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ビラール(英語表記)Vilar, Jean

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ビラール
Vilar, Jean

[生]1912.3.25. セート
[没]1971.5.28. セート
フランスの演出家,俳優。 C.デュランのアトリエ座の学校で学び,1914年巡業劇団ルーロットを組織,ストリンドベリ,T.S.エリオットなどの作品の演出で認められ,映画俳優としても活躍。 47年,アビニョン演劇祭を創設した。 51年パリ国立民衆劇場の監督に就任,以後,学生や労働者など新しい層の観客を開拓して,古典の現代化,外国劇の紹介を行なった。 63年退任後,オペラの改革などを志したが,五月革命で批判されてからは沈黙を守った。

ビラール
Villars, Claude-Louis-Hector, Duc de

[生]1653.5.8. ムーラン
[没]1734.6.17. トリノ
ルイ 14世,同 15世時代のフランスの軍人。 19歳で騎兵隊長としてオランダ戦争,次いでファルツ戦争に従軍。ベネチア大使 (1697~1701) となり,スペイン継承戦争では軍司令官として各地を転戦すると同時に,国内のカミザール戦争鎮圧。 1712年7月 24日,ドゥナンの戦いで F.オイゲンの率いるドイツ皇帝軍を破り,不利な戦局を転換し和平への道を開いた。摂政時代に国務会議に入り政治に参画した。 33年ポーランド継承戦争のとき,フランス軍元帥としてサルジニア支援のため北イタリアに進軍したが,トリノで病死した。

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世界大百科事典 第2版の解説

ビラール【Jean Vilar】

1912‐71
フランスの俳優,演出家,劇団統率者。1950年代から60年代にかけて,革新的な演出と劇団運営を試み,演劇の民衆化に尽くしたその功績は大きい。南フランスの港町セットに生まれ,32年パリに出て,当時の高名な演出家デュランの弟子となる。第2次大戦中は移動劇団に属してフランス国内を巡業し,〈いかなる場所にも舞台空間を設定する技術〉を体得した。次いで仲間とともに〈七人座〉を創立,初演出(1943)のストリンドベリ《死の舞踏》は一部の注目を集めたが,若手演出家の名声を決定的にしたのは1945年のT.S.エリオット《寺院の殺人》で,その年の批評家賞を獲得した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ビラール
びらーる
Jean Vilar
(1912―1971)

フランスの演出家、俳優。南仏セート生まれ。1933年パリに出てデュランの舞台に感動、翌日アトリエ座の俳優学校に入り、バローと同期になる。42年独立して『死の舞踏』、45年の『寺院の殺人』などの演出で注目を浴びた。47年には、アビニョン演劇祭の発端となる教皇庁中庭の野外劇に『リチャード2世』で参加。端役に土地の人々を加え、音楽を重視したイメージ豊かな演出が好評をよび、以後この野外演劇祭を世界的な祭典に育てた。51年からはTNP(テーエヌペー)(国立民衆劇場)の総監督に任命され、バローと並び戦後フランス演劇の黄金期を築く。63年フリーとなり、翌年『オッペンハイマー調書』を上演したり、民衆オペラ運動にも取り組んだ。[石澤秀二]
『ジャン・ヴィラール著、渡辺淳訳『ヴィラール演劇の事典』(1976・テアトロ)』

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世界大百科事典内のビラールの言及

【国立劇場】より

…創設は1920年で,初代の責任者は俳優・演出家のF.ジェミエ。ところが,ここがほんとうにその名にふさわしい劇場になったのは1951年,演出家J.ビラールが統率者になって以来のことで,辞任(1963)までの12年間,G.フィリップやM.カザレスなどの名優を擁して彼はこの大ホール(座席数約2700)を,〈民衆劇場〉の名にふさわしくアクチュアルで上質な芸術の醍醐味を,たくさんの観客に安価に提供する場所にすることに成功した。しかし,その後,激動する社会・政治的現実の前で,民衆演劇の理念が不透明化するにともない,活動は低迷,72年にはパリのシャイヨ宮から,演出家・俳優R.プランションのもともとの本拠地,リヨンに隣接したビルルバンヌに移転,そこへ演出家P.シェローらを加えて新〈TNP〉は集団指導の体制で,ビラールの遺志を継ぎながら,新時代に応じた新しい民衆演劇の開拓に意欲を燃やして今日に至っている。…

【国立民衆劇場】より

…初代の責任者はジェミエFirmin Gémier(1865‐1933)。しかし,彼の存命中も死後もほとんど有名無実で,この劇場と劇団がその名にふさわしい活動を始めたのは51年,J.ビラールが新統率者に任命されて以来のことである。ビラールは主宰していたアビニョンの野外劇フェスティバルの方式をこの大ホール(座席数約2700)にも適用し,額縁舞台の慣習を打ち破り,チップ制を廃止し,観客組織を強化するなどして,ことに50年代,失われた原初の演劇の感動を今日の大観衆に分けもたせることに成功した。…

【フランス演劇】より


【20世紀】
 20世紀フランス演劇をその変革の相においてとらえれば,大別して三つの時期を認めることができる。第1は,1913年,J.コポーによる〈ビユー・コロンビエ座〉創設から,両大戦間におけるL.ジュベ,C.デュラン,G.ピトエフ,G.バティの4人の演出家による〈カルテル四人組〉の時代,第2は,J.L.バローによるカルテルの遺産の発展と並行して50年代に起きる三つの事件,すなわちJ.ビラールによる〈民衆演劇運動〉と〈演劇の地方分化〉の成功,E.イヨネスコ,S.ベケット,A.アダモフ,J.ジュネらの〈50年代不条理劇〉の出現,そして〈ブレヒト革命〉であり,第3の時期は,68年のいわゆる〈五月革命〉によって一挙に顕在化した社会的・文化的危機の中で,演劇が体験した一連の大きな〈異議申立て〉(A.アルトーの徴の下に広がった〈肉体の演劇〉を中核とする)とその結果である。
[演出家の時代――コポーと〈カルテル四人組〉]
 演出家で集団の指導者をフランス語でアニマトゥールanimateurと呼び,20世紀を〈アニマトゥールの世紀〉と称するが,コポーはアニマトゥールの枠組みそのものを提示した人物である。…

【民衆演劇】より

… それはともかくとして,歴史的に見ると,ドイツでは古くは1870~80年代の〈マイニンゲン一座〉の巡業活動,19世紀末のO.ブラームの〈自由舞台〉,そしてそれに刺激されて誕生した観客組織〈民衆劇場〉,そして第2次大戦後ではB.ブレヒトと〈ベルリーナー・アンサンブル〉の仕事などが民衆演劇の動きとして注目されるし,フランスでは19世紀末のA.アントアーヌと〈自由劇場〉,ロマン・ロランの《民衆演劇論》(1900)の提唱,そして両大戦間のJ.コポーC.デュランの舞台造形などが,民衆演劇の動きとして特筆されよう。しかし〈民衆演劇〉というと,現代におけるその言葉自体の固有名詞的な記憶としては,何といっても第2次大戦後の1950年代,南フランスのアビニョンと,パリの〈国立民衆劇場Théâtre National Populaire〉(略称TNP(テーエヌペー))を舞台に活躍したJ.ビラールの業績をあげなければならない。彼は古典を主としていたが,それをフレッシュな新演出により,また芸術的純度を落とさずに上演して,大観衆を舞台に引き付けることに成功した。…

※「ビラール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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