古代ギリシア古典期の代表的国家形態。一般に「都市国家」と訳される。ポリス(またはプトリスptolis)の語は、元来は小高い丘の頂に営まれた城砦(じょうさい)を意味していたが、ホメロスの英雄叙事詩では下町の都市的集落をさし、紀元前700年ごろのヘシオドス以降、田園に点在する村落に対する中心市を意味するとともに、中心市とその周辺に広がる田園村落地域とを一円的に包摂する共同体国家をも意味するようになった。古代ギリシア世界には、ギリシア人自身がエトノスethnosとよんだ種族国家ないしは部族国家が、主として発展段階の遅れた(あるいは発展過程のことなる)北および北西地方に存在し、そこでは中心市となる都市的集落がなく、独立性の高いいくつかの村落共同体が共通の祭祀(さいし)をもって政治的に一つにまとまっていた。農業生産に恵まれたテッサリアやマケドニアでは、このような部族国家を王が支配していた。しかし部族国家が連合体国家ないしは連邦国家としてギリシア史の表舞台に華々しく登場してくるのは前4、3世紀のことであって、このころ典型的な古代ギリシアの文化と政治の形成発展の場となっていたのは、ポリス共同体国家であった。
ポリス共同体国家成立の指標とされるのは前8世紀なかばの貴族政の出現であるが、この貴族連合政権の成立は、たとえばアテネでは英雄テセウスの集住(シノイキスモスsynoikismos)の伝説として後代に伝えられていた。小規模なポリスでは、田園の農民も実際に中心市に移り住んだものと思われる。中心市には、市民の政治生活の場として、中央市庁舎とか市民総会である民会の場としての広場(アゴラagora)などの公共施設、また国家祭祀の場としての諸神殿が造営され、その市域はしばしば小高い丘のアクロポリスの麓(ふもと)に広がる下町の形態をとった。このギリシア古代都市がヨーロッパ中世都市と基本的に異なる点は、その市域が城壁によって囲まれた場合でも、それは防衛の目的であって、城壁外に広がる田園地帯の住民が都市の住民から法的、身分的に区別されていたわけではないという点である。都市住民の市民も田園在住の市民も、市民である限りは同一の市民共同体の成員であって、共通の市民権を享受していた。市民権の内容に身分・階級による格差が設けられている場合でも、それは両者に平等に当てはまった。中心市で開催される民会には、田園の市民も参加した。都市、田園を一体の法領域とする典型的ポリス共同体の国家形態は、前8~前6世紀の大植民活動によって地中海沿岸各地に広く移植され、ポリスの数は飛躍的に増大し、数百を数えるに至った。
以上は理念型としてとらえた古代ギリシアのポリスであるが、具体的に個別のポリスを観察すると、先住の非ギリシア人を田園領域に定住させて一定の支配下に置くイオニア植民市の場合もあれば、弱小ポリスまたは部族国家を支配して複合体国家の体裁をとるポリスも存在した。シチリアのギリシア植民市には領域国家ともいえる超大国になったポリスさえあった。他方、ヘレニズム時代以前のスパルタは、アテネと並ぶ強大なポリスでありながら、その中心市に相当する集落は都市的景観を欠いていた。
貴族政に始まったポリス国家は、経済の発展を軸にした社会的変化に対応しながら、ポリスごとにさまざまな政治形態を体験した。アテネでは、前6世紀なかばに成立した僭主(せんしゅ)政が同世紀末には民主政に席を譲り、その半世紀後には徹底民主政が実現するという躍動的発展がみられたが、保守伝統的にならざるをえなかったスパルタにおいても政治構造上の民主化が進んだ。
前5世紀末以降はポリス社会は衰退の一路をたどったと説かれる。確かにペロポネソス戦争(前431~前404)の顛末(てんまつ)がもたらした国際政治の多極化、北辺のマケドニアの著しい台頭は、ギリシア諸国の国内政治情勢にも大きな影を落とし、内紛や局地的紛争が増幅されて政治の安定が失われる状況が頻発した。しかし、アテネの場合についていえば、前4世紀の相当期間について復原力を維持して、帝国支配の再現を志向する動きさえあった。前338年、マケドニアのフィリッポス2世にカイロネイアの戦いで敗北を喫しアテネのみならずギリシア諸国の政治的独立は失われたとはいえ、それでもアテネ市民団の伝統的な共同体的性格が一挙に崩壊したわけではない。たとえば、古代市民の基本的権利能力である土地所有の点で、市民団と在留外人などの非市民との間を厳然と隔てていた障壁が実質的に崩れ始めるのはマケドニア軍によるアテネ占領のころであって、ようやく前3世紀なかば以降にアテネのポリス的性格は急速に失われていったと思われる。都市という意味でのポリスの語は残ったが、政治の実権は富裕者層の独占となって民会は名目的な形骸(けいがい)と化し、市民権すら国家の名で売却されている事例をヘレニズムさらにローマ時代のギリシア世界にみいだすことができる。
