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フス フスHus, Jan

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フス
Hus, Jan

[生]1370頃.ボヘミア,フシネツ
[没]1415.7.6. コンスタンツ
ボヘミアの神学者,宗教改革家。貧農の出で,1390年頃プラハ大学に入り,98年同大学教授,1401年同大学の哲学部長となり,同大学のチェコ化に尽力し,09年同大学総長となった。その間 02年に J.ミリチュの弟子たちが創立したプラハのベツレヘム礼拝堂の説教師となり,宗教改革,民族主義運動の指導的立場に立った。このため 10年破門され,ウィクリフの救霊予定説と民族自決の原理の放棄をコンスタンツ宗教会議で迫られたが拒否し,焚刑に処せられた。これがのちのフス戦争 (1419~36) の原因となった。フスには多数の宗教関係の著書があるが,チェコ語の正字法の改革,聖書のチェコ語訳の準備にも功績があり,民衆的な基盤に立つ宗教歌の導入にも功績があった。

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百科事典マイペディアの解説

フス

ボヘミアの宗教改革の先駆者。プラハ大学総長,同市ベツレヘム教会主任司祭。イギリスウィクリフの説に同調し,予定救済説をチェコ語で説き,熱狂的なチェコ民族主義を表明した。
→関連項目イラーセクコメニウスジギスムント宗教改革チェコ兄弟団プラハライプチヒ討論

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世界大百科事典 第2版の解説

フス【Jan Hus】

1370ころ‐1415
ボヘミアの宗教改革者。南ボヘミアのフシネツ村に貧農の子として生まれる。プラハ大学で神学を修め,1398年に同大教授に就任する。このころイギリスのウィクリフの改革思想に強く共鳴し,救霊預定説を唱え,聖職者,教会の土地所有,世俗化を厳しく非難した。1402年にはプラハのベツレヘム礼拝堂の主任司祭兼説教師に任命され,チェコ語による彼の説教は,民衆の心を巧みにつかんだ。彼は同時に聖書のチェコ語訳を行い,チェコ語の正字法も手がけるなど,チェコ人民族教育にも力を注いだ。

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大辞林 第三版の解説

フス【Jan Hus】

1370頃~1415) ボヘミアの宗教改革者。プラハ大学学長。ボヘミアの民族主義を背景に、ウィクリフの影響を受けて聖書中心の教説を展開し、世俗化した教会を批判。多くの支持者を得たが破門され、コンスタンツ公会議の結果火刑に処された。 → フス戦争

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フス
ふす
Jan Hus
(1369ころ―1415)

ボヘミアの宗教改革者。農民の生まれ。プラハ大学に学び、1398年同大学教授、1402~03年には学長を務めるとともに、02年からプラハのベツレヘム教会の主席司祭を兼ね、チェコ語による説教で市民に大きな感銘を与えた。ボヘミアにはウィクリフの著作が紹介され、フスも1398年ごろからその著作を読んでいたが、ベツレヘム教会での説教の当初はまだその影響はあまり認められず、道徳的革新に力点が置かれていた。しかし同僚チェコ人教授の間にはウィクリフ説を支持する者が多く、彼もしだいにその説に共鳴するとともに、聖職売買や聖職者の堕落を糾弾して、宗教改革運動の先頭にたつに至った。1409年プラハ大学で国民主義的な改革が実施され、彼はふたたび学長に選ばれたが、10年プラハ大司教はウィクリフの著作の没収と焼却を命じ、その命令を非難したフスとその一派を破門、それはいったん取り消されたが、12年ナポリ王に対する十字軍の戦費調達のための贖宥(しょくゆう)状(免罪符)販売を激しく批判して再度破門された。彼は南ボヘミアの貴族に保護されて、『教会論』De ecclesiaなどの著作に従っていたが、14年コンスタンツの公会議に召喚され、皇帝ジギスムントの通行安全証を与えられて同地に赴いたにもかかわらず、そこで逮捕投獄され、15年7月6日異端の宣告を受けて焚刑(ふんけい)に処せられた。
 フスの思想は、聖書に忠実であることを基本とし、教会の弊風刷新に重きを置いていて、化体説も否定せず、ウィクリフに比べて穏健であった。しかし教会論の著作ではローマ教会の優越的地位やローマ教皇の至上権は否定している。彼の教会批判はチェコ人の民族主義運動と結び付いて、広範な支持を受け、処刑後にはフス戦争が勃発(ぼっぱつ)した。[中村賢二郎]

