出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
インドの政治家。インドの独立を目ざした民族運動の指導者。ベンガル州の富裕な名家に生まれ,ケンブリッジ大学卒業。インド高等文官試験(I.C.S.)に優秀な成績で合格したが,たまたまマハートマー・ガンディーの呼びかけたインド政庁への非協力・不服従運動にこたえて,高等文官になることを辞退し,民族運動に参加した。たちまちベンガル地方の指導者D.C.R.ダースに認められてぬきんでた若手指導者となった。1924年インド国民会議派カルカッタ支部執行委員を皮切りに,運動中逮捕されて拘留中にもベンガル州立法参事会議員に選出され,さらにカルカッタ市長にも選ばれた。ネルーとならび,国民会議派内に台頭しつつあった左派勢力の指導者の双へきであり,28年インド独立連盟を結成してインドの完全独立を要求,長老に対抗した。彼の急進的傾向はガンディーにいれられず,38年,39年と2年連続で国民会議派議長に選出されながら,39年にはガンディーの圧力で辞任。この結果,急進的な〈フォワード・ブロックForward Bloc〉を結成した。第2次大戦中拘留されるが,41年保釈中に身をくらまし,ベルリンに逃れて,〈敵の敵は友〉として枢軸側と協力してイギリスと戦うことを呼びかけた。43年6月訪日し,10月には日本軍と協力してシンガポールに自由インド仮政府を樹立して首班となり,インド国民軍を率いてインパール作戦を日本軍とともに戦った。45年8月18日,東京に向かう途中,台北での飛行機事故で死亡。
執筆者:長崎 暢子
インド民族運動の指導者。日本に長く在住して〈中村屋のボース〉として有名。1908年ごろからベンガル民族運動を指導し,当時の風潮のなかでテロリズム系の運動を行う。12年,インド総督ハーディングに爆弾を投てきして負傷させたが,15年ラホール兵営反乱は失敗に終わった。15年,訪日し時を同じくして亡命中の孫文と邂逅し,知遇を得た。その年の11月,イギリスの圧力による国外退去令に際して,孫文,頭山満などの助けにより,中村屋主人の相馬愛蔵・黒光夫妻のもとに隠れた。その後相馬夫妻の長女俊子と結婚。41年太平洋戦争勃発とともに,インド独立連盟総裁としてインド国民軍結成のため日本に協力した。S.C.ボースの訪日およびS.C.ボースの自由インド仮政府の首班就任までは,日本軍と主体性を確保しようとするインド国民軍の板挟みとなって苦しむ。過労のため体調を崩し,東南アジアより日本に戻り,45年1月インド独立をみることなく没した。ボースの国外退去をめぐるいわゆる〈中村屋事件〉については,相馬黒光の自伝的随筆《黙移》に詳しい。
執筆者:長崎 暢子
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1897~1945
インドの政治家。ベンガルの出身。インド国民会議派左派の指導者として台頭。1938年,39年の2度,会議派議長に選出されたが,ガンディーと対立して会議派を離れた。第二次世界大戦中はドイツおよび日本と協力して独立を達成することをめざし,43年,日本軍の援助でシンガポールに自由インド仮政府を樹立,インド国民軍の総司令官となった。45年,飛行機事故のため台北で死去。
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