ムラビヨフ(その他表記)Nikita Mikhailovich Murav'yov

デジタル大辞泉 「ムラビヨフ」の意味・読み・例文・類語

ムラビヨフ(Nikolay Nikolaevich Murav'yov-Amurskiy)

[1809~1881]ロシア軍人政治家。1847年、東シベリア総督となり、アムール川地方を占領し、河口にニコライエフスク‐ナ‐アムーレを建設。また、1858年、愛琿アイグン条約を結んでアムール川以北をロシア領とし、ロシアの極東進出に尽力した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ムラビヨフ」の意味・わかりやすい解説

ムラビヨフ
Nikita Mikhailovich Murav'yov
生没年:1796-1843

ロシアの貴族出身のデカブリストモスクワ大学に学んだあと,1813年からナポレオン戦争に参加した。16年デカブリストの最初の秘密結社である〈救済同盟〉の設立に参加,のち,それに代わる〈北方結社〉の有力なメンバーとなり,将来のロシアの憲法ともいうべき〈ムラビヨフの憲法Konstitutsiya N. Murav'yova〉の草案を作成した。これは立憲君主制,農奴解放,法の前での万人の平等,言論・出版・信教の自由などをうたったものであった。25年12月14日のデカブリストの蜂起の当日は地方に行っていて蜂起には参加しなかった。蜂起失敗後の裁判により,最初死刑の判決を受けたが,20年の苦役に変更された。35年までネルチンスクの鉱山で苦役,その後イルクーツク県へ流刑となり,そこで死んだ。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムラビヨフ」の意味・わかりやすい解説

ムラビヨフ
Murav'ëv, Nikita Mikhailovich

[生]1796.7.30. モスクワ
[没]1843.5.10. イルクーツク,ウリコフスカヤ
ロシアの軍人,近衛大尉,デカブリスト。 1813~14年ヨーロッパにおける対ナポレオン戦に参加。 16年デカブリストの最初の秘密結社「救済同盟」の設立者の一人となり,21年「北方結社」のメンバーとなった。 22~25年未来のロシアの憲法の草案 (N.ムラビヨフの憲法) を起草,立憲君主制を意図した。デカブリストの蜂起のとき首都に不在で参加しなかったが,捕えられてシベリア流刑となり,この地で没した。

ムラビヨフ
Murav'ëv, Mikhail Nikolaevich

[生]1845.4.19. ペテルブルグ
[没]1900.6.21. ペテルブルグ
ロシアの外交官,政治家。伯爵。ロシアの極東政策を推進し,日露戦争勃発を招いた。 1864年外務省に入り,97年外相。満州 (現中国東北地方) への進出のためには遼東半島の旅順と大連の制圧が先決としてこれを奪取する政策を実施。 98年中国と協定を結び,旅順-ハルビン,ハルビン-ウラジオストク間の鉄道を敷設。イギリスとは互いに勢力範囲を設定して事なきを得たが,ロシアの朝鮮半島に対する脅威を恐れた日本とは関係が悪化,日露戦争を招来した。

ムラビヨフ
Murav'ëv, Nikolai Nikolaevich

[生]1809.8.23. ペテルブルグ
[没]1881.11.30. パリ
ロシアの軍人,将軍。伯爵。 1847~61年イルクーツク,エニセイ県知事,東シベリア総督。 54~55年アムール川遠征隊を指揮し,58年中国との間に愛琿条約を結んだ。この功績によりアムールスキー伯の称号を受けた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムラビヨフ」の意味・わかりやすい解説

ムラビヨフ(Nikita Mihaylovich Murav'yov)
むらびよふ
Никита Михайлович Муравьёв/Nikita Mihaylovich Murav'yov
(1796―1843)

ロシアの軍人、デカブリスト(十二月党員)の1人。名門貴族の家に生まれる。モスクワ大学卒業後、1813年から軍務に服した。16年デカブリストの最初の秘密結社「救済同盟」の設立に参加し、「福祉同盟」のメンバーを経て、21年に創設された「北方結社」の指導者の1人となる。彼は比較的穏健な自由主義的立場から、将来のロシアの憲法草案をつくり、立憲君主制を志向したが、ルイレーエフら急進的な同志に反対された。12月14日の蜂起(ほうき)の際には首都ペテルブルグにおらず参加しなかったが、のち逮捕されてシベリア徒刑となり、イルクーツク県で死去した。

[外川継男]


ムラビヨフ(Nikolay Nikolaevich Murav'yov-Amurskiy)
むらびよふ
Николай Николаевич Муравьёв‐Амурский/Nikolay Nikolaevich Murav'yov-Amurskiy
(1809―1881)

ロシアの軍人、政治家。陸軍幼年学校を卒業後、1846年トゥーラ県の軍事総督兼知事となった。自由主義的思想の持ち主で、早くから農奴解放の必要を説いた。47~61年東シベリア総督として、シベリアの開拓に努力する一方、ネベリスコイのタタール海峡とアムール川河口の調査も指揮した。58年に清(しん)国との間にアイグン(愛琿)条約を締結し、その功績からアムールスキー伯の称号を授けられた。59年(安政6)七隻の軍艦を率いて来日、幕府に樺太(からふと)(サハリン)全島がロシア領であることを認めさせようとしたが不成功に終わった。

[外川継男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ムラビヨフ」の意味・わかりやすい解説

ムラビヨフ

ロシアの政治家。外相(1897年―1900年)として極東政策を積極的に推進。日清戦争後の三国干渉をへて,1898年旅順大連の租借に成功。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ムラビヨフ」の解説

ムラビヨフ Murav'yov, Nikolay Nikolayevich

1809-1881 ロシアの軍人。
1809年8月23日生まれ。東シベリア総督。アムール川(黒竜江)地方を占領し,1858年清(しん)(中国)と愛琿(あいぐん)条約をむすんで露清国境を画定した。翌年(安政6)日露修好通商条約の批准書交換のため,品川に来航。このとき樺太(からふと)全島領有を主張し,幕府に拒否された。1881年11月30日死去。72歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android