アメリカの海洋物理学者。オーストリアのウィーンに生まれる。1933年アメリカに渡り、1939年にカリフォルニア工科大学卒業。1947年カリフォルニア大学より博士号取得(海洋学)。1947~1954年同大学スクリップス海洋研究所地球物理学準教授。1954年以降、同教授を務めた。第二次世界大戦中に、スベルドラップと共同で、軍の上陸作戦のための波浪予測に関する研究に従事した。その後、外洋波浪予報に関する研究や風成海流理論、外洋潮汐(ちょうせき)に関する独創的な研究を行った。さらに、大気や海洋の運動などが地球自転に及ぼす影響を初めて明らかにした。1970年代末には、海洋中を伝播(でんぱ)する音波の伝播時間が水温や圧力によって変化することを利用して、逆に、海洋中の水温の分布などを推定する海洋音波断層観測法Ocean Acoustic Tomographyをマサチューセッツ工科大学のブンシュCarl Wunsch(1941― )とともに提唱した。この観測法の有効性は、1980年代以降アメリカや日本などの研究者によって実海域実験で確認された。また、長距離の音波伝播を利用して、地球温暖化に伴う海洋中の水温の微小な変化をとらえることを提唱するなど、20世紀後半以降の海洋物理学の発展に指導的な役割を果たした。スベルドラップ・メダル(アメリカ気象学会、1966年)、京都賞(稲盛財団、1999年)などを受賞。おもな著書に、スベルドラップと共著の『Wind, Sea, and Swell : Theory of Relations for Forecasting』(1947年。『風波とうねり――その予報の理論』)、マクドナルドGordon J. F. MacDonald(1929―2002)と共著の『The Rotation of the Earth : A Geophysical Discussion』(1960年、新版1975年。『地球の自転――その地球物理学的考察』)、ウーセスターPeter Worcesterらと共著の『Ocean Acoustic Tomography』(1995年。『海洋音波断層観測法』)がある。
[佐伯理郎 2019年1月21日]
『Walter H. Munk, Gordon J.F. MacDonaldThe Rotation of the Earth : A Geophysical Discussion(1960, Cambridge University Press, Cambridge)』▽『Walter Munk, Peter Worcester, Carl WunschOcean Acoustic Tomography(1995, Cambridge University Press, Cambridge)』
ノルウェーの画家、版画家。12月12日、レーイテンの医師の子として生まれる。父はかなり異常な性格の人であり、早く母と姉を結核で失い、彼自身も病弱であった。こうした環境と肉体が、彼の精神と作風に大きく影響している。1881~84年オスロの美術学校に学び、急進的なグループに影響された。初期の油絵『病める少女』(1885~86、オスロ国立美術館)にみる生と死への凝視が、その後の彼の作品を一貫して流れる基調になっている。89年、一夏を海村で過ごして、神秘な夜の不安をとらえた『星の夜』『白夜』などを描いた。
1890年パリに出てからは、レオン・ボナのアトリエに入る。日本の木版画に魅せられ、ピサロやロートレック、さらにゴーギャンやゴッホにも魅せられた。92年の秋、ベルリン美術協会展に招かれて出品したが、初期の哀愁をたたえた叙情的なものをいよいよ内面化し、生と死を、愛と官能を、恐怖と憂愁を、強烈な色彩のもとに描出した彼の画風は、多くの物議を醸した。しかもこのベルリンでのストリンドベリとの出会いは、いっそうその画風を深める結果となった。その後、パリでマラルメらと交わり、またイプセンを知り、作品としては『叫び』(1893、オスロ国立美術館。象徴主義)を含む、のちに『生(せい)のフリーズ』に取り入れられる連作を完成させた。94年から版画を始め、絵画と同様のモチーフを繰り返して扱っている。
