デジタル大辞泉
「ピット」の意味・読み・例文・類語
ピット(Pitt)
(William ~)[1708~1778]英国の政治家。通称、大ピット。七年戦争時代、国務相として戦争を指導。インド・北アメリカにおいてフランス勢力を打破し、大英帝国の基礎を固めた。
(William ~)[1759~1806]英国の政治家。通称、小ピット。の次男。24歳で首相となる。逼迫した財政を国債の処理と関税の軽減などによって再建。フランス革命に際しては、対仏大同盟を組織した。
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ピット
- [ 一 ] ( William Pitt, 1st Earl of Chatham ウィリアム━、ファースト=アール=オブ=チェタム ) イギリスの政治家。国務相として七年戦争遂行に専心し、植民地支配の拡大に努め、大英帝国発展の基礎を築いた。一七六六~六八年連立内閣首相。通称、大ピット。(一七〇八‐七八)
- [ 二 ] ( William Pitt ウィリアム━ ) イギリスの政治家。大ピットの次男で、通称、小ピット。一七八三年首相となり、自由貿易主義をとって財政改革に尽力した。フランス革命、ナポレオン戦争には対仏大同盟を組織して難局に対処。一八〇一年辞職したが、一八〇四~〇六年再度首相。(一七五九‐一八〇六)
ピット
- 〘 名詞 〙 ( [英語] pit 穴の意 )
- ① 陸上競技の跳躍競技で、競技者が着地する場所。〔モダン用語辞典(1930)〕
- ② ボウリングで、倒されたピンが落ちる場所。
- ③ 自動車やオートバイのレースで、レース中に必要な燃料補給や修理などのための整備所。
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ピット(小)
ぴっと
William Pitt, the Younger
(1759―1806)
イギリスの政治家。大ピットの次男。ケンブリッジ大学、リンカーン法学院で学んだのち、21歳で下院議員となり、1782年7月にはシェルバーン内閣の財務大臣に就任した。翌1783年春この内閣がフォックス‐ノース連合によって倒されると野党に回り、同年末、国王ジョージ3世がフォックスを中心とするホイッグ党内閣を更迭したのち、首相に任じられた。成立当初、彼の政権は下院の多数の支持を得られず議会対策に大いに苦しんだが、ホイッグ党の攻撃に屈せず国王の大臣任免権を擁護し、1784年3月には議会を解散した。世論は彼を支持し、以後17年間にわたって首相を務め、首相の政治的地位を強化した。その最初の数年間、自由主義的な改革派として、インド統治制度の改善、財政改革、フランスとの通商条約締結といった治績をあげ、失敗に終わったものの、議会改革も提案した。しかし1790年代に入ると、フランス革命と国内の改革運動を恐れる保守的なトーリー党を率い、内政面では人身保護法の停止や団結禁止法の制定などによって国民の政治的自由を圧迫し、対外的には対仏大同盟の結成によりフランス革命の圧殺を図った。1800年アイルランド合同法を成立させ、イギリス・アイルランド連合王国を誕生させたが、アイルランド安定化のために必要と考えていたカトリック教徒解放政策に国王が反対したため、翌1801年辞任した。この後しばらく後継首相アディントンを閣外から支持したが、対仏戦が再開された1803年5月以降、政府の戦争政策に徐々に批判的となった。1804年5月に首相の座に戻り、再度対仏大同盟を組織したものの、1805年12月のアウステルリッツの戦いでナポレオンが勝って同盟は解体し、1806年1月、イギリスの将来を案じながら世を去った。優れた改革派の政治家でありながら、フランス革命期の首相として保守的政策をとらざるをえず、戦争指導でも父ほどの成果をあげられなかったという意味では、不運な生涯であった。
[青木 康]
『坂井秀夫著『イギリス外交の源流――小ピットの体制像』(1982・創文社)』
ピット(大)
ぴっと
1st Earl of Chatham, William Pitt, the Elder
(1708―1778)
