。その後ブッダパーリタBuddhapālita(470―540ころ)著の『中論』釈を読んで、中観の決定的理解を得たともいう。36歳にして立教開宗し、46歳のとき主著『菩提道次第(ぼだいどうしだい)論』(『ラムリム』)を著した。53歳のときラサに「大祈願祭」を創始し、翌1410年ガンデン寺に入り、没するまでほぼそこに住した。弟子にタルマリンチェンDar ma rin chen(1364―1432)とケードゥプMkhas grub(1385―1438)の二大弟子のほか、ゲドゥンドゥッパ(ゲンドゥントゥプ。ダライ・ラマ1世)らがおり、他の著書に『秘密道次第論』『善説心髄』『密意解明』などがある。その思想的独自性は中観の解釈にあり、とくに自立派と帰謬(きびゅう)派の相違というものを、彼以前の学者がそうであったように単なる空性論証法の違いとみずに、両派の存在論の相違ととらえて、帰謬派絶対の中観哲学を樹立した点にある。

[松本史朗 2017年4月18日]

『長尾雅人著『西蔵仏教研究』(1954・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ツォンカパ」の意味・わかりやすい解説

ツォンカパ
Tsong kha pa

[生]1357
[没]1419
チベット仏教ゲルク派の開祖。ツォンカ山の地に生れたのでこの名があり,宗喀巴と写す。 1373年中央チベットに出て,ニェタンで学び,75年頃からツァンに行き,サキャ派系の諸寺でプトゥンやチョナン系の密教を学び,主としてレンダワについてアビダルマから般若,中観,論理など顕教の一切をきわめ,シャキャシュリーバドラ由来の具足戒を受け,新サキャ派の系譜にあった。ウマパと会ったのち,プトゥン系の密教に傾倒し,92年以後ウルカで実修につとめ,95年ロダクでカーダム派教義を聞いたという。ツォンカパの主張は,小,大,金剛の三乗会通の仏教を目指し,顕教ではそれまでの主流的見解であった瑜伽行中観派の立場を退けレンダワ由来の中観帰謬論証派の立場を貫くが,カーダム派の理念に近い。その門弟は新カーダム派と呼ばれたり,持戒を示す黄帽を用いたことから黄帽派,ゲルク (徳行) 派と呼ばれた。 1409年ガンデン寺を創建して本山となし,晩年ダルマ・リンチェン (1364~1432) を後継者とした。そののちはケドゥプジェ・ゲレク・ペルサンらが継いだ。ダライ・ラマの転生系譜の祖とされるゲントゥン・ドゥプはこれら3人の弟子で,むしろ傍系にあたる。ツォンカパの顕教は『菩提道次第論』に,密教は『秘密道次第論』に総括的に述べられている。

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