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714~768(在位751~768)
フランク王国カロリング朝初代の王,短躯(たんく)王と呼ばれる。カール大帝の父。父カール・マルテルの死後,兄カルロマンとともに宮宰(きゅうさい)として王国を支配した。兄の引退後は,全王国の実権を掌握(747年),751年メロヴィング朝最後の国王ヒルデリク3世を廃し,教皇ザカリアスに王としての正統性を承認させた。その代償として教皇を脅かすランゴバルドを討ち,ラヴェンナなどを教皇に献じた(754年と756年,ピピンの寄進)。
大ピピン(?~639)はフランク国王クロタール2世治下のアウストラシアの宮宰(きゅうさい),カロリング王家の先祖。同地方では彼のときより宮宰職の世襲化が始まった。その孫,中ピピン(?~714)は同じアウストラシアの宮宰(679年頃)。ネウストリアの宮宰エブロインと戦って,攻防の末勝利を収め(687年,テストリの戦い),全王国の統一的宮宰となった。その庶子がカール・マルテルである。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
カロリング朝初代のフランク国王(在位751~768)。短躯(たんく)王ともよばれた。父カール・マルテルの死(741)後、兄カールマンとともに、それぞれノイストリア、アウストラシアの宮宰として、フランク王国を共同で統治した。743年、メロビング家のヒルデリヒ3世を名目的国王に迎えたが、実権は兄弟で握り、747年、兄の引退後は、全王国の宮宰として実力を振るった。国内有力者の支持と、教皇ザカリウスの承認のもとに、751年ヒルデリヒ3世を廃して王位につき、カロリング朝を開いた。司教ボニファティウスのライン川以東地域へのキリスト教布教を援助し、たびたび教会会議を招集して、教会改革を進めた。二度(754、756)にわたり、イタリアに遠征して、ランゴバルド王アイストゥルフを破り、ラベンナ大守領を奪って、これを教皇に寄進した(教皇領の起源)。また、バイエルン大公タシロ3世を討って、国王への臣従を誓わせ、ナルボンヌをイスラム教徒から奪回した。
[平城照介]
フランク王国アウストラシアの宮宰。カロリング家の祖。アウストラシアの豪族大ピピンの娘ベッガとメッツの司教アルヌルフの息子アンセギゼルとの間に生まれた。ノイストリアの宮宰エブロインと争い、テルトリーの戦い(687)でこれを破ったのち、ノイストリア、ブルグントの支配権をも掌握して、王国全体の実権を握った。アラマン人を討って、フランクの宗主権を認めさせ、フリーセン人を征服して、西フリーセンをフランク王国に併合した。またアングロ・サクソン・ミッションに援助を与え、教会改革を意図して、全国の教会会議を招集した。
[平城照介]
フランク王国アウストラシアの宮宰。アルデンヌ北方に所領をもった豪族の家門の出。クロタール1世死(561)後のフランク王国の内乱に際し、メッツの司教アルヌルフと結び、ブルンヒルトに対抗して、フレデグンデの息子クロタール2世を擁立し、全国統一を実現させた。娘ベッガをアルヌルフの息子アンセギゼルと結婚させ、2人の間に生まれたピピン(中)がのちにカロリング家の祖となった。
[平城照介]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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