ラモー(英語表記)Jean-Philippe Rameau

デジタル大辞泉 「ラモー」の意味・読み・例文・類語

ラモー(Jean-Philippe Rameau)

[1683~1764]フランスの作曲家・音楽理論家。フランスの宮廷オペラを発展させ、また、「和声論」などを著して近代和声学の基礎を築いた。作品に「クラブサン曲集」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ラモー」の意味・読み・例文・類語

ラモー

  1. ( Jean-Philippe Rameau ジャン=フィリップ━ ) フランスの作曲家。ノートルダム大聖堂などのオルガン演奏のかたわら「クラブサン曲集」を出版。「ダルダニュス」など多くのオペラを作曲してフランスのオペラの発展に貢献したほか、合理的な機能和声の理論の基礎づけを行なった。(一六八三‐一七六四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ラモー」の意味・わかりやすい解説

ラモー
Jean-Philippe Rameau
生没年:1683-1764

フランスの作曲家,音楽理論家。ディジョンの教会オルガン奏者の11人の子どもの第7子(次男)として生まれた。40歳までのことは不明なことが多い。音楽の手ほどきは父から受けたらしい。裁判官になる勉強をするべくイエズス会学校に入学したが,音楽に時間を費やす不行状のかどで退学させられた。1701年に音楽家を志し,父の勧めでイタリア留学をしたが,ミラノに数ヵ月滞在しただけで,ミラノの旅芸人一座の一員としてフランスに戻っている。その後の20年間は,フランスの中部と南部の各地をオルガン奏者として転々としている。06年にパリで《クラブサン曲集第1集》を出版した。09年にディジョンのノートル・ダム大聖堂のオルガン奏者の地位を父から継ぐが,4年後の13年にリヨンに行く。15年まではリヨンにとどまった。22年に出版されたラモーの最大の理論書《自然原理に還元された和声論Traité d'harmonie réduite à ses principes naturels》の肩書きに〈オーベルニュクレルモン大聖堂のオルガン奏者〉とあり,クレルモン・フェランで和声論が起草されたと推定されている。

 ラモーは22年か23年にパリに居を定めた。彼は《和声論》で,過去の実践と理論を踏まえて,近代機能和声の理論を確立した。3和音とその転回,長調と短調の概念などは,この書において初めて体系的に論じられている。この書により,理論家としての地位を不動のものにしたラモーは,オペラ作曲家としてのデビューを心がけた。この間,二つのクラブサン曲集を出版し,サント・クロア・ド・ラ・ブルトヌリ教会のオルガン奏者となり,また音楽愛好家ラ・ププリニエールA.J.J.Le Riche de La Pouplinière(1693-1762)に27年ころに出会い,彼の保護を受けるようになる。ラモーは,彼の館の一角に住み,彼が31年に創設した私設オーケストラの指揮者となり,彼のサロンの中心人物として,ここでボルテールJ.J.ルソーと知り合った。音楽悲劇《イポリトとアリシーHyppolyte et Aricie》(1733)の私的な初演もラ・ププリニエール家で行われた。このオペラの初演は,賛否両論を生み,18世紀初頭にすでに起こっていたオペラ論争を再燃させることになる。50歳のラモーは,その後次々にオペラの傑作を作曲し,オペラ作曲家としての地位を不動のものにした。オペラ・バレエ《優雅なインドの国々Les Indes galantes》(1735),音楽悲劇《カストルとポリュクスCastor et Pollux》(1737),同《ダルダニュスDardanus》(1739),コメディ・リリック《プラテPlatée》(1745),アクト・ド・バレエ《ピグマリオンPygmalion》(1748),音楽悲劇《ゾロアストルZoroastre》(1749)など,さまざまな名称をつけられたオペラは全部で31曲に及ぶ。45年には〈王の室内作曲家〉の称号,死の直前には貴族の称号を得た。音楽理論家としても,ラモーは生涯に大小33編に上る著作,論文,エッセーを残している。52年から54年までパリで繰り広げられた,18世紀の第3の音楽論争〈ブフォン論争〉において,彼はフランス音楽の擁護者の中心人物として,イタリア音楽派を標榜するルソーと激しく対立した。

