フランスの作曲家,音楽理論家。ディジョンの教会オルガン奏者の11人の子どもの第7子(次男)として生まれた。40歳までのことは不明なことが多い。音楽の手ほどきは父から受けたらしい。裁判官になる勉強をするべくイエズス会学校に入学したが,音楽に時間を費やす不行状のかどで退学させられた。1701年に音楽家を志し,父の勧めでイタリア留学をしたが,ミラノに数ヵ月滞在しただけで,ミラノの旅芸人一座の一員としてフランスに戻っている。その後の20年間は,フランスの中部と南部の各地をオルガン奏者として転々としている。06年にパリで《クラブサン曲集第1集》を出版した。09年にディジョンのノートル・ダム大聖堂のオルガン奏者の地位を父から継ぐが,4年後の13年にリヨンに行く。15年まではリヨンにとどまった。22年に出版されたラモーの最大の理論書《自然原理に還元された和声論Traité d'harmonie réduite à ses principes naturels》の肩書きに〈オーベルニュのクレルモン大聖堂のオルガン奏者〉とあり,クレルモン・フェランで和声論が起草されたと推定されている。
ラモーは22年か23年にパリに居を定めた。彼は《和声論》で,過去の実践と理論を踏まえて,近代機能和声の理論を確立した。3和音とその転回,長調と短調の概念などは,この書において初めて体系的に論じられている。この書により,理論家としての地位を不動のものにしたラモーは,オペラ作曲家としてのデビューを心がけた。この間,二つのクラブサン曲集を出版し,サント・クロア・ド・ラ・ブルトヌリ教会のオルガン奏者となり,また音楽愛好家ラ・ププリニエールA.J.J.Le Riche de La Pouplinière(1693-1762)に27年ころに出会い,彼の保護を受けるようになる。ラモーは,彼の館の一角に住み,彼が31年に創設した私設オーケストラの指揮者となり,彼のサロンの中心人物として,ここでボルテールやJ.J.ルソーと知り合った。音楽悲劇《イポリトとアリシーHyppolyte et Aricie》(1733)の私的な初演もラ・ププリニエール家で行われた。このオペラの初演は,賛否両論を生み,18世紀初頭にすでに起こっていたオペラ論争を再燃させることになる。50歳のラモーは,その後次々にオペラの傑作を作曲し,オペラ作曲家としての地位を不動のものにした。オペラ・バレエ《優雅なインドの国々Les Indes galantes》(1735),音楽悲劇《カストルとポリュクスCastor et Pollux》(1737),同《ダルダニュスDardanus》(1739),コメディ・リリック《プラテPlatée》(1745),アクト・ド・バレエ《ピグマリオンPygmalion》(1748),音楽悲劇《ゾロアストルZoroastre》(1749)など,さまざまな名称をつけられたオペラは全部で31曲に及ぶ。45年には〈王の室内作曲家〉の称号,死の直前には貴族の称号を得た。音楽理論家としても,ラモーは生涯に大小33編に上る著作,論文,エッセーを残している。52年から54年までパリで繰り広げられた,18世紀の第3の音楽論争〈ブフォン論争〉において,彼はフランス音楽の擁護者の中心人物として,イタリア音楽派を標榜するルソーと激しく対立した。
ラモーのオペラにおける功績は,リュリの創始したフランスのグランド・オペラに,さらに劇的な効果を加え,特にオーケストラと合唱を充実させて,バロック・オペラの典型を確立した点にある。また50曲に及ぶクラブサン(ハープシコード)独奏曲のうち,《恋の嘆きLes tendres plaintes》《一眼巨人たちLes Cyclopes》《雌鳥La poule》《エンハーモニクL’enharmonique》などや,合奏曲集《コンセールによるクラブサン曲集Pièces de clavecin en concerts》(1741)には,クープラントと共有するロココ的な抒情と,合理的精神が共存し,〈フランス古典音楽〉の粋を形づくっている。ラモーは,ドビュッシーやラベルによって再評価され,全集が1895年からサン・サーンスの監修の下で刊行された(18巻。未完)が,ラモー生誕300年の1983年に新ラモー全集がフランスで企画された。
