改訂新版 世界大百科事典 「リューリク朝」の意味・わかりやすい解説
リューリク朝 (リューリクちょう)
ロシアの王朝。その元祖はリューリク(在位?-879)。ロシア最古の年代記《原初年代記》によると,内紛に悩むロシア諸族は〈海のかなた〉のワリャーギ(ノルマン)の下に使者を遣わし,彼らを統治する公を求めた。この招請に応じてやって来たのがリューリクを長兄とする3人の兄弟であったという。リューリクの死後その子イーゴリを擁したオレーグが882年キエフを占領し,ここにリューリク朝の基礎が築かれた。以後キエフ大公位はすべてリューリクの子孫が占めることとなった。このことはキエフ大公国分裂後も同様で,ロシアの公位はすべて,16世紀に至るまでリューリク一門によって独占された。ただこの一門は時とともに複雑に分岐したので,ときにはモノマフ一門とかオレーグ一門とか別の名称でよばれることもあった。13世紀から台頭してきたモスクワ公家はウラジーミル・スーズダリのモノマフ一門に発する家系で,15世紀中ごろからは実質的にこのモスクワ公家のリューリク朝がロシア唯一の支配者家系となった。1547年にはモスクワ大公のイワン4世(雷帝)が〈ツァーリ〉の称号を公式に名のり,リューリク朝の威信を高めた。リューリク朝最後のツァーリはこのイワンの子フョードルである。1598年フョードルの死により王朝としてのリューリク朝は断絶し,ボリス・ゴドゥノフらの支配を経て,1613年,ミハイル・ロマノフの即位とともにロマノフ朝の時代が始まることになる。
執筆者:栗生沢 猛夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報