[馬場恵二]
ニュー・ウェーブを代表するイギリスのロック・バンド。メンバーはスティングSting(1951― 、本名ゴードン・マシュー・サムナーGordon Matthew Sumner、ボーカル、ベース)、アンディ・サマーズAndy Summers(1942― 、ギター)、スチュアート・コープランドStewart Copeland(1952― 、ドラム)。ニュー・ウェーブ・シーンから出現した彼らだったが、スティングの優れた楽曲とバンドの卓越した演奏技術は、プロフェッショナルなミュージシャンシップに裏打ちされており、幾多のニュー・ウェーブ・グループとは異質の存在であった。
1978年にA&Mより『アウトランドス・ダムール』でデビュー、続いて『白いレガッタ』(1979)、『ゼニヤッタ・モンダッタ』(1980)と順調にリリースされた彼らの作品は、レゲエのリズムを巧みに取り入れた楽曲を緊張感に満ちたバンド・アンサンブルによって提示するものであった。その高い音楽性によって、ポリスはニュー・ウェーブの枠を超えて広く注目を集める。続く『ゴースト・イン・ザ・マシーン』(1981)は世界中でヒット、ラスト・アルバムとなった『シンクロニシティー』(1983)は大ヒット曲「見つめていたい」を含み、ポリスを代表する作品となった。
スティングによるポップな楽曲とレゲエ風のベース・ライン、サマーズのエレガントなギター・サウンド、そしてコープランドによる簡潔で的確なドラミングの取り合わせは「完璧なバンド・アンサンブル」とされ、イギリスのニュー・ウェーブ・シーンを代表するグループとの評価を得た。その時期のポップ・ミュージックのプロモーションにおいて大きな役割を果たしたアメリカの音楽専門チャンネルMTVの役割も大きかった。正確な演奏技巧とメンバーのフォトジェニックなルックスは、ビートルズの伝統を継承する正統的なロック・グループのイメージを強め、世界的な人気につながった。
1986年に解散し、メンバーは各々ソロ活動に入った。バンドの中心人物であったスティングはソロ転向後、ワールド・ミュージックの音楽家やジャズ・ミュージシャンたちとの交流を深め、『ブルー・タートルの夢』(1985)、『ナッシング・ライク・ザ・サン』(1987)、『ソウル・ケージ』(1991)などのアルバムを発表する。その後『テン・サマナーズ・テイルズ』(1993)でグラミー賞の最優秀男性ポップ・ボーカル賞を受賞。1990年代以降もAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)の代表的なミュージシャンとして活動する。またスティングは、1984年のエチオピア難民救済のチャリティー・コンサート「ライブ・エイド」に出演して以来、ブラジル熱帯雨林保護やアムネスティ・インターナショナルのためのキャンペーンに参加するなど、社会問題への関心も強い。
ポリス解散後のサマーズは『XYZ』(1987)を皮切りに『ミステリアス・バリケーズ』(1988)、『ザ・ゴールデン・ワイヤー』(1989)などを発表、フュージョン色の強い音楽を聞かせる。コープランドのソロ作品には『アニマル・ロジック』(1989)等がある。
[増田 聡]
『ウェンズリー・クラークソン著、平田良子訳『スティング――孤独のメッセージ』(1996・リットーミュージック)』▽『クリス・ウェルチ著、丸山京子訳『ザ・ポリス/スティング全曲解説』(1996・バーン・コーポレーション)』
