ノートルダム大聖堂(読み)ノートルダムダイセイドウ

デジタル大辞泉 「ノートルダム大聖堂」の意味・読み・例文・類語

ノートルダム‐だいせいどう〔‐ダイセイダウ〕【ノートルダム大聖堂】

ノートルダムは「われらの貴婦人」の意》
Cathédrale Notre-Dame de Paris》フランス、パリ中心部、セーヌ川のシテ島にある、聖母マリアに捧げられた大聖堂。1163年に司教モーリス=ド=シュリにより建造開始、1182年に内陣が完成。身廊翼廊の拡張工事が続けられ、14世紀に現在の五廊式聖堂となった。ゴシック様式を代表する建造物として知られ、1991年、「パリのセーヌ河岸」の名称で周辺の文化遺産とともに世界遺産(文化遺産)に登録された。2019年の火災により尖塔を焼失。ノートルダム寺院
Cathédrale Notre-Dameベルギー西部の都市、トゥルネーにある12世紀に建造されたロマネスク様式の教会。内陣のみ13世紀に初期ゴシック様式のものに建て替えられた。初代司教の聖エルテールを描いたタペストリーや、ニコラ=ドゥ=ベルダン作の聖母マリアの聖遺物箱などがある。同国を代表する建築物として、2000年、「トゥルネーのノートルダム大聖堂」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。
Onze-Lieve-Vrouwekathedraal》ベルギー北部の港湾都市、アントウェルペンの旧市街にあるゴシック様式の大聖堂。1352年に建設が始まり、1520年に完成。世界遺産(文化遺産)の「ベルギーとフランスの鐘楼群」の一つとして登録されている。児童小説「フランダースの犬」に登場するルーベンスの祭壇画があることで知られる。
Cathédrale Notre-Dameルクセンブルク大公国の首都、ルクセンブルクの旧市街中心部にある教会。イエズス会修道士のジャン=ドゥ=ブロークの設計により17世紀に建造。同国のジャン前大公とベルギー皇女ジョセフィーヌ=シャルロットとの婚礼が行われた。なお、城塞都市としての旧市街全体は、1994年に「ルクセンブルク市街、その古い町並みと要塞都市の遺構」の名称で、世界遺産(文化遺産)に登録された。
Cathédrale Notre-Dame》スイス西部、ボー州の州都、ローザンヌの旧市街にある大聖堂。12世紀から13世紀にかけて建造。初期ゴシック様式の傑作として知られる。
Cathédrale de Papeete Notre-Dame》南太平洋、フランス領ポリネシアタヒチ島パペーテにあるローマカトリックの大聖堂。市街中心部に位置する。19世紀後半に約30年かけて建造。1906年の津波や第一次大戦中のドイツ軍による攻撃などの被害を受け、たびたび修復されている。赤い屋根と黄色い壁という特徴的な外観をもち、内部にはパンノキの実をもつ聖母子の木像がある。
Basilique-cathédrale Notre-Dame de Québec》カナダ、ケベック州の都市ケベックにある大聖堂。旧市街の中心部に位置する。ケベックを開いたフランスの探検家サミュエル=ド=シャンプランにより、1647年に創設。改築が繰り返され、1925年に現在みられる新古典主義様式の建物になった。地下には、同国における植民地初のカトリック司教フランソワ=ラバルの墓所がある。
Basilique Notre-Dame de Montréal》カナダ、ケベック州の都市モントリオールにある大聖堂。旧市街に位置する。1829年に建造されたネオゴシック様式の建物で、高さ60メートルの二つの鐘楼をもつ。内部の青を基調とする装飾や、約7000本のパイプを使用したパイプオルガンが有名。

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改訂新版 世界大百科事典 「ノートルダム大聖堂」の意味・わかりやすい解説

ノートル・ダム大聖堂 (ノートルダムだいせいどう)
Cathédrale Notre-Dame de Paris

パリのシテ島にある司教座教会。フランス・ゴシック建築のなかでは西正面が最も調和を見せている,初期ゴシック建築の壮大な作例である。矩形の双塔や,双塔の線に沿って正面を3部分に分割するバットレス(扶壁)の垂直線と,〈王のギャラリー〉の水平線とが,ばら窓を中心に比類ない均衡と調和を保っている。

