出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカのプロ野球選手(左投左打)。本名George Herman Ruth。1914年ボストン・レッドソックスに入団、最初は投手であったが打撃の天分を買われてニューヨーク・ヤンキースに移り、外野手・3番打者として1918年から1931年(1922年・1925年を除く)まで12回本塁打王となった。また、通算本塁打数714、通算打点数2213、通算四球数2062、通算三振数1330など、当時の大リーグ記録を次々に塗りかえた。1シーズンにおける塁打数457(1921)は現在も大リーグ記録である。1935年に引退。
[神田順治]
22年間の通算成績は、出場試合2503、安打2873、打率3割4分2厘、本塁打714、打点2213。獲得したおもなタイトルは、首位打者1回、本塁打王12回、打点王6回、最優秀選手(MVP)1回。1936年に野球殿堂入り。
[編集部]
『ルース著、宮川毅訳『不滅の714本塁打への道――ベーブ・ルース自伝』(1973・ベースボール・マガジン社)』
アメリカの雑誌編集者、発行者。エール大学卒業。1921年『シカゴ・デーリー・ニューズ』紙の記者となり、1923年友人のハッデンBriton Hadden(1898―1929)とともにニュース週刊誌『タイム』を創刊。切り込むような文章と個性を強調する文体で、斬新(ざんしん)な編集スタイルを確立した。また、1930年に『フォーチュン』誌、1936年には大衆向け写真誌『ライフ』、1954年『スポーツ・イラストレイテッド』誌などを創刊して、一大雑誌王国を築いた。一方、政治的にも影響力をもち、アメリカ資本主義の強力な擁護者としての役割を果たすと同時に、反共産主義、南ベトナム政府支持を主張、しばしば、自分の発行する雑誌で共和党支援を展開した。
[鈴木ケイ]
アメリカの大リーグ野球選手。本名はGeorge Herman Ruth。童顔のためベーブ(赤ん坊)と愛称された。ボルティモア(メリーランド州)に生まれる。貧しい環境で育ったが,少年期に野球に親しみ,非行化から免れた。1912年から,ペンシルベニアのセミプロチームで投手として働いていたが,14年大リーグのボストン・レッド・ソックスに認められ,入団して投手となる。打者としても,天才的な能力を発揮し,19年本塁打29本を放って話題となり,20年ニューヨーク・ヤンキースに当時としては破格の12万5000ドルでトレードされ,3番打者,外野手として活躍した。打席に立ったとき,本塁打の飛ぶ方向を指すのが評判になった。野球がアメリカの国民的ゲームとして人気を集めたのは,ルースの功績とされる。27年には,154試合を通じて本塁打60本の大記録を作り,ホームラン王となった。35年ボストン・ブレーブスを最後に引退したが,本塁打総数714は,74年にハンク・アーロンHenry(Hank)Louis Aaron(1934- )が破るまで,大リーグ記録として輝いた。本塁打王12回,打点2209,四球2056,打率3割4分2厘の記録を残した。引退後はベーブ・ルース財団を設立,恵まれぬ子どもたちへの福祉事業に打ち込んだ。34年全米選抜チームの選手として来日した。
執筆者:川本 信正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…1933年アメリカ大リーグで第1回のオールスター・ゲームが行われた。〈ベーブ・ルース(ヤンキース)がカール・ハッベル(ジャイアンツ)の球を打つような試合が見たい〉という一少年ファンのことばをヒントに,その年シカゴで行われた万国博覧会の催しとしてナショナル・リーグ対アメリカン・リーグの試合が実現した。当時を代表する好投手ハッベルはナ・リーグ,大打者ルースはア・リーグだったため,2人の対決はワールド・シリーズ以外では見ることができず,この試みは大成功だった。…
※「ルース」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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