イギリスの政治家。インドで財をなしマドラス総督となったトマス・ピット(通称「ダイヤモンド・ピット」)の孫。イートン校、オックスフォード大学に学び、1735年に下院議員となった。野党に加わり、王家がハノーバー出身であるためにイギリスの外交政策がゆがめられていると政府を攻撃し、「愛国派」として人気を博した。しかしそのために国王ジョージ2世に嫌われ、ようやく1746年になって閣外のポストを与えられた。人事をめぐる争いから1755年に更迭されたが、「七年戦争」の勃発(ぼっぱつ)によって世論が彼の政権入りを望むに至り、1756年12月に国務相となり戦争を指導する地位についた。翌1757年いったん辞任したが、同年7月に国務相に返り咲き、ニューカッスル内閣下で事実上の首相としてイギリスを勝利に導いた。とくにインド、北アメリカなど海外植民地でフランスの勢力を破り、イギリス帝国の基礎を築いた。しかしジョージ3世の即位(1760)以後、自説が内閣で受け入れられなくなると、1761年に下野した。1766年にはチャタム伯に叙され、王璽尚書(おうじしょうしょ)として事実上首相を務めたが、病気のために十分な政治指導力を発揮することができず、2年後には辞任のやむなきに至った。その後、本国とアメリカ植民地の関係が悪化すると、ノース政府の強圧政策に強く反対した。1778年、上院で演説中に倒れ、まもなく死去した。雄弁で知られたホイッグ党の大政治家であったが、政界では孤立していた。
[青木 康]
ピット
ぴっと
pit
くぼみまたは穴の意味であるが、普通には水道管や電線を土中に埋設するための角形の溝やU字形の溝をいう。コンクリートでつくられることが多く、前者を「配管ピット」、後者を「配線ピット」とよんでいる。またピットは、エレベーターの籠(かご)が停止する最下階の床面から下の穴の部分をさすこともある。機械工作のほうでは、溶接部表面に生ずる小さな穴の意味にも使われる。発生の原因は、水分、錆(さび)などによるといわれている。
[小原二郎]
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ピット(大)
ピット[だい]
Pitt, William, 1st Earl of Chatham
[生]1708.11.15. ウェストミンスター
[没]1778.5.11. ケント,ヘイズ
イギリスの政治家。 R.ピットの子。ピット (小) の父。オックスフォード大学,ユトレヒト大学で学んだのち,近衛騎兵連隊の将校に任官。 1735年下院議員になり,R.ウォルポール首相の施政を攻撃し,雄弁家としての名声を確立,ウォルポール退陣 (1742) 後頭角を現し,46年2月アイルランド副会計官,2ヵ月後ウォルポールの後継者 H.ペラム内閣の軍事支払 (陸軍主計) 総監に就任。買収されて政府攻撃を弱めたと非難を受けると,軍事支払総監のすべての特権 (軍の資金を個人的利益をはかるために投資してよい) を放棄するとともに,部内刷新を行い,巨富を築いた前任者とは違い,清廉にして有能な軍事支払総監として名を揚げた。七年戦争 (56~63) 開戦とともに国務相になり,一時解任されたが,ニューカッスル (公)との連立内閣を組織し (57) ,事実上の首相として戦争を指導。 61年国王ジョージ3世がビュート伯を登用して対スペイン戦争を拒否すると,国務相を辞職。 66年チャタム伯に叙せられ,ロッキンガム侯辞任のあとをうけて再び内閣を組織したが,精神に異常をきたしたため政務を離れ (68) ,以後 10年間,グラフトン公らの政治グループを通して元老的存在となった。北アメリカ十三植民地の独立に対しては,強い反対の態度を示した。
ピット(小)
ピット[しょう]
Pitt, William
[生]1759.5.28. ケント,ヘイズ
[没]1806.1.23. ロンドン