 現在の建物は,5世紀,6世紀(または7世紀初頭)の建造に続く第3番目のものである。12世紀中ごろ,内陣から建造が始まり,1182年に完成。身廊部は1180-1200年に,西正面は1200年ごろから50年に完成された。内部は中央身廊を中心に5廊式で,アーケードトリビューン(階上廊),高窓と3層構成をとる(かつては4層構成であった)。しかし,側廊の上にあるトリビューンの存在が採光の妨げになり,内部は暗い。高さ35mに達する天井は,なお6分リブ・ボールトで,初期ゴシック建築の特徴をとどめる。直径12.9mのばら窓を持つ南北袖廊(トランセプト)は,13世紀中ごろ建築家ジャン・ド・シェルJean de Chellesとピエール・ド・モントローPierre de Montreauによって増築された。南北ばら窓や西正面ばら窓(直径9.6m,1215-20)は,多くの修復を蒙ったものの,今なお当時の輝きを放っている。フランス革命により,外壁を飾っていた多くの彫刻は破壊された。西正面の〈王のギャラリー〉の28体の彫像,三つの扉口側壁に立つ彫像などは,19世紀の修復になる。しかし,右側扉口タンパンの〈聖母子〉(1165-70ころ),左側扉口タンパンの〈聖母戴冠〉(1210-20ころ),中央扉口タンパンの〈最後の審判〉(1220-30ころ)は,いずれも当時の姿を伝えており,ここでアルカイックな初期ゴシック彫刻から典雅な盛期ゴシック彫刻へと向かう発展を跡づけることができる。また,北側の〈赤い扉口〉中央柱に立つ〈聖母像〉(1250ころ),内陣周囲を飾る極彩色のほどこされた〈キリスト伝〉(14世紀)の浮彫群も見のがせない細部である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ノートルダム大聖堂」の意味・わかりやすい解説

ノートル・ダム大聖堂
のーとるだむだいせいどう
Cathédrale Notre-Dame de Paris

パリのシテ島に建つ聖母(ノートル・ダム)に捧(ささ)げられた大聖堂。パリの最初のカテドラル(司教座をもった聖堂)は5世紀のサンテティエンヌ聖堂で、7世紀初頭には同じ場所に聖母に捧げられた聖堂が建った。現在の大聖堂は1163年に司教モーリス・ド・シュリの指揮のもとに新たにゴシック様式で着工されたものである。内陣部は1182年に仕上がって献堂式が行われ、身廊と翼廊部は1200年までに、翼廊部の拡張工事と西正面玄関の外壁面は1250年までに完成した。14世紀初頭には内陣部の諸祭堂が完成して、堂内奥行が130メートルの壮大な五廊式聖堂となった。身廊部は幅が12メートル、天井の高さは35メートルで、両側壁面は列柱を経てトリフォリウム、高窓の均衡のとれた美しい三層構成となっている。また正面玄関の幅は41メートル、左右の塔の高さは63メートルである。17世紀末には内部の改造が、1771年には西正面外壁の改築が行われ、フランス革命期の1793年にはとくに外壁を飾る彫刻群が大破壊を受けた。19世紀にラシュスやビオレ・ル・デュクおよび彫刻家ジョッフロア・デショームによる大修復がなされて今日に至っている。

 西正面玄関部の彫刻は、3個の扉口上部のタンパン(半月形壁面)の浮彫りだけがオリジナルで、扉口左右にせり出した人像柱(スタテュ・コロンヌ)は19世紀の修復による。中央扉口のタンパンは「最後の審判」を表し、左右のタンパンはそれぞれ聖母および聖母の母である聖アンナに捧げられている。扉口上部の「王のギャラリー」の28体の『旧約聖書』の王たちの彫像も19世紀の復原によるが、フランス革命期に破壊された彫像の断片が1977年に発見された。南翼廊部の扉口は聖エティエンヌ(ステパノ)に捧げられ、北翼廊部の扉口は「回廊の門」とよばれて、それぞれ13世紀中ごろのタンパン浮彫りをもつが、北の扉口にはフランス革命の破壊を免れた唯一の彫像の「聖母子像」がみられる。13世紀に制作されたステンド・グラスのうち、今日残るのは西正面のバラ窓(直径9.60メートル)、南北翼廊の2個のバラ窓(直径13メートル)を飾るステンド・グラスだけである。さらに北翼廊のバラ窓はほぼ完璧(かんぺき)な保存状態にあるが、ほかは19世紀の大幅な修復を受けている。なお、この大聖堂のあるパリのセーヌ川の河岸は1991年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[名取四郎]


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知恵蔵 「ノートルダム大聖堂」の解説

ノートルダム大聖堂(パリ)

