現在のマレーシアの前身をなし,1948-57年はイギリスの植民地,57年独立,63年にマレーシア連邦となる。マレー半島とボルネオ島北西部は第2次大戦前はイギリスの植民地であったが,その行政は海峡植民地,マレー連合州,非連合州などに分かれ,複雑であった。そこで戦後イギリスはこれらの地域を統一して独立を供与することとし,その基本構想としてマラヤ連合Malayan Union案を提示した。これはシンガポールを除くマレー9州とペナン,マラッカを統合し,住民に対してはその出身を問わずに平等の権利を与えようとするものであった。これに対して従来さまざまな形で保護を受け,しかも日本軍占領時代に優遇されたマレー系住民は既得権の侵害を恐れて反対し,1946年連合マレー人国民組織(UMNO)という政党を結成した。イギリスはこれにこたえて,各州スルタンの権限を強化するとともに,非マレー系住民の市民権取得を困難にし,48年2月1日にマラヤ連邦を発足させた。これに対して中国系住民の不満が生じ,同年2月末からマラヤ共産党の反乱が起こった(1960まで)。イギリスは効果的な対ゲリラ作戦を実施する一方,中国系住民にも政治参加の機会を与えることで対処した。49年中国系住民の政党としてマラヤ中国人協会(MCA)が結成され,中国人の利益を代表する政党となった。
UMNOの指導者アブドゥル・ラーマンはイギリスとの交渉を通じて完全独立をめざし,57年8月31日マラヤ連邦は完全独立を達成した。しかし単にマレー半島,ボルネオ北西部の独立にとどまらず,彼はシンガポール,サバ,サラワク,ブルネイを打って一丸とするマレーシア連邦の結成をめざした。その結果,63年9月16日,ブルネイの参加が得られなかったものの,マレーシア連邦が発足し,マラヤ連邦は解消した。
執筆者:生田 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
第二次世界大戦までイギリス領マラヤと総称されたマレー半島地域のイギリス植民地のうち,シンガポールを除いた地域が1957年8月にイギリスから独立して形成した国家。独立交渉の過程で指導力を発揮したマレー人政治家トゥンクー・アブドゥル・ラーマンが首相に就任した。その後,このマラヤ連邦は,シンガポール,ボルネオのイギリス植民地のサラワク,北ボルネオを加え,1963年9月にマレーシアを結成した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…イギリスは特殊部隊を組織し,主として中国人から成り,マラヤ共産党の指導下にあるマラヤ人民抗日軍を援助したが,その活動は限られたものであった。
[マラヤ連合からマラヤ連邦へ]
1945年8月15日の日本の無条件降伏は,イギリスにとって予想外のことであった。このためイギリス側には的確な状況判断がないままにマラヤに復帰することとなり,戦後の処理にも不手際が続き,住民の信用を失った。…
※「マラヤ連邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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