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フランスの作曲家。グルノーブルの北西ラ・コート・サンタンドレの教養ある医師の家に生まれた。1821年医学の勉強のためにパリに出たが,音楽に開眼し,家族の反対を押して26年パリ音楽院に入学し,J.F.ル・シュールとA.ライシャ(レイハ)に師事した。在学中にシェークスピア,ベートーベン,ゲーテを知って衝撃を受けた。28年にローマ賞の2等賞,さらに30年にはローマ大賞を受け,同年彼の初期の傑作である《幻想交響曲》を発表した。イタリア留学(1831-32)から戻ると,彼はイギリス人の女優ハリエット・スミッソン(ベルリオーズがシェークスピア劇と出会ったときオフィーリアを演じていた)と結婚し,ひとり息子ルイが誕生した。34年のビオラ独奏付交響曲《イタリアのハロルド》は成功したが,彼の生活を支えたのは1830年以来始めた《デバ》紙などにおける批評活動で,彼は音楽批評においても第一級の仕事を残した。生活の困窮や彼のしんらつな批評に対する反感,大多数の公衆の無理解など,彼を取り巻く状況は厳しかった。
しかし,なおも作曲活動を続け,《レクイエム》(1837),オペラ《ベンベヌート・チェリーニ》(1838),劇的交響曲《ロミオとジュリエット》(1839)などの作品を生み出した。作曲家として名を成したとはまだいえなかったが,39年彼はパリ音楽院の図書館の主事補に任命され,40年には七月革命の10周年記念に《葬送と勝利の交響曲》の作曲も依頼された。
一方,ハリエットとの結婚生活は破綻をきたし,ベルリオーズはマリー・レシオという若く美しいが才能はない歌手とともに,42年ベルギーへ旅立つ。彼女とは53年のハリエットの没後,正式に結婚することになる。35年ころから自作の指揮を始めた彼は,この頃から作曲家兼指揮者としてヨーロッパを股にかけて活躍するようになり,67年まで毎年のように,ドイツ,オーストリア,ハンガリー,ボヘミア,イギリス,ロシアなどの諸都市へ演奏旅行に出かけた。この時期を通じて,彼はメンデルスゾーン,ワーグナー,マイヤベーア,リストらの友情と支援を得たのであった。作品としてはオラトリオ《ファウストの劫罰》(1846),同三部作《キリストの幼時》(1854),《テ・デウム》(1855)などが作曲されている。また,56年にはようやく学士院の会員に選出された。しかし,オペラでの成功は得られず,喜歌劇《ベアトリスとベネディクト》(1862)の公演後も,ベルリオーズが晩年の力を結集して完成させた大部なオペラの傑作《トロイアの人々》(1858)の上演は難航し,63年第2部のみが初演されたが,オリジナルの形での上演はベルリオーズの生前ついに行われなかった。海外では名声を得ていたものの,自国内では中傷や無理解に悩まされ,2度目の妻マリー(1862)にも息子(1867)にも先立たれたベルリオーズは,自身もしだいに健康状態が悪化し,69年パリで他界した。
ベルリオーズは今日ではフランスのロマン派を代表する唯一の作曲家として高い評価を受けている。《幻想交響曲》は,ユゴーの戯曲《エルナニ》と同年に初演され,フランス・ロマン主義の宣言の一つとされるが,彼はこの交響曲に続く諸作で〈標題交響曲〉という分野を開拓した。ベートーベンの後継者と自らをみなしていた彼は,伝統的な交響曲の形式に,絵画的・詩的要素を加え,標題をもった交響曲を創り出した。そして標題と結びつけて全楽章に変形しつつ反復される〈固定楽想〉の手法を編み出し,リスト,ワーグナー,フランク等に深い影響を与えた。さらに柔軟な旋律構造,機能性よりも表出性を重視した和声法,随所に見られる自由な対位法的書法,またリズムのくふうと並んで,楽器の音色を最大限に活用する管弦楽法の開発,通常オーケストラには用いられぬハープやコーラングレ,新しい楽器などを加えた巨大な編成による表現の幅の拡張を行って,色彩的,感動的な作品を生んだ。
《近代の楽器法および管弦楽法》(1844),《回想録》(1870)その他多数の著作や評論を著した。また書翰集がまとめられている。
執筆者:井上 さつき