ゴシック様式の建築を代表する、カトリック・パリ大司教区聖堂。フランスの首都パリ中心部のシテ島にある。ノートル・ダムは「私たちの貴婦人」という意味で、聖母マリアを指す。年間1300万人が訪れる観光名所だが、2019年4月15日19時頃(現地時間)に火災が発生。中央部の尖塔(せんとう)と屋根が焼失し、国内外に大きな衝撃を与えた。出火原因は電気系統の故障が疑われているが、現時点では不明。マクロン大統領は、パリ五輪が開催される24年までの再建を表明している(19年5月末時点)。
大聖堂の着工は1163年、パリ司教シュリーの計画・指導による。その後、100年以上を費やし、荘厳なファサード(正面部)や二つの塔を持つ原形を完成させた。建築美の評価ではシャルトルの大聖堂のほうが高く、規模でもアミアンの大聖堂(面積約2倍)が圧倒している。しかし、王政下・共和制下を問わず、数々の国家的式典・出来事の舞台になったことから、フランス史を体現する建造物としての価値は揺るぎない。
1302年には、初めて三部会(身分制議会)が召集され、1450年代には、ジャンヌ・ダルク(31年死去)の復権裁判も行われた。18世紀末にはフランス革命の余波で一時閉鎖されたが、混乱に乗じて皇帝となったナポレオン1世が1804年に戴冠(たいかん)式を行ったことをきっかけに、大規模な修復工事が進められた。更に1831年には、ビクトル・ユゴーが中世の大聖堂を舞台とした小説「ノートル・ダム・ド・パリ」を発表。民衆の間でも、大聖堂への関心がより高まった。その後、2度の世界大戦も乗り越え、戦後はドゴール大統領やミッテラン大統領の国葬の場にもなった。1991年には、「パリのセーヌ河岸」の構成遺産として世界文化遺産に登録されている。

(大迫秀樹 フリー編集者/2019年)

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百科事典マイペディア 「ノートルダム大聖堂」の意味・わかりやすい解説

ノートル・ダム大聖堂【ノートルダムだいせいどう】

正称はカテドラル・ノートル・ダム・ド・パリ。パリのシテ島にあるフランス・ゴシックの代表的聖堂。12世紀半ばに起工,13世紀半ばに完成,ゴシック建築の初期から盛期への発展を示す。双塔を配置し,三つの扉口を設け,正面にばら窓をつけた正面構成は,以後の教会堂建築の手本となった。タンパンや内陣の浮彫もゴシック彫刻の傑作。
→関連項目コットシテ[島]パリビオレ・ル・デュクブールジュ大聖堂モントロー

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世界の観光地名がわかる事典 「ノートルダム大聖堂」の解説

ノートルダムだいせいどう【ノートルダム大聖堂】

フランスの首都パリ中心部のシテ島にあるカトリックの大聖堂(カテドラル)。正面のファザードには「聖母マリア」「最後の審判」「聖アンナ」の3つの門がある。ローマ統治時代にユピテル神殿のあった場所に、ローマ帝国崩壊後、キリスト教徒がバシリカを建設した。その場所に、1163年にノートルダム大聖堂の建設が開始され、基本的な構造物は1225年に完成した。ただし、ファザードの2つの塔は1250年ごろまで建設が続けられ、最終的に完成したのは1345年のことである。なお、ノートルダム(Notre-Dame)は「われらの貴婦人」という意味で、聖母マリアに捧げられた教会を意味する。ノートルダムの名称を冠した聖堂や教会は、パリにかぎらず、アビニョン、アミアン、シャルトル、ストラスブール、ディジョン、ランス、ルーアンなどのフランスの各都市のほか、周辺諸国のフランス語圏の地方に多数ある。このため、パリのノートルダム大聖堂は、ヴィクトル・ユーゴー(Victor-Marie Hugo、1802~1885年)の小説のタイトルにもなった「ノートルダム・ド・パリ」(Notre-Dame de Paris)とも呼ばれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ノートルダム大聖堂」の意味・わかりやすい解説