イギリスの政治家。ピット (大)の次男。幼少の頃から神童の聞え高く,14歳でケンブリッジ大学に入学,17歳で文学修士の学位を取得。 1781年 21歳のとき,ある貴族の援助により下院議員となった。 82年シェルバーン内閣の蔵相。 83年フォックス=ノース連立政権の崩壊とともに国王の要請により少数派内閣を組織し 24歳で首相となり,翌年3月の総選挙で大勝,以後 1801年アディントン内閣の成立まで首相として活躍した。アメリカ独立戦争後の財政を建直し,インド法を成立させ (1784) ,イギリス東インド会社に対する国家の統制権を強化した。 1786年英仏通商条約を締結,フランス革命に対しては内政不干渉の立場を取ったが,93年フランスがイギリスに宣戦布告すると,第1次対仏大同盟 (93) を結成し,これに対抗する一方,国内では革命の波及を恐れて人民保護法を停止 (93,95~1801) 。ナポレオン1世に対しては第2次対仏大同盟 (1798) を結んで抗戦した。また 1800年アイルランドとの合併を定めた「合同法」を成立させた。 04年再び首相となり第3次対仏大同盟 (1805) を結んだが,ナポレオン戦争の終結をみることなく死没。ピット (大) ,W.チャーチルと並ぶイギリスの三大政治家の一人とされる。
ピット
Pitt, Thomas
[生]1653.7.5. ドーセット,ブランドフォードセントメリー
[没]1726.4.28. バークシャー,スワローフィールド
イギリスの商人。ピット (大)の祖父。 1674年から東インド貿易に従事。特許状をもたなかったため,83年以降イギリス東インド会社に訴えられたが,94年和解して同会社に入り,97~1709年までマドラス知事。その間,01年マドラスで巨大な盗品ダイヤモンドを入手し,17年フランス王室に 13万 5000ポンドで売却したため,「ダイヤモンド・ピット」と呼ばれた。また下院議員をつとめた (1689,90,1710) 。
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ピット[小]【ピット】
英国の政治家。大ピットの次男。小ピットと呼ばれる。初めホイッグ党員。1783年24歳で首相となり17年間国政を指導,アメリカ独立戦争後の財政再建・産業振興・自由貿易推進に尽力,他方では国内の急進的改革運動を抑圧して政党政治を確立した。フランス革命の急進化に対して,1793年第1次対仏大同盟を結成,指導。1801年アイルランド問題で国王ジョージ3世と対立して辞職。1804年再組閣し,第3次対仏大同盟を結び戦いを継続したが,アウステルリッツの敗戦に打撃をうけて病没。
→関連項目カースルレー|キャメロン|トーリー党|ロンドン通信協会
ピット[大]【ピット】
英国の政治家。大ピットと呼ばれる。国民の信望を集め,雄弁をもって聞こえた。1735年下院議員になり,ウォルポール批判と軍事改革で名をあげ,事実上の首相として七年戦争を指導。1757年―1761年連立内閣を組織,インド・北米でフランスと争い圧倒的勝利をもたらした。チャタム伯に叙せられ,1766年―1768年再び連立内閣をつくったが,病いをえて辞職。アメリカ植民地には同情を示したが,その独立を憤慨して議場で倒れ,病没。
→関連項目グレンビル|ジョージ[2世]|ニューカッスル公
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ピット(小)(ピット(しょう))
William Pitt
1759~1806
イギリスの政治家,ピット(大)の次男。ケンブリッジ大学に学び,1781年下院議員となる。24歳の若さで首相(在任1783~1801,04~06)となり,翌年の総選挙に勝って政権を安定させ,以後20年あまりにわたって国政を指導した。アメリカ独立戦争によって疲弊した財政の再建を図り,フランスと通商条約を締結して自由貿易を促進した。フランス革命の勃発に際しては傍観する姿勢をとったが,それが急進化するにつれて国内への影響に警戒心を強め,団結禁止法をはじめとする抑圧的な対策をとる一方,93年対仏大同盟を結成して対抗した。1801年アイルランドとの連合を実現させ,04年再度組閣。翌年第3回対仏大同盟を結んで戦闘を継続。トラファルガーの海戦に勝利したものの,アウステルリッツの戦いに敗れた衝撃から病に倒れて死去。
ピット(大)(ピット(だい))
William Pitt, 1st Earl of Chatham
1708~78
