スペイン内乱における右派国民戦線軍の指導者で,1936年10月1日から死去するまで国家首長として独裁政権を築く。ガリシア地方の海軍軍人の家庭に生まれた。1907年トレド陸軍歩兵学校に入学。25年スペイン領モロッコの反乱を鎮圧し少将に昇進。31年サラゴサ陸軍士官学校長の時の演説がM.アサーニャ陸相の反感を買った。34年10月アストゥリアス革命鎮圧の作戦を指揮。35年モロッコ方面軍司令官,統合参謀長に任命された。36年2月の選挙で人民戦線派が勝ち,アサーニャが首相になると,カナリア諸島方面軍司令官に左遷された。この頃すでに共産主義の危険性と軍事蜂起の可能性を述べ,陰謀計画の集まりにも参加したらしい。36年春から夏にかけ,陰謀の中心人物エミリオ・モラ将軍と接触していたが,フランコが陰謀に直接関係していたかどうかについては,明らかでない。7月17日午後,メリリャで軍事蜂起が起こると,フランコは戒厳令下のカナリア諸島から18日,テトゥアンに向かい,19日朝5時,同地に到着し,アフリカ軍の指揮をとって軍事蜂起の指導者の一人となった。9月共和国軍に包囲されたトレドのアルカサル(王宮)を解放して一躍英雄となる。10月1日三軍総司令官と国家首長に選ばれ,軍事蜂起支持派を〈スペイン伝統主義ファランヘ党と国民サンディカリスト青年行動隊〉に統一し,のちのフランコ政権の母体をつくった。終始陣頭に立って指揮し,39年4月1日,内乱に終止符を打つ。39年7月31日の布告で,フランコ新体制はファランヘ党を中心とした〈国民運動〉として展開され,内乱左派を弾圧しつつフランコの独裁政治が敷かれることになった。その根本は全体主義的政治理論,文化的ナショナリズム,カトリック至上主義,自立経済主義にあった。
第2次大戦中,フランコは〈中立〉を表明したが,41年〈非交戦国〉として反共産主義の立場からドイツに義勇軍を送り,各国の批判を受けた。ヒトラーの圧力にもかかわらず再び〈中立〉をとったが,戦後46年国連は〈スペイン排斥決議案〉を採択し,加盟国は外交関係を断った。これに対し王宮前に約10万のスペイン国民が集まり,フランコ支持を叫んだ。フランコもこの孤立化を利用し,外面的な民主主義体制を整えるため国会(コルテス)を開き,スペイン国民憲章という基本法を発布。47年には国家首長継承法を公布した。しかし,米ソの冷戦が始まると,西側諸国は50年11月の国連でスペイン排斥を解除した。53年アメリカ合衆国に軍事基地を提供する代わりに,同国から軍事・経済援助を受け,ヨーロッパのキリスト教民主主義の動きにともない,バチカンともコンコルダートを結ぶ。55年国連に加盟し,その後数々のヨーロッパの機構に参加。これらはフランコが自立経済という孤立政策から自由主義的政策を採用し始めたことを示すものである。この後スペインはテクノクラート集団によって導かれ,彼らは産業ブルジョアジーを中心として工業育成を重視し,銀行の勢力が強まった。フランコは外国為替・外国投資を認め,観光政策もすすめた。〈経済発展〉を前面に立て,自己の体制強化,国民の非政治化をねらったのである。66年の出版法ではかなり言論を自由化し,同年フランコは行政改革を行い,国民投票で国家組織法が67年に発効した。69年7月22日フランコは国会で,自分の後継者でスペイン新王政の国王としてフアン・カルロス・デ・ブルボンを迎えると表明した。しかし73年12月20日フランコの側近で首相のカレロ・ブランコが暗殺されると,フランコ体制の矛盾が露呈し始めた。地方自治問題や,バスク地方を中心とするテロ事件,労働組合の拡大,もろもろの政治団体の承認,バチカンとの関係,ジブラルタル問題,スペイン領サハラの独立等の問題をかかえ,ECへの参加という大きな問題に直面しているさなかの75年11月20日,フランコは,その生涯を閉じた。
執筆者:フアン・ソペーニャ
シェフチェンコの次の時代を代表するウクライナの作家,社会運動家。オーストリア・ハンガリー二重帝国治下のガリツィア生れ。チェルヌイシェフスキー,ゲルツェン,マルクス,エンゲルスなどの精神を受けつぎ,ガリツィアの労働者の階級的・民族的解放の運動に共感を寄せ,そのため1877年,80年,89年と3度にわたって投獄された。ウィーン大学でスラブ学の泰斗ヤギーチ教授の指導を受け,93年博士号を獲得,リボフ大学の教職につくことになったが当局に却下された。オーストリア議会選挙にも3度進歩派を代表して出馬したが,議席を得られなかった。ウクライナ語,ポーランド語,ロシア語,ドイツ語などで書かれた作品,論文,パンフレットは約5000編にのぼる。代表作にゾラ風の手法で労資の抗争を描いた《ボア・コンストリクトル》(1878),投獄体験を描いた《どん底》(1880),ウクライナ人の運命を偉大な予言者に仮託して描いた長編詩《モーセ》(1905)がある。
執筆者:川端 香男里
