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モスクワにあるオペラ・バレエ劇場。ソ連時代の正式名称はソ連邦国立レーニン勲章アカデミー・ボリショイ劇場。サンクト・ペテルブルグにもサンクト・ペテルブルグ・ボリショイ・ドラマ劇場があるが,単にボリショイ劇場という場合は,モスクワのこの劇場を指す。その起源は1776年にさかのぼるが,それは貴族の邸宅を借りてオペラ,バレエ,ドラマを演じる小一座にすぎなかった。これがやがて帝室劇場の管轄下におかれ,1825年モスクワ中央の現在地にボベーOsip(Iosip) Ivanovich Bove(1784-1834)の設計により新劇場が落成した。このとき〈大〉を意味する〈ボリショイ〉と名づけられた。19世紀初頭の帝政ロシアの国運の隆盛,国民的自覚の高まりを背景に,劇場は世紀の半ばには国民楽派の祖グリンカのオペラを上演し,また西欧バレエの新作を紹介するなど,ヨーロッパの大劇場に比肩するものとなった。しかし劇場は53年大火にあい,56年カボスAl'bert Katerionovich Kavos(1801-63)の設計になる現存のボリショイ劇場が完成した。以後サンクト・ペテルブルグのマリインスキー劇場とともにロシア音楽文化の発展に中心的役割を果たすことになった。とくに19世紀末から20世紀にかけては,折から輩出したロシア作曲家のオペラの上演,シャリアピン,L.V.ソービノフ,A.V.ネジダーノワら名歌手と,強力な合唱団,絢爛たる舞台美術,劇的迫力に富む新演出により,しだいにその声価を高めてきた。
けれどもボリショイ劇場が真に全世界の注目の的となったのは,1917年のロシア革命後,首都がモスクワに移るにともない,連邦政府直轄の劇場として強大な援助と栄誉をうけることになったからである。それは第2次大戦後のオペラ,バレエの全制作部門にわたる人材の集中によっても知られよう。1980年代前半には,管弦楽団総員250名,ソリスト歌手75名,合唱団170名,バレエ団250名,ミミック・アンサンブル100名,少年合唱団35名,舞台制作関係400名,管理部その他をあわせて総計約3000名であった。舞台の額縁が20.5m×17.8m,奥行き23.5m,観客席数は2150。上演目録はオペラ30編,バレエ20編より成り,毎シーズン3~4編の新演出があり,日替りで上演されている。なおボリショイ劇場は61年開場のクレムリンの大会宮殿(座席5803)を付属劇場として一体の運営にあたっていた。
執筆者:野崎 韶夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
モスクワにあるロシアの国立劇場の名称。ボリショイは「大」の意。1776年にエカチェリーナ2世の命でつくられたのに始まる。数度の火災による再建を繰り返し、現在の建物は1856年に完成(1958改修)。ラフマニノフ、アントン・ルビンシュテイン、チャイコフスキーらが自作を指揮したこともある、ロシアを代表するオペラとバレエの常設劇場で、専属の声楽家、合唱団、バレエ団、管弦楽団などを擁し、毎年9月から翌年の6月にかけて連日公演を行っている。客席数2150。1969年からはユーリー・シモノフが首席指揮者を務めた。付属のバレエ学校もあり、バレエ界に逸材を送り続けている。大改修のためしばらく閉鎖されていたが、ソ連解体後は財政危機のなかにありながらも、充実した公演を続けている。
[美山良夫]
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…1991年に旧称のマリインスキー劇場に戻った。劇場の歴史は1783年創立のペテルブルグのボリショイ(カメンヌイ)劇場に始まるが,バレエ団の起源はさらに古く,1738年開校の舞踊学校卒業生が宮廷舞踊劇に出演した42年とされている。外国人教師について西欧古典舞踊の技芸を習得したロシアの踊り手たちは,19世紀のはじめには自国の民族舞踊をとりいれた作品を上演するほどに成長したが,先進国に学ぶ姿勢は変わらず,教師と踊り手の国外からの招聘は19世紀末まで続けられた。…
…初演61年9月24日,モーツァルト《ドン・ジョバンニ》。 ボリショイ劇場Bol’shoi teatr,Moskva(正式名はソ連邦国立レーニン勲章アカデミー・ボリショイ劇場Gosudarstvennyi ordena Lenina akademicheskii Bol’shoi teatr SSSR.)1776年ウルソフとマドックスにより建てられたものが前身。1825年ペトロフスキー劇場からボリショイ劇場と改称,53年焼失,56年再建,建築設計A.カボス。…
…初演61年9月24日,モーツァルト《ドン・ジョバンニ》。 ボリショイ劇場Bol’shoi teatr,Moskva(正式名はソ連邦国立レーニン勲章アカデミー・ボリショイ劇場Gosudarstvennyi ordena Lenina akademicheskii Bol’shoi teatr SSSR.)1776年ウルソフとマドックスにより建てられたものが前身。1825年ペトロフスキー劇場からボリショイ劇場と改称,53年焼失,56年再建,建築設計A.カボス。…
…ロシアにおけるバレエは,17世紀の初めピョートル大帝が,ルイ14世を見習って舞踊を民衆の娯楽として採用したことに始まるが,エカチェリナ2世の時代(1762‐96)になって,フランスから多くの優秀な振付師,教師が招かれて急速に発展した。1847年にはフランスからM.ペチパが招かれ,ペテルブルグのボリショイ劇場,のちのマリインスキー劇場の振付師として画期的な名作を数多く上演し,この劇場を世界のバレエの中心とした。19世紀末になるとそれも終りを告げるが,死の灰の中から不死鳥が生まれるように,ディアギレフがマリインスキー劇場の若い舞踊家たちを集めて〈バレエ・リュッス〉を組織し,1909年パリで旗揚げをして大成功をおさめた。…
…ロシアのバレエ団。モスクワのボリショイ劇場所属。1776年につくられたオペラ,バレエ,ドラマを演ずる小さな一座を起源とするが,当初は専属の劇場をもっていたわけではない。…
…街区の整理はかなりすすんでいるが,それでもたとえばクレムリンに近いクズネツキー・モストやアルバート通りのような横町や裏通りは,狭い曲がりくねった街路と低い家並みに19世紀的な雰囲気をただよわせている。政府の中枢的な機関はクレムリン,キタイ・ゴロドとその周辺に集中しており,その付近には古くからのホテル,デパート,さらにはボリショイ劇場をはじめとする文化的な施設が多い。1971年から始まった総合発展25ヵ年計画にもとづき,工場などの産業施設はなるべく市外に移転させるとともに,人口の急増に対応すべく南西部のユーゴ・ザーパドなど,かつての郊外の随所に大規模な住宅団地がつくられ,10階以上のアパート群の建設がすすんでいる。…
…ソ連邦の舞踊家,振付師。ペテルブルグに生まれ,1922年レニングラード舞踊学校卒業,同地のマールイ劇場,キーロフ劇場の首席バレエ・マスターを経てボリショイ劇場の芸術監督(1944‐56,1960‐64)となった。彼は従来のおとぎ話や説話を主題としたバレエにかわる劇的真実をもつ写実的舞踊劇の創造をめざした。…
※「ボリショイ劇場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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