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ルイ・フィリップ Louis-Philippe

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ルイ・フィリップ
Louis-Philippe

[生]1773.10.6. パリ
[没]1850.8.26. サーリ,クレアモント
フランス王 (在位 1830~48) 。オルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子。バロア公,シャルトル公,オルレアン公を経てフランス王となった。フランス革命のときジャコバン・クラブに入り,また国民軍将校としてバルミー,ジュマップの戦いに参加した。 1793年1月国民公会で国王ルイ 16世の処刑が決定されると,革命の立場を捨てスイスに亡命。同年 11月山岳派によって父が処刑されると,オルレアン公の地位を継ぎオルレアン王朝派の中心的存在となった。 95~96年スカンジナビアを旅行し,次いでアメリカに渡った。 1809年ナポリ王フェルディナンド4世の娘マリア・アメリアと結婚。 14年第1次王政復古とともに帰国し,自由主義者たちと接近した。 15年ナポレオン1世の「百日天下」の際はイギリスに亡命したが,第2次王政復古で帰国。旧所領と財産の再建に力を入れた。 30年七月革命のとき王国総代理官を自称し,銀行家 J.ラフィットと自由主義政治家の支持を受け,「フランス国王」でなく,「フランス人の王」 Roi des Françaisとして即位,七月王政を開始した。彼の時代には,うちつづく経済不況の圧力を受けた労働者階級の運動が空前の発展をみせ,政府はこれを弾圧,さらに外交上の失敗から,また最終的には,彼の狭量な保守主義と政治・社会問題を解決する意志のないことから,48年二月革命が起った。彼は孫のパリ伯ルイ・フィリップ・アルベールに王位を譲ったが,王政は廃止され,イギリスに亡命した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ルイ・フィリップ
るいふぃりっぷ
Louis Philippe
(1773―1850)

オルレアン公、フランス王(在位1830~48)。父は進歩的貴族としてフランス革命期に活躍し、恐怖政治時代に刑死したフィリップ・エガリテ(平等公)Philippe galit(正称Louis Philippe Joseph, duc d'Orlans、1747―93)である。彼自身も革命時にはジャコバン・クラブに入り、革命戦争にも参加したが、1793年3月ネールビンデンの敗戦後、司令官デュムーリエの反革命陰謀に加担して失敗、以後約20年間ヨーロッパ各地およびアメリカで亡命生活を送った。
 1814年、王政復古とともに帰国し、亡命以来国家に没収されていた広大な所有地の返還を受けた。彼は復古王政期から自由主義的反政府派の後援者として知られていたが、30年の七月革命によりラフィットらのオルレアン派ブルジョアに推されて「フランス人の王ルイ・フィリップ1世」として即位、7月王政を始めた。王は初め中道左派のラフィットに政府をゆだねたが、31年3月以降ペリエ、ブロイ公ら保守派の政治家を登用して国内秩序の確立、大ブルジョアの寡頭支配の安定化に努めた。当時のフランスでは議会政治の慣行が成立しつつあったが、王はイギリス風の立憲君主であることに満足せず、自ら国政に指導的役割を果たそうとして内閣、議会としばしば対立し、39年の下院選挙では王の個人支配に反対する野党連合が勝利を収めた。しかし40年以降、内閣の中心ギゾーの全面的協力と議会多数派の支持のもとに、国内ではいっさいの政治的・社会的改革の拒否、対外的にはイギリスとの協調政策という自己の政治路線を強力に推進することができた。しかしこの頑迷な保守政治は中小ブルジョア、労働者らの不満を激化させ、ついに48年2月パリに革命的騒乱が勃発(ぼっぱつ)、7月王政は崩壊する(二月革命)。王は首相ギゾーを解任して事態を収拾しようとしたが、時すでに遅く、王位を孫パリ伯に譲ってイギリスに亡命、2年後の50年8月26日同地で没した。[服部春彦]

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