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スペインの軍人、政治家。スペイン北西部ガリシア地方に海軍軍人の子として生まれ、トレドの士官学校で学ぶ。軍務の大部分をモロッコで過ごし、その間に先住民リフ人の反乱をフランス軍と協力して鎮圧した。32歳という異例の早さで将官に昇進し、1927年士官学校長となるが、1931年に共和政が発足すると閑職に遠ざけられた。1934年10月アストゥリアスの鉱山労働者の武装蜂起(ほうき)の鎮圧に手腕を発揮し、1935年陸軍参謀総長に就任した。1936年2月、人民戦線政府が成立するとカナリア諸島の総督に左遷されるが、同年7月他の反政府派将軍たちとともに軍事クーデターを決行し、モロッコに飛んで反乱の指揮にあたった。競争相手となるべき将軍たちの死亡という幸運もあったが、主としてその声望と手腕により1936年9月反乱軍の総司令官兼政府主席に就任した。共和政府側の不統一とドイツ・イタリアに助けられ内乱に勝利した彼は統領Caudillo(カウディーリョ)とよばれ、カトリック教、権威主義、コルポラティスムの基礎のうえに自らが党首であるファランヘ党の独裁制を樹立した。第二次世界大戦中は枢軸側をさまざまな形で助けたものの、ヒトラーの参戦要求を拒み通した手腕は並々でなく、それが自身の延命につながった。戦後スペインは国際的には一時孤立したが、冷戦の進展に助けられしだいに国際社会に復帰し、1955年国際連合に加盟した。国内では1947年の王位継承法により公式に王国を宣言して自らは終身摂政(せっしょう)に就任し、1969年にブルボン家のフアン・カルロス王子を後継元首に指名した。1960年代にはスペインもようやく経済成長の恩恵に浴し独裁の厳しさも緩和された。1975年にフランコが病死するとフアン・カルロスが即位し漸進的民主化が加速されることとなる。
[平瀬徹也]
ロシア、ウクライナの詩人、小説家、社会運動家。当時オーストリア・ハンガリー帝国の権力下にあったガリツィアの鍛冶(かじ)工の家に生まれ、民族独立運動の指導者の一人であった。民話や民謡の収集、研究に努め、愛国的、革命的な詩を書いた。民衆と指導者の関係を描いた『モイセイ』(1905)が代表作。『資本論』のウクライナ語への最初の訳者でもある。
[小平 武]
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1892~1975
スペイン,ガリシア地方出身の軍人,独裁者。1920年代にアフリカ戦線の功績で昇進。34年十月革命では鎮圧を指揮。36年7月アフリカ軍を率いて反共和国の軍部クーデタに参加。反乱軍側軍人のあいつぐ死去で陸海空軍総司令官となり,ついで国家元首,ファランヘ党の指導者となって,権力を掌中にする一方,反対勢力への弾圧を強化。ファシズム国家イタリアやドイツの援助でスペイン内戦を勝ち抜いた。第二次世界大戦ではヒトラーの要請に従って義勇兵「青い師団」を派遣したが,枢軸国敗北で路線を転換。ローマ教皇庁やアメリカとの関係を深めて国際的孤立期を乗り切った。体制右派内の多様な人材を状況に応じて登用し,「奇蹟の経済復興」をとげ,長期政権を維持した。
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…それゆえに,軍事蜂起の主導権を握る可能性がある有能な軍人を左遷することにより,政府はUMEを牽制し不測の事態に備えていた。例えば,UMEには参加していないが,軍部の中では抜きんでた存在であった将軍フランコはカナリア諸島へ,同様にモロッコの駐屯部隊に属し,自由主義者であった将軍モラは伝統主義の傾向が強い北部のナバラ地方へ左遷された。ところが,反王政の立場にあったモラは,第二共和国の樹立後,王党派へ接近し,政府の思惑とは逆に,左遷の地で,蜂起の際の王党派とカルリスタの支援を取り付けていたのである。…
…ここではすでに1848年に農奴解放が行われ,60年代の改革で国会,地方議会も開設されて,まがりなりにも合法的なウクライナ人の活動が可能だったからである。ジュネーブで亡命生活を続けていたM.P.ドラホマーノフ(1841‐1895)やイワン・フランコ(1856‐1916)の活動によりガリツィアはしだいに民族運動の中心となり,〈ウクライナのピエモンテ〉ともいうべき重要な役割を演じることになった。90年,ウクライナ急進党がガリツィアで形成され,94年にはリビウ(リボフ)大学にウクライナ史の講座ができ,M.S.フルシェフスキーが教授となった。…
※「フランコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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