なおディドロの小説《ラモーの甥》のモデルは,彼の弟でオルガン奏者のクロードClaude R.(1690-1761)の息子で音楽家のジャン・フランソアJean-François(1716-?)である。ラモーの3人の子はだれも音楽家にはならなかった。
執筆者:船山 信子
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フランスの作曲家、音楽理論家。ディジョン生まれ。アビニョン、リヨン、クレルモン・フェラン、パリで教会オルガン奏者を務め、その間1706年にクラブサン曲集を出版。22年、近代の音楽理論の基礎となる著作『和声論』を刊行し、理論家として一定の評価を受ける。50歳を迎えた33年、ラシーヌの戯曲『フェードル』をもとにした歌劇(音楽悲劇)『イポリットとアリシー』を発表、以後精力的に舞台音楽を作曲、18世紀フランスの最大の歌劇作曲家になった。イタリア音楽とフランス音楽の優劣をめぐっておきたブフォン論争(1752)に際しては、イタリアを推すJ・J・ルソーらの啓蒙(けいもう)主義者と対立、リュリ以来のフランス音楽を擁護する立場から、盛んに論文等を発表した。パリに没。
[美山良夫]
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…ルイ王朝期のフランス音楽はベルサイユ宮とパリを中心として一つの黄金時代を迎えたが,宗教的および世俗的な声楽曲,歌劇,オルガン音楽などと並んで重要なのは,ルネサンス時代に盛んだったリュート音楽に代わって登場してきたクラブサン音楽である。この楽派はイギリスのバージナル楽派の影響のもと,シャンボニエールに始まり,その弟子ダングルベールJean Henri d’Anglebert(1628‐91),クープランLouis Couperin(1626ころ‐61),その甥F.クープラン,そしてラモーへと受け継がれていく。彼らは多楽章の舞曲組曲(F.クープランのものは〈オルドル〉と呼ばれる)を書いたが,個々の舞曲は伝統的な様式のみならずしばしば標題音楽的な要素を示している。…
…またバロックに至るルター派神学の伝統では,音楽と言葉との関係を修辞学の原理からとらえなおす〈音楽創作論(ムシカ・ポエティカmusica poetica)〉が唱えられた。バロックでは単旋律的思考の復興(モノディ)と伝統的対位法との相克の止揚を経てラモーの《和声論》(1722)によって近代的な和声法が成立し,さらに通奏低音法,様式論,演奏論などが作曲の前提とされた(和声)。18世紀古典派では作曲は特定個人の創造行為として認められ,天才,芸術家の概念が生まれた。…
…一方,1600年ころのモノディの誕生や,通奏低音の成立,そして器楽曲の発達にともない,調性は17世紀中に確立された。これに理論的根拠を与えたのは,ラモーの《和声論Traité de l’harmonie》(1722)である。 調は長・短合わせて24種となり,このうち,一つの調と上下に5度の関係にある調およびそれらの平行短調を近親調という(5度圏)。…
…音楽と舞踏が結びつくのは,おのおのの本質からして,どの国にあっても当然認められることであるが,バレエがフランスで初めて芸術として確立され集大成された事実にみられるとおり,舞曲とそのリズムへの愛好にはなおまたフランスならではのものがある。調性体系の理論化にまず大きく寄与したのがラモーであるにもかかわらず,19世紀でさえ旋法への傾きがとかくフランス音楽にはうかがわれる。以上の特質は,いうまでもなく,フランスの地理・風土・言語上の諸条件と,深いところでかかわりをもっているだろう。…
…すべての長・短調を用いた作品を最初に実践したのはJ.S.バッハの《平均律クラビーア曲集》第1集である。しかし,このころすでに平均律は十分に浸透した音律法であったらしく,ラモーも同じ頃に平均律の理論を示し,また,マッテゾンの《通奏低音教本》(1719)にはすべての調を用いた例題が示されている。しかし,オルガンの調律に平均律を採用したのはG.ジルバーマンの世代に至ってからのことである。…
※「ラモー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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