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マルティーニ Martini, Fausto Maria

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マルティーニ
Martini, Fausto Maria

[生]1886. ローマ
[没]1931. ローマ
イタリアの詩人,劇作家,劇評家,小説家。コラッツィーニと並び「たそがれ派」の一人に数えられる。コラッツィーニの夭折に際し,詩集『小さな死』 Le piccole morte (1906) や『片いなかの詩』 Poesie provinciali (10) を著わした。『トリブーナ』や『ジョルナーレ・デ・イタリア』誌に拠って劇評を発表。小説の代表作『ニューヨーク上陸』 Si sbarca a New York (30) 。

マルティーニ
Martini, Ferdinando

[生]1841. フィレンツェ
[没]1928. モンスンマーノ,バルディニエボレ
イタリアの政治家,劇作家,評論家,小説家。文相 (1892~93) ,植民地相 (1915~19) などを歴任し,かたわら文芸の振興に尽した。主著『侯爵夫人』 La marchesa (1877) ,『まむし』 La vipera (1906) 。

マルティーニ
Martini, Giovanni Battista

[生]1706.4.24. ボローニャ
[没]1784.10.4. ボローニャ
イタリアの作曲家,音楽理論家。パドレ・マルティーニとも呼ばれた。 1725年にボローニャのフランチェスコ聖堂の楽長となり,かたわら音楽史,音楽理論を研究。 N.ヨメリ,J. C.バッハ,G.サルティらを教えた。音楽関係の収集図書は1万 7000巻をこえ,ウィーン王立図書館 (のちのオーストリア国立図書館) とボローニャ市に遺贈された。主著は未完の『音楽史』 Storia della musica (3巻,1757~81) ,『対位法譜例集』 Saggio di contrappunto (2巻,74~75) 。

マルティーニ
Martini, Jean Paul Egide

[生]1741.9.1. フライシュタット
[没]1816.2.10. パリ
ドイツ生れのフランスの作曲家。 1760年ナンシーに移住,64年パリに行き軍楽とオペラの作曲で成功を収め,コンデ公やアルトア伯に仕えた。『愛の喜び』ほかのロマンスの作曲家として知られる。

マルティーニ
Martini, Martino

[生]1614. トリエント
[没]1661.6.6. 杭州
イタリアのイエズス会士。中国名は衛匡国。明末の崇禎 16 (1643) 年に布教のため中国到着。動乱期の中国を巡回し,杭州に滞留。のち典礼問題をめぐる意見開陳のためローマ教皇庁におもむき,順治 16 (59) 年再び中国に来て没した。著書に『韃靼 (だったん) 戦記』 (54) ,『中国史初編』 (10巻,58) など,また漢文の著書に『天主理証』『霊性理証』などがある。

マルティーニ
Martini, Simone

[生]1285頃.シエナ
[没]1344.7. アビニョン
イタリア,シエナ派の代表的画家。初期の活動は不明であるが,同派の創始者ドゥッチオに学んだと思われ,ビザンチン美術の伝統にフランス・ゴシック様式を取入れ,流麗な描線と魅惑的な色彩を駆使して情緒的で物語性に富むシエナ派の画風確立した。 1340年頃,教皇の詔命でフランスのアビニョンにおもむき,同地のゴシック的伝統にシエナ派の甘美な画風を交流させ,独特のアビニョン画派を形成,国際ゴシック様式の流行の端を開いた。同地では詩人ペトラルカと親交を結び,その画業を高く評価される一方,彼もウェルギリウス本扉絵 (ミラノ,アンブロジアーナ図書館) を残している。作品『マエスタ』 (1315,シエナ,パラッツォ・プブリコ) ,『ロベール・ダンジューの戴冠図』 (17,ナポリ国立美術館) ,『聖マルティーノ伝』 (アッシジサン・フランチェスコ聖堂) ,『グイドリッチオ・ダ・フォリアーノの騎馬像』 (28,シエナ,パラッツォ・プブリコ) ,『聖告』 (33,ウフィツィ美術館) 。

