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デジタル大辞泉
「フランコ」の意味・読み・例文・類語
フランコ(Francisco Franco y Bahamonde)
[1892~1975]スペインの軍人・政治家。ファランヘ党党首。1936年人民戦線政府に対して反乱を起こし、ドイツ・イタリアの援助で勝利を収め、1939年国家主席に就任して独裁政権を樹立。第二次大戦には中立を保ち、戦後は親米政策をとって、36年間に及ぶ長期政権を維持した。
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フランコ
Francisco Franco Bahamonde
1892~1975
スペイン,ガリシア地方出身の軍人,独裁者。1920年代にアフリカ戦線の功績で昇進。34年十月革命では鎮圧を指揮。36年7月アフリカ軍を率いて反共和国の軍部クーデタに参加。反乱軍側軍人のあいつぐ死去で陸海空軍総司令官となり,ついで国家元首,ファランヘ党の指導者となって,権力を掌中にする一方,反対勢力への弾圧を強化。ファシズム国家イタリアやドイツの援助でスペイン内戦を勝ち抜いた。第二次世界大戦ではヒトラーの要請に従って義勇兵「青い師団」を派遣したが,枢軸国敗北で路線を転換。ローマ教皇庁やアメリカとの関係を深めて国際的孤立期を乗り切った。体制右派内の多様な人材を状況に応じて登用し,「奇蹟の経済復興」をとげ,長期政権を維持した。
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フランコ
Franco Bahamonde, Francisco
[生]1892.12.4. ガリシア,エルフェロル
[没]1975.11.20. マドリード
スペインの軍人,政治家。海軍主計官の家に生れ,1910年士官学校卒業後,25年モロッコの反乱鎮圧に活躍し,31年共和政発足後,35~36年参謀総長に任命された。 36年2月成立した人民戦線政府によって左遷され,7月スペイン領モロッコで人民戦線政府打倒のクーデターを起し,スペイン内乱の口火を切った。同年 10月反乱側の政府首班兼最高司令官となり,39年3月内乱の終結とともに独裁的権力を不動のものとした。第2次世界大戦後,王政の復活を宣言,自身は終身国家元首の地位を確保し,独裁体制をゆるぎないものにした。 69年7月アルフォンソ 13世の孫,ドン・ファン・カルロス王子を国王に任命,みずからは後見人を宣言した。 73年6月国家元首と首相を分離し,首相の地位を C.ブランコ副統領に譲った。 75年 10月インフルエンザから心臓発作を起し,1ヵ月余の危篤状態を続けたのち死去,驚異的な生命力の持主といわれた。
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フランコ
Francisco Franco y Bahamonde
1892〜1975
スペインの軍人・政治家・国家元首(在任1947〜75)
軍人出身。1936年人民戦線内閣に反対してモロッコで反乱を起こし,ドイツ・イタリアの枢軸国の援助で39年マドリードを攻略。人民戦線内閣を倒し,「国民運動」を組織し独裁政治を樹立して統領となった。第二次世界大戦中,枢軸側を支持しながら中立を守り,戦後はアメリカに接近。1947年王位継承法を定めて,引退後スペイン王家の血統のものが政権をつぐこととし,66年12月国民投票で「新国家基本法」を成立させて首相を兼任,信仰の自由,議会の改組などを定め,西欧への接近を強めた。1969年にはファン=カルロスを新王政の国王に迎えると表明。1975年死去した。
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フランコ【Francisco Franco Bahamonde】
1892‐1975
スペイン内乱における右派国民戦線軍の指導者で,1936年10月1日から死去するまで国家首長として独裁政権を築く。ガリシア地方の海軍軍人の家庭に生まれた。1907年トレド陸軍歩兵学校に入学。25年スペイン領モロッコの反乱を鎮圧し少将に昇進。31年サラゴサ陸軍士官学校長の時の演説がM.アサーニャ陸相の反感を買った。34年10月アストゥリアス革命鎮圧の作戦を指揮。35年モロッコ方面軍司令官,統合参謀長に任命された。
フランコ【Ivan Yakovlevich Franko】
1856‐1916
シェフチェンコの次の時代を代表するウクライナの作家,社会運動家。オーストリア・ハンガリー二重帝国治下のガリツィア生れ。チェルヌイシェフスキー,ゲルツェン,マルクス,エンゲルスなどの精神を受けつぎ,ガリツィアの労働者の階級的・民族的解放の運動に共感を寄せ,そのため1877年,80年,89年と3度にわたって投獄された。ウィーン大学でスラブ学の泰斗ヤギーチ教授の指導を受け,93年博士号を獲得,リボフ大学の教職につくことになったが当局に却下された。
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世界大百科事典内のフランコの言及
【スペイン内乱】より
…それゆえに,軍事蜂起の主導権を握る可能性がある有能な軍人を左遷することにより,政府はUMEを牽制し不測の事態に備えていた。例えば,UMEには参加していないが,軍部の中では抜きんでた存在であった将軍フランコはカナリア諸島へ,同様にモロッコの駐屯部隊に属し,自由主義者であった将軍モラは伝統主義の傾向が強い北部のナバラ地方へ左遷された。ところが,反王政の立場にあったモラは,第二共和国の樹立後,王党派へ接近し,政府の思惑とは逆に,左遷の地で,蜂起の際の王党派とカルリスタの支援を取り付けていたのである。…
【ウクライナ】より
…ここではすでに1848年に農奴解放が行われ,60年代の改革で国会,地方議会も開設されて,まがりなりにも合法的なウクライナ人の活動が可能だったからである。ジュネーブで亡命生活を続けていたM.P.ドラホマーノフ(1841‐1895)やイワン・フランコ(1856‐1916)の活動によりガリツィアはしだいに民族運動の中心となり,〈ウクライナのピエモンテ〉ともいうべき重要な役割を演じることになった。90年,ウクライナ急進党がガリツィアで形成され,94年にはリビウ(リボフ)大学にウクライナ史の講座ができ,M.S.フルシェフスキーが教授となった。…
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