 ラモーのオペラにおける功績は,リュリの創始したフランスのグランド・オペラに,さらに劇的な効果を加え,特にオーケストラと合唱を充実させて,バロック・オペラの典型を確立した点にある。また50曲に及ぶクラブサン(ハープシコード)独奏曲のうち,《恋の嘆きLes tendres plaintes》《一眼巨人たちLes Cyclopes》《雌鳥La poule》《エンハーモニクL’enharmonique》などや,合奏曲集《コンセールによるクラブサン曲集Pièces de clavecin en concerts》(1741)には,クープラントと共有するロココ的な抒情と,合理的精神が共存し,〈フランス古典音楽〉の粋を形づくっている。ラモーは,ドビュッシーやラベルによって再評価され,全集が1895年からサン・サーンスの監修の下で刊行された(18巻。未完)が,ラモー生誕300年の1983年に新ラモー全集がフランスで企画された。

 なおディドロ小説《ラモーの甥》のモデルは,彼の弟でオルガン奏者のクロードClaude R.(1690-1761)の息子で音楽家のジャン・フランソアJean-François(1716-?)である。ラモーの3人の子はだれも音楽家にはならなかった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ラモー」の意味・わかりやすい解説

ラモー

フランスの作曲家,音楽理論家。J.S.バッハヘンデルとほぼ同世代で,リュリのあとを継ぐフランス・バロックの代表者。オルガン奏者を父に,ブルゴーニュ地方のディジョンに生まれる。少年時代までのことはほとんど判明していない。1701年に短期間イタリアへ音楽留学したのちフランス各地の教会オルガン奏者を務め,その間1706年にはパリで最初の作品集《クラブサン曲集第1集》を出版した。1709年に父のあとを継いでディジョンのノートル・ダム大聖堂オルガン奏者に就任し,その後リヨンに向かう。1722年に主著《自然原理に還元された和声論》を出版。これは近代機能和声(和声)の原理を打ち立て,長調短調の概念などを初めて体系的に論じた理論書として知られる。1722年か1723年からパリに定住し,1733年50歳で初のオペラ《イポリトとアリシー》を発表。以後,多くのオペラやクラブサン(ハープシコード)曲を作曲,《優雅なインドの国々》(1735年),《カストルとポリュクス》(1737年),《ピグマリオン》(1748年)などでオペラ作曲家としての名声を確立する一方,フランスとイタリアの音楽の優劣をめぐって戦わされたいわゆる〈ブフォン論争〉でJ.J.ルソーらの批判の矢面に立たされた。作品にはほかに,合奏曲集《コンセールによるクラブサン曲集》第1番〜第5番(1741年出版),《クラブサン曲集》(1724年出版),《新クラブサン曲集》(1728年ころ出版)などがあり,クラブサン作品はF.クープランの作品とともにフランス音楽の古典。その音楽はのちにベルリオーズドビュッシー,M.ラベルらによって高く評価され,今日では18世紀フランス最大の音楽家として揺るぎない地位を保っている。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラモー」の意味・わかりやすい解説

ラモー
らもー
Jean-Philippe Rameau
(1683―1764)

フランスの作曲家、音楽理論家。ディジョン生まれ。アビニョン、リヨン、クレルモン・フェラン、パリで教会オルガン奏者を務め、その間1706年にクラブサン曲集を出版。22年、近代の音楽理論の基礎となる著作『和声論』を刊行し、理論家として一定の評価を受ける。50歳を迎えた33年、ラシーヌの戯曲『フェードル』をもとにした歌劇(音楽悲劇)『イポリットとアリシー』を発表、以後精力的に舞台音楽を作曲、18世紀フランスの最大の歌劇作曲家になった。イタリア音楽とフランス音楽の優劣をめぐっておきたブフォン論争(1752)に際しては、イタリアを推すJ・J・ルソーらの啓蒙(けいもう)主義者と対立、リュリ以来のフランス音楽を擁護する立場から、盛んに論文等を発表した。パリに没。