古代ギリシア語で一般に都市や都市国家(非ギリシア人のものも含めて)を指す。歴史学の用語としては,前8世紀ころに成立し,前5世紀を頂点として繁栄したギリシア人の特有な都市国家を意味する。青銅器時代にはギリシア各地に王国が割拠していたが,前11世紀ころ,鉄器時代に入るとともにそれらは崩壊し,王家が存在した場合でも弱体化して,貴族政が支配的になる。この頃,貴族が中心となり,一般自由民の潜在的主権を背景として,小規模な国家が各地に形成されたらしい。これがポリスであり,外形的には中心に町があり,それを囲んで領土があるが,最も広い場合でも日本の県ほどの広さであった。町の中心にはアクロポリスやアゴラがあり,行政,経済,宗教の中心ともなっていた。町の周囲には城壁が築かれることが多く,戦時には町の外の農民なども,ここへ避難する。最初は行政,司法,祭儀などを貴族が担当したが,前6世紀ころ,商工業の活発化に伴い党派抗争が発生し,非合法の独裁政(僭主政)が成立することもあった。その間に一般自由民が市民として発言権を高め,前5世紀には,貴族と抗争を続けたり,完全な民主政へと進んだりする。以前は貴族や有産階級に限られていた重要な役職も,しだいに一般市民にまで開放され,民会(市民総会)の権限が強化されたので,有能な指導者を欠く場合には衆愚政治に堕する危険があった。
このように,しだいに民主化される傾向はあったが,参政権はあくまで世襲的な市民の成年男子に限られ,メトイコイ(在留外人。多くは商工業に従事する)や奴隷は除外されていた。したがって市民の地位は特権的なものであり,また直接民主政という必須の条件があったから,市民数には限度があった。最も多いアテナイの場合でも,成年男子市民は3万~4万人程度であり,理論的には数千人程度が理想と考えられた。
古代ギリシアの盛時には,このようなポリスがギリシア本土やエーゲ海地域ばかりでなく,植民活動の結果として,黒海沿岸やイタリア南部,シチリア島,フランスやスペインの南岸などにも分布していた。その数は数百から千数百にも及んだはずであるが,地理的条件や歴史的条件に制約されて,規模や形態や社会構成は多様であった。独立自治を原則としたが,実際には多少とも従属的な地位に落ちていたものも多い。したがってポリスの数を数えることは不可能なことである。その歴史や機構が詳細に知られるのは,アテナイとスパルタという例外的に大きいポリスだけに限られ,しかも両者は多くの点で対照的に異なっていたのである。ポリス相互間には多少の抗争は絶えず発生していたが,前5世紀後半ころから,これが大規模化し,長期化する。さらにポリス内部にも貴族派と民主派との抗争があった。このようにして分裂しているうちに,北方のマケドニアに征服され,ヘレニズム時代に入るが,ギリシア世界の多くのポリスは依然として多少の独立を保っていて,自治的活動は続けた。
→都市国家
執筆者:藤縄 謙三
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古代ギリシア人の都市国家。polisの語は本来外敵に対し防御,避難に適する丘を意味した。ギリシア人の都市国家はこのような丘を持つ中心市(アステュ〈asty〉)を軸に形成されたので,周囲の領土を含め国家全体がポリスと呼ばれた。古代社会のなかでポリスに似たものとしては共和政初期のローマがあげられるのみで,都市国家と呼ばれるもののなかでもポリスは独特の性格を持っている。それは前750年頃から成立し始め,法制的には長期にわたって完成された。ポリスは内部の社会構成によってスパルタ型とアテネ型の二つに分けることができる。前者はスパルタとかクレタ島にできた多数のポリスのように,ドーリア人が先住民を征服し,これを奴隷身分におとしいれて形成した国家であり,少数の市民は征服後,割り当てられた世襲地(クレーロス〈kleros〉)を奴隷身分の世襲的農民に耕作させた。この型のポリスでは市民の戦士共同体的性格が特に強かった。一方アテネ型では,征服・被征服に由来する社会階級の対立はみられず,初期には,広義の市民と呼ぶべき共同体成員の間に,貴族と平民の身分的な差異が顕著で,政権は貴族が独占した。しかし重装歩兵戦術の普及とともに中小農民の政治的地位が向上し,さらに前5世紀以降,軍艦漕者としての無産市民の発言権の増大により民主政ポリスの段階に到達した。その頃には,初期には少なかった購入奴隷が家内奴隷として,また工業生産のために多く使われ,市民と在留外人(メトイコイ)の身分的差別も確立した。アテネの例でみると,市民共同体としてのポリスの排他性はソロンの頃にはまだゆるく,民会が前451年に,両親ともアテネ人たる者のみをアテネ市民とする,と決議したとき,排他性が極まって,ポリスは法制的に完成した。