1908~09年の神経病を経て、色彩は明るくなり、文学的・心理的情感がますます著しくなった。15年オスロ大学の壁画を完成。37年、ナチスはドイツにある彼の作品いっさいを退廃芸術として没収した。晩年は世間を避けるように生活し、ナチス占領下の44年1月23日、孤独のうちにオスロに没した。代表作は前記のほか『春』『嫉妬(しっと)』『橋の上』『思春期』など。また版画家としても近代の大家であり、表現主義絵画の先駆として、近年いよいよその声価は高まり、1963年には生誕100年を記念して、オスロに市立のムンク美術館も開設された。
[嘉門安雄]
『土方定一監修『ムンク画集』(1971・筑摩書房)』▽『J・P・フーディン著、湊典子訳『エドヴァルド・ムンク』(1986・パルコ出版)』▽『T・メサー著、匠秀夫訳『ムンク』(1974・美術出版社)』▽『R・ヘラー著、佐藤節子訳『アート・イン・コンテクスト7 ムンク/叫び』(1981・みすず書房)』
ポーランドの映画監督。10月16日、南部の都市クラクフに生まれる。ユダヤ系であったが、第二次世界大戦でドイツ軍のポーランド占領中も国内にとどまる。戦後大学で法律を修めたのち、ウッチの演劇・映画学校で学ぶ。卒業後はカメラマンとなったが、1951年、監督に転じ、おもにドキュメンタリー短編を製作。1956年長編『鉄路の男』を発表した。以降、『エロイカ』(1957)など、ポーランドの現代史を正面から取り上げる作風で、アンジェイ・ワイダとともに、戦争体験を原点とする若手監督によるポーランド派の代表監督とみられるようになった。1961年、収容所体験を引きずる女性を描いた『パサジェルカ』の撮影で訪れていたアウシュヴィッツ強制収容所跡からの帰路、自動車事故による不慮の死を遂げた。『パサジェルカ』は、すでに撮影されていた素材をもとに、未編集・未撮影部分はスチル写真や黒地のフィルムを使い、監督の意図を推し量る語りを加えた特異なスタイルの作品として友人たちが完成し、1963年に公開された。
[出口丈人]
白い決死隊 The Man of the Blue Cross(1954)
鉄路の男 Człowiek na torze(1957)
エロイカ Eroica(1957)
不運 Zezowate szczescie(1960)
パサジェルカ Pasażerka(1963)
デンマークの牧師、劇作家。5歳で孤児になり、養父母や牧師の援助を受けて大学に進み、卒業後牧師となる。強烈な性格で英雄的人物にあこがれ、卑俗な民主主義に反発したため、一時はファシストと疑われた。出世作『一理想主義者』(1928)は、ユダヤの王ヘロデが詐欺や罪業をほしいままにしてまで自己の権力保持を図るが、ついに聖母マリアとイエスの言行に触れて絶望に陥るまでを描く。ほかにイギリスのヘンリー8世の野望と偽善を描く『キャント』(1931)、『言葉』(1932)が有名。後者はドライヤー監督による映画、邦題『奇跡』の原作。ほかにムッソリーニを扱った『勝利』(1936)、ナチス治下の良心的考古学者の苦悩を描く『るつぼ』(1938)など。1941年にナチスがデンマークに進駐するや、ドイツ侵略に抵抗した中世の国民的英雄を主人公に『ニルス・エッベセン』(1942)を書く。また説教壇から痛烈なナチズム批判を続け、ついに暗殺された。『言葉の剣をもって』は死後にまとめられた説教集である。
[山室 静]
『山室静著『抵抗の牧師カイ・ムンク――その生涯・説教・戯曲』(1976・教文館)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ノルウェーの画家。貧しい医者の子としてロイテンに生まれる。幼くして母と姉を結核で失い,彼自身も13歳で喀血。病気と死への不安が,彼の性格と作品を支配することになる。1864年から一家が移住したクリスティアニア(現,オスロ)で,美術工芸学校に入るが(1881-84),これにあきたらずクリスティアニア・ボヘミアンと呼ばれるアナーキーな新世代の画家グループに属した。しかし1889-90年のパリ体験を転機に,写実や印象主義的な芸術を超え,自己の内面の孤独と不安,肉親の死の記憶を表現する絵画を目ざす。