オランダの風景画家。伯父と甥の二人がいる。正しくはライスダールと読む。
(1)サロモンSalomon van Ruysdael(1600ころ-70) ナールデンNaardenに生まれ,1623年の画家組合入会以後没するまでハールレムで活動。エサイアス・ファン・デ・フェルデの影響下から出発し,1620年代末から40年代半ばにかけて低い地平線,低い視点,きわめて限定された色彩,光の効果と雰囲気に対する周到な配慮などを特徴とする〈単色様式〉の風景画を同世代のファン・ホイエンとともに確立した。しかし晩年には,同じくオランダのありふれた村や川辺を題材にしつつも,より構築的で明暗の鋭い対比を示す画風に移行した。
(2)ヤコプJacob van Ruisdael(1628か29-82) サロモンの甥。ハールレムに生まれ,おそらく額造り兼画商の父イサークに手ほどきを受けた後,1648年同市の画家組合に入会。57年以前にアムステルダムに移住し,小旅行を除いては没するまで同市で活動した。17世紀オランダ最大の風景画家で,前世代のサロモンやファン・ホイエンの静穏な作品に比べ,顕著な主要モティーフによる緊密で明確な構成と光と影のドラマティックな交錯を特徴とする彼の絵は,雄大で荘厳な趣に富み,大自然の宿す情念の存在を観者に印象づける。初期にはフロームC.Vroomの影響を示す砂丘や木立を描いたが,50年代には滝のある北欧風の渓谷やベントハイムの城郭に想を得た一連の山岳と森林の風景によって個性と定評を確立した。一般にオランダの写実的風景画の代表とされるにもかかわらず,彼の絵には異国的モティーフの導入によって,平坦な故国には見られぬ自然のドラマを現出させたものが少なからずあり,またその大半は構想による合成風景である。60年代の作品としては故郷ハールレム近郊の一連の俯瞰眺望図が名高く,画面の3分の2以上を占める空の雲の雄渾(ゆうこん)な表現は風景画史上画期的な意義をもつ。扱う題材は幅広く,この他薄暗い冬の村落や森の中の沼地,嵐の海などを繰り返し描いており,晩年にはアムステルダムを舞台にした都市景観画も制作している。生前にはイタリア風風景画に押されてさほどの一般的人気を博さなかったが,のち彼の絵は弟子ホッベマの作品とともに18世紀のイギリス絵画,19世紀のフランスおよびドイツ絵画に大きな影響を及ぼした。なお彼は外科医としても活動したと伝えられており,これを裏づけるかのごとき文書も存在するが,同名の別人説も根強く,この件については研究者の立場は二分している。
執筆者:高橋 達史
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オランダの画家。ハールレムに生まれ、アムステルダムで没したと推定される。風景画家として有名なロイスダール家の一員で、父イサクIsaack(1599―1677)および叔父サロモンSalomon(1600ころ―70)について絵を学んだ。1648年にハールレムの画家組合に登録され、57年ごろからアムステルダムで活躍した。彼は医者で、ラテン語の教師でもあったようである。作風は50年代のなかば以降に確立されたが、それは自然の皮相な観察を超えて、雲と風と水の劇的なたたずまいの下で繰り広げられる悲壮美を表しており、しばしば枯死した巨木や廃墟(はいきょ)や墓地や山の城塞(じょうさい)などを配した画面が特徴的である。たとえば55年の『ユダヤ人墓地』(ドレスデン国立絵画館)では、荒涼とした渓谷の上を走る雷雲、中世の廃墟と古代の墓地を横切って流れる水が、画面に沈鬱(ちんうつ)な気分を醸し出している。すべて目に触れる地上の事物や人間の営為のむなしさを物語る幻想的なこの種の風景画は、不安と憂愁に満ちた魂から生まれた自然観照に由来しており、近代的なロマンチシズムの自然観を先取りしている。
[野村太郎]
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