改訂新版 世界大百科事典 「ポーロ」の意味・わかりやすい解説
ポーロ
Marco Polo
生没年:1254-1324
中世ベネチア共和国の市民。その先祖は11世紀のころダルマティアから移住したと伝えられるが,正確にたどれる家系は祖父までである。ベネチア移住からマルコの代まで数世代を経て,父ニッコロ,叔父マッテオの兄弟は東方貿易に従事する商人であった。当時ベネチアはジェノバと並んで東方貿易で繁栄し,その商線はシリアから黒海を縦断してクリミア半島に達していた。1260年商用でコンスタンティノープルにいたニッコロ兄弟は商利を追ってクリミアを越え,さらにボルガ下流に位するキプチャク・ハーン国の首都サライに達した。だがおりから突発したキプチャク,イル両ハーン国の戦争で帰路を断たれた。やむなく迂回行路をとって中央アジアのブハラに至って待機する間,たまたま元朝に向かうイル・ハーン国の使臣に誘われるまま随行して元朝廷に至ったのは64-65年の交である。世祖フビライ・ハーンに面謁した兄弟はローマ教皇に有識の宣教師派遣を求めるハーンの親書を託されて帰路につき,69年4月シリアに着いた。おりあしく教皇クレメンス4世の訃に当たったので一応ベネチアに帰って新教皇の選立を待ち,70年末,当時16歳の息子マルコを伴い再度の東方旅行に出発した。
しかるに新教皇グレゴリウス10世の派遣した2名の宣教師はアルメニアの戦乱で前途を放棄したため,ポーロ家の3名によるハーンへの復命旅行が始まり,3年あまりを経た1274年(至元11)の春夏の交に内モンゴルのドロン・ノールに位置する元朝の夏の都である上都に到着した。彼らは元朝のいわゆる色目人に属し,かつ困難な使命を果たした功労者でもあるので,以後ハーンに仕えて中国に滞在すること17年,その間マルコは揚州(江蘇省江都県)地方の総督に任ぜられ,あるいは命を奉じて遠くは雲南,チャンパ(南ベトナム)にまで出使し,その足跡は広く中国本部の11省にわたっている。この見聞が彼の旅行記の6割を占める豊富貴重な元朝中国に関する報告となったのである。揚州における彼の任官に関しては文献の疎漏から中国史料によって後づけられないが,さいわいにも泉州港(福建省晋江県)より海路帰国の途につく段については元朝公文書が明確な記載を残している。至元末年イル・ハーン国第4代アルグーン・ハーンの妃を求めて元朝に派遣され来った使臣に同伴してマルコ父子はその帰国を許されるのであるが,この一行が90年末に泉州を出帆した次第が《経世大典》の残簡中に見いだされるからである。南シナ海,インド洋,アラビア海を経てホルムズに上陸したマルコ父子はイランを縦断して黒海経由で故国に帰還したのは95年,まさに通年計算で26年間の東方大旅行であった。
帰国後ほどなき98年,貿易上の競合関係にあったベネチアとジェノバの間に戦端が開かれるや,マルコは従軍してガレー船艦長の指揮顧問官となったが,クルゾラ沖の海戦に敗れてジェノバの獄につながれた。この間,同室の囚人ピサの物語作者ルスチケロに旅行内容を口述したのが《マルコ・ポーロ旅行記》(《東方見聞録》)の祖本である。彼の旅行は球体としての地球世界がまだ認知されていない中世人の平面的東西世界を,北回りの陸路と南回りの海路で周回した最初の体験であるとともに,その体験を記録に残したという点で,とくに重要な意味をもつ。
執筆者:愛宕 松男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報