92年のベルリン美術家協会招待展では〈生命のフリーズ〉と総称される55点の作品を出品したが,流動する曲線と強烈で単純化された色彩によって描き出される《叫び》《マドンナ》《嫉妬》など愛と死と不安のモティーフは,スキャンダルを巻き起こした。しかしこれ以来,J.A.ストリンドベリ,G.ビーゲラン,マラルメ,イプセンら支持者,友人を得,主としてドイツを中心に国際的に活躍,世紀末の象徴主義から表現主義への芸術動向に決定的な影響を与えた。94年からは版画(木版,石版)も手がけ,大胆な省略による象徴的表現がさらに開花する。1908-09年精神病院に入院ののち,ノルウェーに戻る。一時,写実的な作風で農民や労働者の力強い姿を描くが,晩年はオスロ近郊にアトリエをもち,世間から隔絶した生活のうちに,再び象徴的画風に加えて,死への予感を秘めた作品を描き孤独のうちに没した。
執筆者:土肥 美夫
デンマークの劇作家。〈殉教者〉としての使命感に生きた牧師。《理想主義者》(1928),のちに映画化された現代の奇跡を描いた《言葉》(1932)など古典的な戯曲を書く。はじめ英雄や独裁者に魅力を感じたが,ドイツ軍占領下の1940年代には教会での説教や作品を通じてみずからレジスタントの代弁者となったため,ナチスはその国民への影響を恐れて彼を射殺した。抒情詩集,説教集,随筆があり,回想録《春は静かにやってくる》(1942)を残す。
執筆者:岡田 令子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1863~1944
ノルウェーの画家で,表現派の父といわれる。哀感のただよう独特な線と色彩で,好んで病児や恋愛を主題に描いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…現存在分析を創始したスイスの精神医学者ビンスワンガーの主著で,1957年に単行本の形で刊行された。5例の精神分裂病のくわしい症例研究からなるが,30年代に著者が独自の人間学的方法を確立したのち,数十年にわたる臨床活動の総決算として44年から53年にかけて集成したもの。ここでは,分裂病は人間存在に異質な病態としてではなく,人間から人間へ,現存在から現存在への自由な交わりをとおして現れる特有な世界内のあり方として記述される。…
…国民的ロマン主義は各分野にすぐれた芸術家を育成する。美術では,ダールの後,デュッセルドルフ・アカデミーに学んだ画家たち,たとえば《ハルダンゲルの婚礼》を合作したティデマンAdolph Tidemand(1814‐76)とギューデHans Gude(1825‐1903),音楽では民謡演奏を土台にした名バイオリニストのブルOle Bullや作曲家のヒェルルフHalfdan Kjerulf,文学では親デンマーク派のウェルハーベンと激しく対立した熱血詩人ウェルゲラン,膨大な《ノルウェー国民の歴史》8巻を書いた歴史家ムンクPeter Andreas Munch(1810‐63)らが現在まで続くこの国のロマン的性格の基を築いた。第2次大戦中の反ナチス抵抗運動,1970年代のEC(ヨーロッパ共同体)参加拒否の姿勢を支えるものでもある。…
…歴史的にはマティスのフォービスムについて初めて用いられたがフランスでは定着せず,1911年ころからベルリンで前衛的な美術を中心に音楽,文学,演劇,映画,建築に及ぶ革新的芸術の合言葉として広まった。したがって,現象としてはムンク,アンソールからルオー,エコール・ド・パリのシャガール,スーティンらに至る個々の画家やマティスらのフォービスト,ピカソらの前期キュビストなどをヨーロッパの表現主義として取り上げることもできるが,狭義には主として1905年ごろからドイツ革命期に至る時期に展開されたドイツの芸術をいう。ドイツではフォービスムやキュビスムの絵画構成上のゆがみが情念的な表現上のゆがみととらえられ,原始的土着的な要素やバロックにつながる精神性が強調された。…
※「ムンク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
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