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デジタル大辞泉の解説

マルティーニ(〈イタリア〉martini)

マティーニ」に同じ。

マルティーニ(Simone Martini)

[1284ころ~1344]イタリアの画家。ゴシック様式に優美な装飾性、情緒的な表現を加え、シエナ派の画風を確立。作「聖告」など。

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百科事典マイペディアの解説

マルティーニ

イタリアのシエナ派を代表する画家。シエナ生れ。従来のビザンティン様式を捨てて,北方ゴシック様式をとり入れ,ジョットの緊密な構成とドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの柔らかな色彩を総合して甘美で情緒のある宗教画を描いた。

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世界大百科事典 第2版の解説

マルティーニ【Simone Martini】

1285ころ‐1344
イタリアの画家。シエナ生れ。シエナ派の祖ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャに師事し,同派の最も重要な画家となった。師の流麗な線と華麗な色彩感をいっそう発展させ,純化された描線と洗練の極に達した色彩をその様式の特質とする。このような特質にもかかわらず彼の画面が現実とかけ離れた装飾性に堕することがなかったのは,主として次のような理由によると思われる。第1に人物が役割や場面に応じて微妙な心理的陰影に富む表情やポーズを示していること,第2に衣服の図柄や材質が克明に再現されていること,そして第3に遠近法が15世紀初頭の線的遠近法の確立以前にしてはきわめて的確に適用されていることである。

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大辞林 第三版の解説

マルティーニ【martini】

マルティーニ【Simone Martini】

1284頃~1344) イタリアの画家。シエナ派の代表者。晩年アビニョン教皇庁宮廷画家となり、独特のゴシック様式を形成。

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世界大百科事典内のマルティーニの言及

【国際ゴシック様式】より

… 国際的交流は,1320年代すでにジョットにはじまるイタリア絵画の革新の影響として,空間の存在を暗示する立体感や遠近感表現の画面への導入や,感情表現に示される人間解釈の深化がアルプス以北の作品に散見されることから立証されているが,14世紀中葉,教皇の都アビニョンと皇帝の都プラハでの造営事業を通じて本格化する。アビニョンに集まった工人の出身地は多彩であるが,S.マルティーニ,ジョバネッティMatteo Giovanetti(生没年不詳)などシエナ派の画家が招かれ教皇庁壁画,祭壇画,写本挿絵制作などに活躍し,アビニョンを中継地としてシエナ派の影響が国際的に波及した。プラハでもカール4世が,地元のみならずフランス,ドイツ,イタリアから工人を招き,大聖堂やカールシュタイン城を造営した。…

【ゴシック美術】より

…ジョットはアッシジ,パドバ,フィレンツェ(サンタ・クローチェ教会)の壁画において,このような現実感のこもった劇的な宗教芸術を実現したのであった。フィレンツェのジョットとその門人たちの活動に対し,ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ,マルティーニおよびロレンツェッティ兄弟らのシエナ派の活動もめざましかった。ドゥッチョらはビザンティン絵画の伝統をおしすすめ,精巧な技巧をもって,現実感に裏づけられた中世宗教画の美を発揮する。…

【シエナ派】より

…13世紀にはすでにグイード・ダ・シエナGuido da Sienaのような画家が現れるが,真にこの派の基礎を確立したのは,ジョットと同時代のドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャが登場してからである。彼は東方のビザンティン美術と北方のゴシック美術を摂取・融合して,繊細な形態を線のリズムが包む甘美で抒情的な画風をつくり上げ,さらに弟子のシモーネ・マルティーニが,よりソフトで優雅な装飾性の濃い絵画へと発展させた。この時期のシエナ派絵画は,フィレンツェ派と並んで,イタリア各地に強い影響を及ぼした。…

※「マルティーニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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