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…明治初年の警察官。ポリスpoliceの訳語で巡邏する卒の意味。1871年(明治4)10月東京府で3000名の邏卒を設けたのが最初。…
…コンピューターを組み込んだ電子楽器の長足の進歩もあって,例えばリズムのパートはすべて機械にゆだねるといった演奏形態が急速に広まり,グループを組んで人間関係にわずらわされるよりも,1人でスタジオにこもり,機械相手に音を組み立てたほうが存分に自己の個性を伸ばせる,と考えるミュージシャンが増え,グループのメンバー同士で触発しあうといった集団性や身体性が失われ,ロックの本質が崩壊の危機に直面しているようにも思われる。 そんななかで,アメリカのトーキング・ヘッズTalking Headsのように黒人音楽のダンス感覚を取り入れて知的感性と身体性の統合を図ろうとしているグループもあり,ポリスThe Policeのようにエレクトロニクスを援用しながらも,メンバー相互間の緊張関係のなかで研ぎすましたシャープなロックを作り出しているグループもあって,1980年代半ば以降のロック界は,先行きの読みにくいこんとんとした状況のなかにある。【中村 とうよう】。…
…このうちビザンティン文化はギリシア正教を精神的支柱として今日まで民衆の生活の中に脈打っている。古代文化は,ギリシア語とギリシア文字としてギリシア人の歴史全体を貫いているが,ポリス政治の中で発達した直接民主政や多神教の宗教思想のような古代に特徴的な生活規範は今日ではまったく消え去っているといってよかろう。もとより古典演劇は今日でも現代風演出のもとで古代劇場において催されているし,古典古代文化の研究は,文学,哲学から歴史学,考古学,碑文学,さらには音楽の復元に至るまで盛んに行われているが,民衆の生活意識の中に古代が生きているといったようなものではない。…
…この意味での公共,すなわち公的領域は,私的領域に対立して人間生活の一半を構成する。それが典型的に成立したのは,ギリシアのポリスにおいてであった。H.アレントによれば,公的なものとは,万人によって見られ,聞かれ,かつ評価される存在を意味する。…
…バビロニアやアッシリアにおいて高度に発達した商業は,強力な国家の支配する管理貿易や朝貢貿易の形をとっていたが,そのなかから芽生えた市場交易は東地中海において発達した。ギリシアのポリスは,ほとんどすべて海岸やそれに近接した地域に建設されたことからわかるように,遠隔地貿易と密接な関係があった。前7世紀ごろに金属貨幣が発達したのもこの地域であった。…
…ギリシア語ではアポイキアapoikia,ラテン語ではコロニアcoloniaという。西洋の古代文明は主として都市の文明であったが,とりわけギリシアではポリスと呼ばれる多数の都市国家を基盤として文明が盛衰した。ポリスは前8世紀ころにギリシア本土や小アジア西岸で成立するが,そのうち特に活発なポリスは以後200年間に多くの植民市を建設する。…
…古い大都市周辺部の衛星都市がそれぞれ膨張して,市街地が連接するようになったことである。第3には,巨大都市といくつかの大都市がその都市圏を連接し,一つの共通都市圏を形成するにいたったメガロポリス(巨帯都市)の誕生である。アメリカ合衆国北東部のボストンからニューヨークを経てフィラデルフィアに至る地帯に名づけられた名称であるが,ライン・ルール,ロンドン・バーミンガム,シカゴ・シンシナティ,ロサンゼルス,東京・大阪などもメガロポリスの性格をもっているといわれるようになった。…
※「ポリス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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