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フランスの作曲家。南フランスの小村コート・サンタンドレに生まれ、少年時代独学で楽器演奏、作曲を試みる。1821年、医学を学ぶためにパリに出るが、たちまち音楽に魅了され、医学を捨ててパリ音楽院教授ル・シュールに作曲を師事、父の反対にあいながらも自作の発表会などを行う。26年パリ音楽院に入学、翌27年、パリでシェークスピアの作品上演に接し感銘を受け、主演女優スミスソンHarriet Smithson(1800―54)に心ひかれる。また28年から始まったパリ音楽院におけるアブネク指揮のベートーベンの交響曲演奏に衝撃を受け、交響曲の研究を進めるとともに、自らも交響曲作曲に着手、30年に『幻想交響曲』を初演した。この作品は、標題音楽の成立のうえで画期的なもので、標題プログラムには、スミスソンに顧みられることなく終わった恋の体験が反映しているとされる。また、恋人を表す「固定楽想」を、さまざまに変化させながら使うという新手法が採用された。
1830年、新進作曲家の登竜門ローマ大賞を受けてローマに留学、32年帰国。翌33年、短い交際ののちスミスソンと結婚、家計を支えるために音楽評論の執筆を開始するとともに、標題音楽の作曲を進め、バイロンの詩によるビオラ独奏付き交響曲『イタリアのハロルド』(1834)、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(1839)などを発表、また大規模な『レクイエム』(1837)も作曲した。しかし38年に発表したオペラ『ベンベヌート・チェッリーニ』の失敗により、以後長い間オペラ界で活躍することができなくなった。
1842年以後しばしばベルギー、ロシア、ドイツ、イギリスなどへ演奏旅行、自作を指揮し成功を収めるとともに、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ワーグナーなどと交遊した。その一方、序曲『ローマの謝肉祭』(1843)、オラトリオ『ファウストの劫罰(ごうばつ)』(1846)などを作曲・初演し、好評を博した。
パリでの指揮活動の基盤として、1850年にフィルハーモニー協会を設立するが、会員が集まらず1年後に解散。54~58年にかけてオラトリオ『キリストの幼時』や、『テ・デウム』、オペラ『トロイの人々』を作曲、これはベルリオーズの大作創作の最後の時期となった。56年フランスのアカデミー会員に選ばれたが、私生活ではスミスソンの死後再婚した歌手マリー・レシオにも62年に先だたれる。67~68年ロシア演奏旅行で大歓迎を受けたが、69年孤独のうちにパリで死去した。
ベルリオーズは音楽と文学を結び付けることに努め、標題音楽という新ジャンルの基礎を築いた。それによってロマン主義音楽の発展を導いた。この面での彼の影響は、リストやワーグナー、東欧などの国民楽派にみられる。また、オーケストラの各楽器の奏法、楽器の組み合わせ方、編成にくふうを凝らし、従来にない色彩的で効果的な音をオーケストラから導き出すのに成功した。弦楽器の各パートをさらに分割して用いたり、打楽器群、管楽器群の思いきった拡大、各楽器の音色の個性の強調などにより、新しいオーケストラ表現の可能性を切り開いた。また、それまでは特殊な場合にしか用いられなかったイングリッシュ・ホルン、ハープなどの楽器を管弦楽の通常の編成に含めた。この分野における成果は、彼の著書『近代の楽器法と管弦楽法』(1844)に集約され、これは各国語に翻訳されて広く用いられた。
彼の文筆活動は、評論、旅行記、自伝など多方面にわたるが、独自の視点で主観性を強く映した『回想録』が有名。
[美山良夫]
『丹治恆次郎訳『ベルリオーズ回想録』全二冊(1981・白水社)』▽『R・シューマン著、吉田秀和訳『音楽と音楽家』(岩波文庫)』▽『S・ドマルケ著、清水正和・中堀浩和訳『ベルリオーズ』(1972・音楽之友社)』▽『久納慶一著『ベルリオーズ』(1967・音楽之友社)』
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1803~69
フランスのロマン派作曲家。多彩な管絃楽法を駆使して劇的な感情を力強く表現した。標題音楽の創始者の一人でもあり,生前は不遇であったが,その影響は大きい。代表作「幻想交響曲」「ロメオとジュリエット」など。
