1872年7月(明治5年6月),ペルーの帆船マリア・ルースMaria Luz号が,ポルトガル領マカオで中国人労働者(苦力(クーリー))を乗せてペルーに向かう途中,修理のため横浜に寄港した際,同港内で,中国人労働者の一人が虐待に耐えかねて船外に逃れ,イギリス軍艦に保護された。イギリス側から同人の引渡しを受けた日本政府は,マリア・ルース号の出港を禁止するとともに,船長を訴追し,神奈川県権令大江卓は虐待行為につき有罪(執行猶予)を宣告した。他方,船長と移民業者は,中国人労働者に契約履行を求める訴えを提起したが,神奈川県権令は奴隷輸出契約が公序良俗に反することをおもな理由に請求を棄却した。ペルーはこの措置を国際法上違法と論じ,適法性を主張する日本側と対立したが,両国の交渉の結果,73年6月に仲裁契約を結び,ロシア皇帝アレクサンドル2世を裁判官とする仲裁裁判に事件を付託した。ロシア皇帝は,75年6月に,日本側の主張を認める判決を下した。本件は日本が当事者となった国際裁判の最初の事例である。なお,この事件に関連して,ペルーが日本の娼妓(しようぎ)制度を人身売買と弁じたことにより,1872年10月太政官布告〈娼妓解放令〉を生む契機となった。
執筆者:牧田 幸人
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…71年〈穢多非人廃止建白書〉を民部大輔大木喬任に提出。72年神奈川県権令となり,外務卿副島種臣の命をうけて,横浜に寄港したペルー国汽船マリア・ルース号の中国人苦力虐待問題の裁判長となり,奴隷売買は人道に反すと判決して苦力231名全員を本国に送還さす(マリア・ルース号事件)。74年大蔵省に出仕したが翌年辞職。…
…これは抱主(かかえぬし)が遊女,芸者等に対する人的支配を完全にする方法であり,親元へは養育料などの名目で対価が支払われた。 1872年(明治5),ペルーの清国人奴隷貿易船マリア・ルース号が横浜に入港したことに端を発する裁判で,ペルー船の弁護人は,日本ではより過酷な契約が行われているとして娼婦の契約書を法廷に出した(マリア・ルース号事件)。諸外国注視のなかで,日本では国家が人身売買を公認していると指摘されたことは,不平等条約の改正を企図している政府には痛恨事であった。…
…フジモリの支持率は70%を超し,95年の大統領選では,〈ペルーのための連合〉から擁立されたデクエヤル前国連事務総長を破り再選を決めた。【遅野井 茂雄】
【日本との関係】
すでに17世紀初めに日本人の存在したことが文書で認められているが,両国の正式な関係は,1872年の〈マリア・ルース号事件〉の処理を契機として,その翌年調印される通商友好仮条約をもって始まる。その後1899年4月3日,第1回の日本移民790人が〈佐倉丸〉でカヤオ港に到着して以来,両国の関係は新たな展開を遂げた。…
※「マリアルース号事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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