イギリスの政治家。インド成金の孫。オクスフォード大学で学び,1735年下院議員となり,ウォルポールの対外政策と軍事政策を批判して名をあげ,七年戦争時には国務相として入閣し,事実上の首相として戦争を指導。プロイセンのフリードリヒ2世に軍費を与えてヨーロッパで戦わせ,みずからは北アメリカとインドにおけるフランスとの交戦に全力を注ぎ,圧倒的な勝利を収めて帝国の基礎を固め,「大平民」と呼ばれて国民の人気を博した。66年グラフトン公とともに組閣したが,チャタム伯となって貴族院に移り,病を得て辞職。アメリカ植民地には同情的であったが,その独立には反対の姿勢をとり,貴族院での演説中に倒れ,まもなく死亡。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ピット
「pit」は「穴」、「くぼみ」の意。記録面の凹凸部分にレーザー光を照射し、その反射光の光密度の変化によって記録された情報を読み取るCDにおいて、凹の部分をピット、凸部分をランド(land)と呼ぶ。CDでは、回転したCDのトラックに沿ってレーザーピックアップを移動させる。この際、レーザーピックアップから照射されたレーザー光は、ピットまたはランドに当たって反射し、ピックアップ内のフォトディテクタ(光検出器)に届く。このときピットまたはランドの平たんな部分では、レーザー光がそのまま反射され、反射光の光密度が大きいが、ピットからランド、あるいはランドからピットへの変わり目では、反射光が拡散され、光密度が小さくなる。フォトディテクタは、この光密度の変化を検出し、これを電気信号に変える。
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ピット(小)
William Pitt
1759〜1806
イギリスの政治家
ピット(大)の子。1783年,24歳で首相となり,以後18年間政局を担当。アメリカ独立後の財政整理に成功し,自由貿易政策を実施。ナポレオン戦争では対仏大同盟を組織し,一貫してフランスに対抗,国内では革命の波及を恐れて保守的政策を採用した。アウステルリッツの戦いで同盟国が敗れたのち死去した。
ピット(大)
William Pitt
1708〜78
イギリスの政治家
1735年下院議員となり,56年に入閣。反ウォルポール陣営の闘士として頭角を現す。その間,七年戦争でフランスに対抗し,新大陸・インドで植民地拡大につとめた。1766年内閣を組織し,同年チャタム伯として上院に列した。晩年は病をおしてアメリカ植民地問題の調整に努力し,登院して演説中倒れた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
ピット
株式会社トンボ鉛筆のスティックのりのブランド名。強力粘着タイプの「ピットハイパワー」、シワが出にくい「シワなしピット」、塗った部分が発色する「消えいろピット」などのシリーズがある。
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世界大百科事典(旧版)内のピットの言及
【古代社会】より
…少なくとも計画的に自分たちの経済生活を安定させるためには,かなりの努力と環境上の幸運とを必要としたものと思われる。それでも,この時代の中期以後は,通常,貯蔵穴といわれるピットが竪穴住居の内外に作られるようになり,ある程度の食料の備蓄が可能になってきたことを示している。
[社会的分業の未発達]
社会的分業については,矢じりなどの石器の原料である黒曜石はその産地が限定されるので,あるいは交易で普及したのかもしれない。…
【ヘビ(蛇)】より
…舌はまた空気の振動や流れ,温度差などをも感じとる。 [ニシキヘビ]類の上唇板と[マムシ]類Crotalinaeの眼の前下方にあるピットpit(頰窩(きようか),孔器ともいう)は温度に敏感な器官で,とくにマムシ類のピットは薄い膜で仕切られ,内外2室の微妙な温度差を敏感に読み取る。左右1対のピットは哺乳類や鳥類の体表から発せられる赤外線を立体的にとらえ,暗闇でも正確に獲物に毒牙を打ちこみ,また人を含む危険な敵を攻撃することができる。…
※「ピット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」