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…シューマンは第1番《春》(1841)や第3番《ライン》(1850),第4番(1841,改作1851)などで,ピアノ的な発想と語法を背景として,文学的契機を暗示しながらも純音楽的な動機による統一的造形を打ち出している。 一方,19世紀における標題音楽の概念にとって画期的存在となったのは,フランスのベルリオーズの《幻想交響曲》(1830)である。この革命的な作品では,特定の人物を表し物語の筋に従って全5楽章に頻出する同一の旋律(固定楽想)が形式上・内容上の統一性を保証し,また和声法や管弦楽法においても大胆な実験が試みられている。…
…とくに有名な前者では,愛人の住む土地の名前と作曲者自身の姓の綴りから抽出したA,S,C,Hの文字を音名に読みかえて音楽のモティーフを作り,このモティーフから《前口上》《オイゼビウス》《フロレスタン》《ショパン》《休息》《ペリシテ人と戦うダビド同盟の行進》など21の小曲を紡ぎ出す。ほかにパガニーニの《ベネチアの謝肉祭》(1829),ベルリオーズの序曲《ローマの謝肉祭》(1834。本来はオペラ《ベンベヌート・チェリーニ》の第2幕への序曲),サン・サーンスの2台のピアノを含む室内楽組曲《動物の謝肉祭》(1886)などがよく知られている。…
…また,強弱の幅も広げ,より独奏的に扱い,音に象徴性を与え音楽芸術に不可欠なものとした。さらにベルリオーズは音響効果をあげるために16個のティンパニを10人の奏者でハーモニーを奏させたり,音色の変化を求めて桴の改良を試みた。現代では革のほかにプラスチックのものが広く使われている。…
…他方,近世に入ってからは,国家的慶事や戦勝祝賀のために,大規模かつ壮麗なスタイルで作曲されることが多い。このジャンルに属する作品には,ベルサイユの宮廷音楽総監督リュリがルイ14世の病気平癒を祝って作った曲(1677),ヘンデルがイギリス国王の戦勝を祝って作曲した《デッティンゲンのテ・デウム》(1743),ベルリオーズがパリ万国博覧会に際して発表した曲(1855初演),ブリテンが第2次世界大戦の終結を神に感謝して作った《フェスティバル・テ・デウム》(初演1945)などがある。なお特定の機会に結びつくものではないが,広く知られた曲に,ブルックナー(1884),ドボルジャーク(1892),ベルディ(1896)の作品がある。…
…(1)ゲーテ以前の民話によるものにシュポーア作曲のオペラ《ファウスト》(1813)があり,1816年プラハで初演された。(2)ゲーテによるもの (a)ベルリオーズが1846年パリのオペラ・コミック劇場で演奏会形式で上演した劇的伝説《ファウストの劫罰(ごうばつ)》(1846)。ゲーテの作品からいくつかのエピソードを結び合わせたもので,比類ない管弦楽技法で幻想的情景をみごとに描いている。…
…同一種属の楽器による合奏形態であるために,楽器間の音色の融合が楽で,均斉のとれたアンサンブルを特徴としている。 ブラス・バンドは1844年にサクソフォーンの発明者A.サックスが,作曲家ベルリオーズの力を借りてサクソルン属による合奏団をパリにつくったことに始まる。これは地元フランスでは注目されなかったが,イギリスで家族による金管五重奏団を組んでいたディスティンJohn Distin(1793‐1863)が取り入れたところ爆発的な流行をみることとなった。…
…また,オッフェンバックのオペレッタが人気をさらう。この劇場優位の下で,交響音楽も宗教音楽もずっと振るわなかったが,真のロマン主義者と呼べるフランスで唯一人の音楽家ベルリオーズの出現が,その劣勢を大きく挽回する。ただしこれは後世からみての話で,この標題交響曲(《幻想交響曲》ほか)の創始者,《レクイエム》の作曲家の天才を,当時正当に認めた者はごく少数であった。…
…ワーグナー自身はライトモティーフの語を否定したが(彼の用語では〈基礎主題Grundthema〉〈予感動機Ahnungsmotiv〉など),この手法は物語の劇的・心理的展開の手段としてきわめて効果的に活用されている。これはベルリオーズの〈固定楽想idée fixe〉をさらに発展させたものであるが,同様の手法は素朴な形ながら既に初期の歌劇から認められ,必ずしもワーグナーの独創ではない。この概念と手法は,後の作曲家のみならず,トーマス・マンら文学者にも大きな影響を与えた。…
…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…
※「ベルリオーズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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