ノートル・ダム大聖堂[パリ]
ノートル・ダムだいせいどう[パリ]
La Cathédrale Notre-Dame, Paris

フランスのパリ市内シテ島にあるゴシック建築を代表する大聖堂の一つ。すでに同名の聖堂は 365年にあったといわれるが,今日のような建築として着工されたのは 1163年 M.シュリー司教の指導によってである。 82年内陣献堂,ファサードは 1260年,塔は 50年完成,その後 13世紀を通じて何回かの増設や補修があって今日の姿となった。全長 130m,幅 48m,高さ (塔) 69mの大建築で,特にファサードの3つの入口とその入口の名にちなんだモチーフによって施された彫刻,その上のユダヤ王にちなんだ彫像が並ぶ「王のギャラリー」,直径 10mに近い大ばら窓,その上に細い列柱のギャラリー,さらに左右の塔というこのノートル・ダム大聖堂の構成は,ゴシック建築の典型としてのちの聖堂建築の一つの規準になった。また内部は,側廊が2層になり,身廊は巨大な円柱が先端で3本の束ね柱に分れながら天井へと延びて,全体として非常に明るく高い空間をつくりだしている。荘厳な宗教的空間を演出するステンドグラスは,北正面のばら窓を除いて,すべて後世の作品である。

ノートル・ダム大聖堂[サンリス]
ノートルダムだいせいどう[サンリス]

「サンリス大聖堂」のページをご覧ください。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ノートルダム大聖堂」の解説

ノートルダム大聖堂
ノートルダムだいせいどう
Notre-Dame

パリの中心シテ島にある初期ゴシック様式を代表する教会堂
12〜13世紀に盛んとなった聖母崇拝を反映して各地に建設された聖母教会堂の中で最も有名なもので,ランス・ブルージュ・アミアンなどにも同名のものがある。ノートルダムとは聖母マリアの意。

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世界大百科事典(旧版)内のノートルダム大聖堂の言及

【ル・ピュイ】より

…火山性盆地内に浸食に耐えた岩山がいくつか残り,おのおのの頂を教会堂や聖母像が占めて独特の景観を呈する。ノートル・ダム大聖堂は市心の丘の上の旧ローマ神殿跡に位置し,11~12世紀にロマネスク様式で再建されたもの。大革命時に焼失した〈黒い聖母〉像は,中世を通じて外国からも巡礼をひきつけ,ル・ピュイは,サンチアゴ・デ・コンポステラへの重要な宿駅として栄えた。…

【サンリス】より

…中世にはパリ王領地帯の一部として栄える。1153年に起工されたノートル・ダム大聖堂はゴシック美術発展史上重要な位置を占める。特に聖母崇拝の高まりを象徴する,西正面扉口タンパンに表現された〈聖母戴冠〉の主題は,現存する最古の扉口彫刻であり,13世紀のシャルトル,パリのノートル・ダム,アミアン,ランスなどの大聖堂に影響を与えた。…

【トゥールネ】より

…12世紀末からフランス王と結びついてコミューンを発展させ,重要な中世都市となる。【森本 芳樹】
[美術]
 ノートル・ダム大聖堂(12~13世紀)は,ベルギーで最も壮麗な建築で,スヘルデ川流域の教会堂建築に大きな影響を与えた。ノルマンディーやライン地方の影響下に,身廊(1110‐41)はロマネスク様式において初めて4層立面構成を達成し,巨大な翼廊(1145‐71)は南北両端が半円形プランをなす。…

【ビオレ・ル・デュク】より

…エコール・デ・ボザール(国立美術学校)を忌避して独学で建築を学び,文化財保護技監であったP.メリメに認められてベズレーのラ・マドレーヌ教会の修理に当たった。ついで老練の建築家ラッシュスJean‐Baptiste Lassusとともに,1845年よりパリのノートル・ダム大聖堂の修復工事を担当してその地位を固めた。その後,文化財保護委員会委員,宗務省の建築技監として活躍し,シャルトル,ランス,アミアンなどの大聖堂やカルカソンヌ市の城壁,ピエールフォン城(ナポレオン3世の命による)などの修復に当たった。…

【フランス美術】より

…それに対して,イタリア人たちは,建物をさまざまの装飾モティーフや彫像,浮彫などで飾りたてるところに,芸術の本来のあり方を見ていたのである。 事実,たとえばパリのノートル・ダム大聖堂とミラノ大聖堂を比較してみると,同じゴシック建築でありながら,その表現は大きく異なっている。たしかに,パリの大聖堂においても,たとえば西正面を見れば,大ばら窓をはじめ,〈王のギャラリー〉に並べられた彫像群,三つの入口のティンパヌムや左右の彫像柱,さらには腰壁の部分の浮彫など,さまざまの装飾的要素を指摘することができる。…

※「ノートルダム大聖堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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