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世界大百科事典内のフスの言及

【キリスト教】より

…またワルド派は,リヨンの富裕な商人だったワルドーが1176年の飢饉にさいして財産を貧者に与えて無一物となり,使徒的生活を人々に説いて回ったことから生まれたもので,多くの類似の運動を合わせ,時にはカタリ派をも引き込んで,ドイツ,イタリア,ハンガリーに進出した。この派は多くの説教師をかかえて長い間教会と対立しつづけ,15世紀にはフス派に合流したが消滅せず,じつにこんにちまで残っている。アッシジのフランチェスコは1207年に祭壇の十字架からの声にうながされて清貧と説教の生活に入り,教会と対立こそしなかったが,その修道会はドミニコ会と争いあい,のちにヨアキム・デ・フローリスの〈永遠の福音〉をうけつぐ聖霊派を生むことになった。…

【コンスタンツ公会議】より

… 教会改革についても幾つかの決議が採択されたが,重要だったのはボヘミア宗教紛争の解決であった。その中心人物フスは,皇帝の通行安全保証を得て,約30人の信者とともに14年11月公会議開催直前にコンスタンツに到着した。当初はなんの拘束も受けなかったが,反フス派聖職者の暗躍があり,彼はすでに破門され聖務停止下にあるにもかかわらず枢機卿に討論を要求したという口実で,皇帝が到着する前に逮捕され修道院に監禁された。…

【宗教改革】より

…しかもこの体制改革運動の背後には,俗権と教権の分離を唱える神学者オッカムらの新しい教会統治理念が働いていたが,カトリシズムの中心的な教義内容に対する批判にまで進むことはなかった。 第2は,〈宗教改革の先駆者〉と呼びならわされるウィクリフフスの改革運動である。彼らは,教権と俗権の分離や教会統治体制の変革にとどまらず,神の掟としての聖書を中心に据え,それに根拠をもたない教会の慣行・教義を批判したため,異端の烙印を押された。…

【チェコ】より


【自然】
国土はポーランド,ドイツ,オーストリア,スロバキアと国境を接する。ボヘミアは北西部のエルツ山脈(クルシュネー・ホリKrušnéhory),北東部のズデーテン山地(クルコノシェKrkonošeとオルリツケー・ホリOrlické horyからなる),西・南西部のボヘミアの森Böhmer Wald(チェスキー・レスČeský les,シュマバŠumavaからなる),南東部のモラビア高地(チェスコモラフスカー・ブルホビナČeskomoravská vrchovina)といった山地によって囲まれた盆地で,盆地内は全体に南から北へ高度を下げていく準平原と台地から成っている。ボヘミアの中央を南から北へブルタバ(モルダウ)川が流れ,北部でラベ(エルベ)川に注ぐ。…

【チェコ語】より

…ローマ字にない音にはč,š,žなどのように補助記号を用い,二つの文字を組み合わせて一つの音を示すことは(ch[x]を除いて)していない。この原則はチェコ中世の学者・宗教改革家J.フスの改革によっている。 チェコ語はa,e,i,o,uの五つの母音をもち,これには対応の五つの長母音がある。…

【チェコスロバキア】より

…1918年から92年まで続いた中欧の共和国。国名通称はチェコ語,スロバキア語ともČeskoslovensko。1920‐38年,1945‐60年の正式国名は〈チェコスロバキア共和国Českoslovká republika〉。1948年以後は社会主義体制をとり,60年からの正式国名は〈チェコスロバキア社会主義共和国Československá Socialistická republika〉。1969年よりチェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国の連邦制に移行したが,89年の〈東欧革命〉の進行過程で両共和国で連邦制の見直しが図られ,正式国名を〈チェコおよびスロバキア連邦共和国Česká a Slovenská Federativní Republika〉に変更した。…

【プラハ】より

… 15世紀と17世紀のヨーロッパ史上重要な宗教紛争はいずれもプラハを軸に展開した。すなわち,15世紀のフスの宗教改革運動の発端はプラハで,彼は旧市街のベツレヘム礼拝堂で,教会を非難し,聖書による福音を民衆に説いた。ドイツ人の支配していたカレル大学はチェコ人の握るところとなった。…

※「フス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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