[美山良夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラモー」の意味・わかりやすい解説

ラモー
Rameau, Jean-Philippe

[生]1683.9.25. 〈洗礼〉ディジョン
[没]1764.9.12. パリ
後期バロック時代を代表するフランスの作曲家,音楽理論家。オルガン奏者の子で,1702年よりアビニョンをはじめクレルモンフェラン,パリ,ディジョン,リヨンなどでオルガン奏者をつとめたが,23年よりパリに定住し,財務官ラ・ププリニエール家の後援を得て,オペラとバレエの作曲家として頭角を現した。主作品は悲劇的オペラ『イッポリートとアリシー』 (1733) ,『カストルとポリュックス』 (37) ,『ダルダヌス』 (39) ,バレエ・オペラ『優雅なインドの国々』 (35) ,コミック・オペラ『プラテー』 (45) のほか,『クラブサン曲集第1巻』 (1706) や室内楽曲など。主著は『和声論』 Traité del'harmonie (22) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ラモー」の解説

ラモー

フランスの作曲家、音楽理論家。18世紀前半、盛期バロックを代表する音楽家の一人。数多くの優れた劇音楽を書いたこと、理論書によって近代和声理論の基礎を確立したことで、音楽史に輝かしい功績を残した。
...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

世界大百科事典(旧版)内のラモーの言及

【クラブサン楽派】より

…ルイ王朝期のフランス音楽はベルサイユ宮とパリを中心として一つの黄金時代を迎えたが,宗教的および世俗的な声楽曲,歌劇,オルガン音楽などと並んで重要なのは,ルネサンス時代に盛んだったリュート音楽に代わって登場してきたクラブサン音楽である。この楽派はイギリスのバージナル楽派の影響のもと,シャンボニエールに始まり,その弟子ダングルベールJean Henri d’Anglebert(1628‐91),クープランLouis Couperin(1626ころ‐61),その甥F.クープラン,そしてラモーへと受け継がれていく。彼らは多楽章の舞曲組曲(F.クープランのものは〈オルドル〉と呼ばれる)を書いたが,個々の舞曲は伝統的な様式のみならずしばしば標題音楽的な要素を示している。…

【作曲】より

…またバロックに至るルター派神学の伝統では,音楽と言葉との関係を修辞学の原理からとらえなおす〈音楽創作論(ムシカ・ポエティカmusica poetica)〉が唱えられた。バロックでは単旋律的思考の復興(モノディ)と伝統的対位法との相克の止揚を経てラモーの《和声論》(1722)によって近代的な和声法が成立し,さらに通奏低音法,様式論,演奏論などが作曲の前提とされた(和声)。18世紀古典派では作曲は特定個人の創造行為として認められ,天才,芸術家の概念が生まれた。…

【調性】より

…一方,1600年ころのモノディの誕生や,通奏低音の成立,そして器楽曲の発達にともない,調性は17世紀中に確立された。これに理論的根拠を与えたのは,ラモーの《和声論Traité de l’harmonie》(1722)である。 調は長・短合わせて24種となり,このうち,一つの調と上下に5度の関係にある調およびそれらの平行短調を近親調という(5度圏)。…

【フランス音楽】より

…音楽と舞踏が結びつくのは,おのおのの本質からして,どの国にあっても当然認められることであるが,バレエがフランスで初めて芸術として確立され集大成された事実にみられるとおり,舞曲とそのリズムへの愛好にはなおまたフランスならではのものがある。調性体系の理論化にまず大きく寄与したのがラモーであるにもかかわらず,19世紀でさえ旋法への傾きがとかくフランス音楽にはうかがわれる。以上の特質は,いうまでもなく,フランスの地理・風土・言語上の諸条件と,深いところでかかわりをもっているだろう。…

【平均律】より

…すべての長・短調を用いた作品を最初に実践したのはJ.S.バッハの《平均律クラビーア曲集》第1集である。しかし,このころすでに平均律は十分に浸透した音律法であったらしく,ラモーも同じ頃に平均律の理論を示し,また,マッテゾンの《通奏低音教本》(1719)にはすべての調を用いた例題が示されている。しかし,オルガンの調律に平均律を採用したのはG.ジルバーマンの世代に至ってからのことである。…

※「ラモー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android